170手目 期末試験は恋の予感?
翌日――松平が、部室でまっしろになっていた。
ソファに横たわって、胸のうえで手を組んでいる。
「どうしたの?」
私は荷物を置きながら話しかけた。
松平は死にそうな声で、
「裏見……年下が好きだったのか……」
とつぶやいた。はい? なんの話?
「松平、どうしたの? 熱中症かなにか?」
私が心配して熱を計ろうとすると、テーブルについていた風切先輩が、
「おーい、裏見、この写真見てから松平のようすがおかしいんだが」
と言って、スマホを見せてきた。私はそちらをのぞきこむ。
私と不破くんが写っていた。電灯の下で話したときのシーンだった。
「麻雀大会に出てたのか? 麻雀できないって言ってたよな? 推しの応援か?」
あッ……もしかして、不破煌のおっかけだと思われてるっぽい?
これは誤解を解く必要が……あ、でも、麻雀大会の偵察は穂積さんにすら話していないから……私が迷っていると、風切先輩は、
「あ、うん、年下でもいいと思うぞ。ひとそれぞれだからな」
と、なんだか妙なことを言い出した。
「ち、ちがいますッ! これは……」
かくかくしかじか。めんどくさい誤解を受けると困るので暴露する。
風切先輩は、途中からけげんそうな顔をして、
「もこっちの頼みで、みわっちと一緒にスパイ?」
とたずねかえした。
「スパイというか……私もよくわかってないんですけど……」
風切先輩はあきれたように椅子を引いた。
「危ないことしてるなぁ。麻雀業界は将棋界ほどケンゼンなわけじゃないぞ」
「いや、まあ、そうかもしれないですけど……先輩の頼みでことわりにくくて……」
「そういう場合は俺に言ってくれていいんだぜ。もこっちは、関東大学将棋界のドンみたいな雰囲気があるし、来年度は会長候補って話だが、そんなの気にする必要ないんだ」
三和先輩とおなじことを言われてしまった。正論。
ちょっと速水先輩の圧に押されすぎたかも。高校生気分も抜けてなかったし。
「ありがとうございます。微妙なケースは、こんどから相談させていただき……」
「う〜ら〜み〜」
うしろから松平に声をかけられる。松平はソファから起き上がっていた。
「裏見、こいつは彼氏じゃないんだなッ!?」
もぉ、なんでそういう早とちりをするかなぁ。
「ちがうわよ。たまたま会場の出口で会ったの」
私の確答に、松平はホッとしたような表情。
「そうだよな。さすがに3つも年下の高校生と付き合うのはないよな」
「おーい、松平、明日から来なくていいぞ」
「違うんですッ! 風切先輩ッ! 今のは取り消しますッ! 年上の女性最高ッ!」
えーいッ! 男子どもッ! 欲望のままに会話するなぁああああッ!
しっかりしなさいッ!
○
。
.
ハァ……私はタメ息をついた。
ここは都ノ大学のカフェテラス。
試験シーズンが近づいてきて、今日も学生でごったがえしている。
【食事優先】という張り紙はあるけど、みんな教科書やノートを広げていた。
私たちは午後のティータイム。
正面には、大谷さんとララさんが座っていた。
「なるほど、部室は煩悩にまみれている、と」
「そうなの」
私はもういちどタメ息をついて、アイスティーを口にした。
ララさんは、メロンソーダを飲みながら、
「Por que não? 年下でもいいじゃな〜い、ね?」
とコメント。そこを問題にしてるわけじゃないんだけどなぁ。
ララさんは恋話のことだとカンちがいしたらしい。
「将棋部はアクティビティが足りないよ。せっかくいい男がそろってるんだから、もっと女の子に声かけないと。今日はデートにいい日ねぇ、みたいな」
いやいやいや、ラテンのノリはダメ……ってわけじゃないけど、個人的にキツい。
ララさんはさらに話をふくらませる。
「香子ももっと遊ばないとダメだよ。こんど渋谷109でショッピングしよ」
「お金がないの。それに、遊び方もよくわかんないし」
「簡単だよ。香子とララでいっしょに歩けばナンパされるから、おごらせて勝ち」
ナンパはNG。ああいうの、なにされるかわかんないし。
私がノリ気じゃないのをみて、ララさんは不満げ。
「ぶぅ、香子、ひよこに影響受けすぎじゃない? シュッケするの早いよ?」
「いや、私がこういう性格なのは大谷さんのせいじゃないから」
大谷さんは私とララさんのあいだで距離をとる。
「仏教でも五欲といって、財欲・色欲・飲食欲・名誉欲・睡眠欲は煩悩に数えいれられています。しかし、これらを断ち切ることはできません。仏陀最後の説法集である『仏垂般涅槃略説教誡教』にも【当に五根を制して、放逸にして五欲に入らしむること勿るべし】と書かれています。欲望に身を任せるのがよくないのであって、無欲になることを勧めているわけではありません。そのコントロールの仕方もまた、ひとそれぞれでしょう」
はえぇ、すっごい。これがサトリ系女子?
なんだか、小難しい話でごまかされた気もする。
「とにかく、松平も失言が多いのよ。風切先輩が笑って済ませてくれたからよかったものの、相手が相手ならケンカになってたわ。私が他の男とつきあってないことに安堵して、思わずポロっと出ちゃったのかもしれないけど」
「香子、いっつもそのノロケ話してるね」
だからちがうっちゅーねんッ! ノロケてないしッ!
「まあまあ、おふたかた、拙僧とて、将棋部は精到円満であっていただきたいと考えておりますゆえ、しばらくは冷却期間を置くのもありかと思います」
冷却期間? なんのことかと、私はたずねた。
「もちろん試験勉強です」
うへぇ、思い出させないでぇ。
とはいえ、7月末から8月の第1週にかけて試験だ。
大学生活最初のテスト、はりきっていくわよッ! 裏見香子、いざ出陣ッ!
***** 基礎数学1 *****
以下の2変数関数が与えられているとき、
δz/δx=0かつδz/δy=0を満たす(x,y)を求めなさい。
z=3x^2+2xy+y^2-2x+2y
第1問は偏微分か……思ったより簡単ね。
xで偏微分した場合はδz/δx=6x+2y-2
yで偏微分した場合はδz/δy=2x+2y+2
これで両式がどちらも0なわけだから、連立方程式、
6x+2y-2=0
2x+2y+2=0
の解を出して終わり……x=1,y=-2ね。はい、次。
*** 経済思想史 ***
サラマンカ学派の経済思想を具体的に2つ挙げて説明しなさい。
えーと、たしか16世紀頃のスペインの学派よね。サラマンカ学派の経済理論への貢献は……えーと、利息の一部許容、貨幣数量説、購買力平価説。利息はキリスト教で禁止されていたのに、ある程度取ってもいいっていう理論ができたらしい。でも、あれは宗教の話が絡んでてよくわからなかった。だから、貨幣数量説と購買力平価説にしましょ。
貨幣数量説は、スペインが南米大陸から貴金属を大量に持ち帰ったあと、スペイン国内で物価が高騰したことに対する考察から生まれた考えね。貨幣の増加により物価も自動的に増加する、つまり、貨幣が増える=富が増えるという常識が成り立たなくなった、と。お金を増やすだけじゃ、中・長期的には買える物の量は増えない。現代のマネタリストの祖先で、アベノミクスとも間接的に関係してるんだわ。こっちは書けそう。
購買力平価説は、世界が完全自由貿易の場合、一物一価(1つのものには世界的に共通な1つの価格)が成り立つと仮定する。この仮定のもとでは、あらゆる商品について、A国での価格÷基準地の価格=均衡為替相場=絶対的購買力平価が成立する。ただし、完全自由貿易という前提が実際はあてはまらないし、インフレ格差も織り込んでいないから、現実には成立しない。それに、これを厳密に定式化したのは20世紀のスウェーデンの経済学者であって、サラマンカ学派じゃないのよね。でも、サラマンカ学派は、似たような発想で、2国間の通貨を交換する取引に正当性を与えた。つまり、物価が割高な国の貨幣が売られて、割安な貨幣が買われることで、ヨーロッパ全体の価格差が縮まるように人々は行動している、ってわけ。これが今のFXの原型だ。
以上を順番に書いて、それから、近代経済学とは違って議論がそこまで精緻じゃないことも書いて――カリカリカリ
*** ゲーム理論1 ***
以下の利得行列における太郎くんと花子さんの、
純戦略ナッシュ均衡と混合戦略ナッシュ均衡をそれぞれ求めなさい。
えーと、まずは純戦略……あッ、この場合はナッシュ均衡がないのか。どの戦略の組み合わせでも、自分が戦略を変更することで利得を増やすことができる。純戦略ナッシュ均衡は【なし】が答え。
だったら、混合戦略で考える必要があるわね。混合戦略は確率設定だから、それぞれ変数を割り振って――
太郎くんが戦略Lを選ぶ確率 p
太郎くんが戦略Rを選ぶ確率 1-p
花子さんが戦略Lを選ぶ確率 q
花子さんが戦略Rを選ぶ確率 1-q
と設定して、以下の2つの方程式を解く。
2q - (1 - q) = -2q + (1 - q)
-2p + 2(1 - p) = -p + (1 - p)
上の式はq=1/3、下の式はp=1/2
つまり――
太郎くんが戦略Lを選ぶ確率 1/2
太郎くんが戦略Rを選ぶ確率 1/2
花子さんが戦略Lを選ぶ確率 1/3
花子さんが戦略Rを選ぶ確率 2/3
これが混合戦略ナッシュ均衡だ。よしよしよし。
第2問は――
うらっしゃぁあああああああああああッ!
完答した……はず。多分。一応ぜんぶ埋めた。
「裏見、教室のまえでなにガッツポーズしてるんだ?」
ととと、三宅先輩。
「今日でテストが終わったので、ちょっと気合いを解放してました」
「そうか。俺もこの科目で終わったぞ」
「あ、おなじ科目だったんですね……あれ? これって1年生の必修科目じゃ……」
「今日も天気がいいなぁ。部室行こっと」
あ、はい、お察し。
とりあえず、私も部室へ向かう。2週間ぶりくらいかな。
テラスのまえを歩きながら、三宅先輩と夏休みの予定を確認した。
「部の合宿とかは、あるんですか?」
「んー、考え中。風切は『べつによくないか?』って言ってるけど、俺は行きたい」
「穂積お兄さんは?」
「どっちでもいい、だと」
2年生で意見が分かれてるわけか。私は合宿に賛成かな。高校のときも1泊したし。
「ちなみに、三宅先輩はどこを予定してるんですか?」
「熱海だ」
「……熱海?」
「ん? イヤか?」
私は正直に言うかどうか迷った。けど、おべっかを使ってもしょうがない。
「熱海って、なんというか……ちょっとさびれたイメージが……」
「むかしみたいな活気はないみたいだな。でも、大学の宿泊施設があって、会議室とかレクリエーションルームも安く使えるんだ。変に遠出してホテルに泊まるよりいい」
「熱海に大学の施設があるんですか?」
「ああ、他の大学もけっこうあのあたりに持ってるみたいなんだ。だから、どこかの大学と合同合宿もいいかな、と思ってる。ただ、もしかすると風切はそれがイヤなのかもしれないな。あいつ、けっこう有名人だから」
なるほど、そういうことか。指導対局してください、とかはめんどくさそう。
「時期はいつですか?」
「試験も終わったし、お盆は帰る部員もいるだろうから、8月下旬を予定してる。べつに2年生で決めるわけじゃないから、MINEでどんどん意見回してくれ」
三宅先輩はそう言いながら、部室のドアをあけた。
松平と穂積お兄さんが、テーブルに隣り合って座っていた。将棋――じゃないわね。
なにやら勉強をしているようだ。しかも、穂積お兄さんが教えるがわ。
「そうそう、最急降下法でコスト計算して……ステップ幅係数はdouble kk=0.00001でいいんじゃないかな。そこから収束判定のコードを書くんだ」
「えーと……while文ですよね?」
「うん、まずは偏微分の式、次に微分係数にkkをかけてステップ幅にする式を書いて、そこからコスト計算に移ればいいんだよ。最小値を与える解の保存を忘れないでね」
はえぇ、むずかしそう。松平は、うんうんうなりながらパソコンを打つ。
そばで観察していると、穂積お兄さんが顔をあげた。
「あ、裏見さん、こんにちは」
「こんにちは……テスト勉強ですか?」
「松平くんの【プログラミング演習】の手伝いだよ。コードが動かないから修正中」
た、単位認定的にダメなのでは?
それとも、理工系だと協力し合うのがあたりまえなの?
「プログラミングって、JAVAとかですか?」
「C++でSLAMを書いてるんだ。今やってるのはコスト関数の最小化のclass作成」
もうよくわからない。と、邪魔しないほうがいいかも。
私が移動しようとすると、松平に呼び止められた。
「裏見、ちょっと時間あるか?」
「え? 私? ……あるけど、さすがに手伝えないわよ?」
「いや、これは関係ないんだ……穂積先輩、すこし待っててもらえますか?」
「いいよ。休憩にしようか」
松平は廊下に出て、私をちょっと離れた場所につれだした。
サークル棟のうらてで、ひとがほとんど通らない場所だ。
木々の根元に、野の花が咲いている。夏の陽射し。蝉の声。
「どうしたの? まさか、また変な脅迫文が届いたとか?」
「いや、じつはな……」
松平は話をすぐに切り出さなかった。ようすが変。
もういちど尋ねようとしたところで、ようやくポケットから何かをとりだした。
「工学部の知り合いから映画のチケットもらったんだ。ちょうど2枚あって、次の日曜日に……その……俺とデートしないか?」