175手目 申命館大学将棋部
申命館大学は、古都大からバスで行ける距離にあった。
おしゃれな半円の建物を中心に、小ぎれいなキャンパスが広がっている。
緑の山々を背景にしていて、すがすがしい。
ところが、そんな遠足気分とはうらはらに、部室の空気はかんばしくなかった。
「こ〜ま〜ご〜め〜、だれが定例会に部外者をつれて来ていいと言った?」
藤堂さんはメガネをなおしながら、オールバックのひたいに青筋を立てた。
「私が決めたのよ」
「おまえに決定権はないだろう」
「なんで? 姫ちゃんが来たときにだれかの許可取ったの?」
「姫野は古都大で、しかも関西大学将棋連合の副会長だぞ」
「そういう身分差別、身内びいきはおかしいでしょ」
あいかわらず口がお達者で。
私たちはちょっと居づらい雰囲気、かと思いきや、問題視してるのは藤堂さんくらいのもので、ほかの部員は物珍しそうに私たちを観察していた。藤堂さんと歩美先輩と宗像くん以外に見かけたことがあるのは……うーん、いないわね。いや、この時点で3人も知ってるわけだから、それだけでもけっこうな確率か。
しかも、申命館陣営は私たちのことをわりと知ってるっぽくて、
「あの子、東西戦で副将だったひとだね」
「となりはT島の大谷だな。そういえば東京へ行ったんだ」
と、ひそひそ声で会話していた。
おほほほ、有名人でごめんあそばせ。
とはいえ、藤堂さんの不満はおさまってなくて、
「だいたい、駒込は前期の単位をとれたのか?」
と、なぜか学業の話に飛び火していた。
「私の単位数は今関係ないでしょ」
「このままだと4年で卒業できなくなるぞ」
「恭二はどうなのよ? かなり落としてるんじゃないの?」
どんどん延焼させていくスタイル。
奥のソファーに寝っ転がって『将棋ワールド』を読んでいた宗像くんは、
「うるせーな、なんでこっちに話をふるんだよ」
とぼやいた。でも、歩美先輩には馬耳東風で、
「うるせーな、じゃないでしょ。先週、ちょぼ三郎でおごってあげた恩を返しなさい」
と、わけのわからない催促を始めた。
「ラーメンおごったくらいで恩を売るなよ。しかも駒込が行きたがっただけだろ」
歩美先輩はいきなりスマホを取り出した。なにやら操作をする。
《駒込、なんか腹減んない? 俺、将棋指すと腹減るんだよね。このへんにうまいラーメン屋があるらしいんだけど、家に財布忘れて来てさ。ちょっとおごって欲しいなぁ、なんて思ったりして……》
宗像くんは顔を真っ赤にしてソファーから飛びあがった。
大慌てでスマホをとりあげる。
「なに録音してるんだよッ!?」
「『駒込が行きたがっただけ』っていうウソを反証してるのよ。要求に答えてラーメンをおごったんだから、要求に答えて藤堂と戦いなさい」
宗像くんは地団駄を踏んだ。
「くっそ〜、マジでこの女だけは苦手なんだよ。おい、藤堂、こいつがめんどくさいからもう裏見と大谷の参加は認めろ。いいな? でないと俺は帰るぜ」
「ぐッ……おまえに帰られると困る。今回だけ特別に認めよう」
やった。一件落着。
この茶番をながめていた大谷さんはひとこと、
「なにか社会の縮図を見たような気がします」
とささやいた。たしかに。
いずれにせよ、これで申命館の内偵ができるわね。
私たちは定例会の開催を見守る。
「それでは、2016年度8月の定例会を始める。いつもの通り、MINEで返信をした順番でペアを組む。そして、またMINEで返信をしなかった部員が2名いるな。そう、駒込と宗像だ。というわけで駒込と宗像で組む予定だったが、今回はちょうど客人が2人いることに鑑みて、宗像vs大谷、駒込vs裏見を1回戦とする。いいな?」
あッ……これはなんか逆手にとられた予感。
私たちの棋力をさぐりにこられた気がした。
だけど、反論のしようもない。私たちは座敷にあがって、それぞれ盤についた。本榧の6寸盤だ。すごい。うちなんかビニール盤を使ってることもあるのに。
藤堂さんも端っこの盤に座る。
「先後を決めてくれ」
振り駒の指示が出されて、歩美先輩が振った。歩が4枚で、歩美先輩の先手。
「15分30秒だ。対局準備はできているな? ……では、はじめ」
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
私がチェスクロを押して、対局開始。
先輩と指すの、ほんとにひさしぶり。はりきっていきましょう。
7六歩、8四歩、2六歩、3二金。
「角換わりに誘導か……乗るわね。7八金」
8五歩、7七角、3四歩、6八銀。
さてさて、この順に誘ったのは、ちょっとわけがあるのよね。
「4四歩」
歩美先輩はこの手をみて、
「陽動振り飛車……じゃないわよね。流行りの雁木」
とつぶやいた。
そうです。帝大の氷室くんが言っていたように、なぜか雁木が流行ってきてる。
私も戦法のバリエーションを増やしてみたい。
その試作品を、昔なじみの歩美先輩にぶつけてみる。
「それも受けるわ。4八銀」
4二銀、4六歩、6二銀、4七銀。
右四間っぽいかたち……未完成な分野だから、なにをされてもおかしくはない。
5四歩、6九玉、5三銀右、7九玉、5二金、3六歩。
先手は右金を動かしてこない。
となると、ほんとに5六銀〜4八飛と振ってくる可能性がある。
けど、それで潰れるほど雁木はヤワじゃないでしょ。多分。
私は4一玉と寄った。
2五歩、3三角、3七桂、3一玉。
「4八金」
ん……あ、2九飛と引くつもりか。
あくまでも普通の腰掛け銀で潰す、と。
だったらこっちは受けて構えることになる。
「4三銀です」
「なんで今頃になって雁木なのかしらね。むかしはB級戦法だったと思うけど」
歩美先輩はそう言いながら、5六銀と上がった。
さいですね。
とはいえ、理屈が分からなくても勝率が高いものは流行るのが将棋界。
そのへんは実用主義なのよね。
6四歩、1六歩、1四歩、9六歩、9四歩。
「2九飛」
ふむ……これって、入城しない方針なのかしら。
ありえる。ここからの先手の攻めは、4五歩からの角交換だ。
8八に王様がいるのは必ずしもいいとはいえない。
私はとりあえず7四歩でかたちを作っておく。放置なら7三桂といきたい。
「……」
歩美先輩、長考。
このようすだと、4五歩っぽいわね。4五歩、同歩、3三角成、同桂とストレートにいくか、それとも別の筋も絡めるか。私はまだ7三桂と跳ねていないから、7五歩を絡める意味はない。先手陣にプレッシャーがかかるだけだ。となると……1五歩か3五歩は絡めてきそうかな。4五歩、同歩、3三角成、同桂、1五歩……ん、ちょっと待ってよ。
私はここで考えなおした。先手から角交換してくる保証はないわよね。手損になる。できれば後手から7七角成として欲しいはずだ。ということは、現局面から4五歩、同歩、1五歩と即座に絡めて、同歩、3五歩――
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
これが本線かしら……3五同歩……あ、ちがうわ。
3五同歩は4五桂以下の攻めが厳しすぎる。3五の歩は取れない。
歩美先輩も攻めきれるとみたらしく、
「いけそうかな……4五歩」
と突いてきた。
私は姿勢をただす。長考。
さっきの筋はマズい……けど、回避するのもむずかしい。ここからの指し手は、一直線に近い。変えるところがあるとすれば、1五歩か3五歩と絡まれたとき、取らずに8六歩くらいかなぁ。同歩……8五歩と継いで、同歩に8六歩と垂らす?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
できなくは……ないか。歩切れになるのが気になるけど、まあ。
問題は、この順で3三角成、同桂に4四歩、同銀右、3四歩が成立してしまうことだ。これを同銀は7一角の飛車銀両取りをくらってしまう。ここで同銀とできないなら、3六歩と打って殴り合いに持ち込むしかないわよね。
私はチェスクロを確認した。残り8分。
「同歩です」
私は4五の歩を払った。
1五歩、同歩、3五歩。
私は8六歩と突いて攻め合う。
同歩、8五歩。
この手をみて、歩美先輩は、
「攻め合いってわけか……となると、桂頭からの左右挟撃が狙いね」
と看破してきた。まあバレてるわよね。
「組み合わせ的にちょっと悩ましいけど、同歩」
8六歩、3三角成、同桂、4四歩、同銀右、3四歩。
パシリ
私はさっき手に入れたばかりの歩で、桂頭を叩いた。
「3三歩成」
ぐぅ、そうくるわよね。同銀は4五桂で逃げられてしまう。
「同金」
「4五桂」
それでも跳ねてくるんだ……飛車を深く引いてるから2四歩かと思っていた。
とはいえ、これも厳しい。金を逃げるようでは歩を打たれて終わる。
「同銀です」
「2四歩」
畳み掛けてきた。ここは辛抱。
というのも、この先にひらめいた手があるからだ。
同歩、4五銀。
この瞬間を狙って、私は飛車を動かす。
「8五飛ですッ!」
わりと会心。
歩美先輩も感心したような顔つき。
と言っても、付き合いが長くないとわからないレベル。
「なるほどね……4五の銀に当たってるから、7七桂や8八歩は効かない、と」
おっしゃる通りで。3四歩と攻めてくるなら、そのまま8七歩成と突っ込む。これが激痛。理由は簡単だ。以下、3三歩成、7八と、同玉、8七角が決まれば私の勝ち。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
8八玉は6九角成、9八玉、8七飛成までだし、7九玉は7八金の1手詰め。7七玉と逃げるのも、6五桂、6六玉、5五金で詰む。角換わりでたまにみる頓死筋だ。
歩美先輩はのこり5分の時間を投入し始めた。
私も一心不乱に読む。8八歩と受けるのが本線。
「……こうかしらね」
パシリ
ん? ……角打ち?
8八に利かせる意味はないわよ。そこは詰みと関係がな……あッ!
8七歩成、3三角成、7八と、同玉、8七角、7七玉、6五桂、6六玉、5五金に同馬の受けがあるのかッ! お、王様の周りじゃなくて5五の地点を受けるなんて、まったく読んでなかった。
で、でも、角金交換でしょ? 採算が……ちがう、角と金2枚の交換だ。
4五飛とスライドさせて、金銀両取りをかける? ……ダメか。4五飛には放置して4三銀成、4八飛成、3二成銀、同玉、3三角成。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
これで詰み。かと言って、4三銀成に同飛じゃ守りになっていない。
私は考え込んだ。明らかに形勢が悪い。
「……4四歩」
「8七歩成、3三角成、7八と、同玉、8七角、7七玉、6五桂、6六玉に7六角成、5六玉まで決める順もあったような気がするけど、そっちが無難よね。3四歩」
4五歩と取れない。予定が完全に破綻した。
「3二金……です」
「かたちが雁木にもどったわね。4四銀」
ぐはぁ、攻守逆転。
うーん、まいった。どうしましょう。