169手目 思い出には早すぎて
※ここからは、香子ちゃん視点です。
あ、もどってきた。
観戦ホールの入り口に、三和先輩と穂積さんがあらわれた。
ちょっと遅かったわね。スクリーンから消えて、間があったような。
とりあえず労をねぎらう。
「おつかれさまでした」
私が声をかけるまで、三和先輩は妙に深刻そうな顔をしていた。
まさか、という疑念がわきおこる。
「あの南原っていう女性、ほんとに賭博の……」
「あ、ごめん、麻雀のこと考えてた」
三和先輩はそう言って、周囲に視線をはしらせた。声を落とす。
「裏見さんは、なにか気づいたことある?」
「特には……対局は見ててもぜんぜん分からなかったので……」
やっぱり人選ミスなんじゃないかなぁ。私はほとんど役に立っていない。
三和先輩は、喉がかわいたと言って、私だけをドリンクコーナーに誘った。なにかの相談の合図だと、私は察した。穂積さんがとなりにいると、話しにくいことのようだ。
穂積さんは、スクリーンを観ていた。次の対局が始まっている。
私たちはすぐに移動した。ドリンクコーナーは、ちょうど人気がなかった。
三和先輩はお茶をくんで、ひとまず喉をうるおした。
「さてと……どこから話そうかな」
先輩の声は、予想以上に真剣だった。
私は、次のアクションを待つ。
「今回の件、最初からちょっと違和感があったんだよね。もこっちの出方に」
「速水……先輩の?」
三和先輩は紙コップを手にしたまま、ヒップで壁に腰かけた。右ひざを軽く曲げる。
「裏見さん、もこっちのこと、どれくらい知ってる?」
「まだお会いして半年も経っていないので……マジメで頭のいいひとだな、とは……」
「そこが分かってればいいよ。彼女、頭がキレるんだよね。良くも悪くも。それなのに、今回の計画はやたら杜撰だと思わない?」
言われてみれば、そうだ。派遣された私は麻雀のルールが分からない。捜索範囲も行き当たりばったりに感じた。そもそも、賭け将棋の元締め、という犯人像があいまいだ。
「つまり……速水先輩の判断が鈍った理由がある、ってことですか? 司法試験で忙しいからじゃないかと思うんですけど……」
「逆だね。もこっちは平常運転なんだよ」
「……すみません、ちょっと意味がわからないです」
「ごめんごめん、韜晦に走るつもりはないんだ。裏見さんは、公式戦が高校からなんだよね? それに、県大会優勝経験はあっても、全国大会出場経験はない。だから、もこっちと初めて会ったのは、今年の4月だった。あってる?」
私はだまってうなずいた。
「もこっちはさ、東北出身なんだ。正確にはA田。父親がS台高検の検事長で、単身赴任してるらしい。で、あんな見た目と性格だろ。全国大会でも、みんなちょっと距離を置いてるところがあった。もこっちは中学1年のときから6年連続で県代表なんだよ。私は高校3年のとき順子ちゃんに負けちゃったから、6連覇はムリで……っと、こんな思い出話は、どうでもいいか。つまり、年1回、計5回会う機会があったわけ。そのとき、1回だけ話したことがある。高校2年の夏だった。最初は将棋の話をしてたけど、だんだん将来の進路の話になった。私は実家が開業医だから医者になるつもりだって言ったら、もこっちは父親が検察官だから検察官になりたい、ってね。で、もこっちは、東京の大学に行きたがってた。私はこう言ったんだ。『きみのパパがいるS台にも帝大はあるよね』って。そしたら彼女は窓のそとを見ながら、こう答えた。『さがしものがある』」
語りの間――私は、最後のセリフの意味をつかみかねていた。
ただ、三和先輩の言いたいことは、ぼんやりと伝わってきた。
「今回の『賭け将棋』の話は、私たちを連れまわす口実だった……ってことですか? じつはその『さがしもの』が目当てで、私たちをここに派遣した、と?」
「それはわからない……けど、ひとつだけわかってることがある。もこっちは、学生将棋界の知り合いにも、まだ教えていない秘密があるんだよ」
三和先輩は紙コップをゴミ箱にほうった。からりという乾いた音。
「さがしものがなんなのか、私ももちろん尋ねたさ。でも、もこっちは答えなかった。そのときの雰囲気から察したんだ。もこっちは口を滑らせたんじゃないか、って……いや、ちがうのかな。どうだろう。私は心理のエキスパートじゃないからね。いずれにせよ、彼女は私のまえで、2度とその話はしなかった。それっきり」
三和先輩は、壁から体をはなした。スッと背筋を伸ばす。
「とりあえずさ、これは私のひとりごとなんだけど、大学生なんて学年で上下があるわけじゃないんだよ。年上に頼まれたからって、無視するのはOKだ。それがおとなの最初のステップなんじゃないのかな」
先輩はそう言って、私に右手を振った。
「明日は解剖の実習があるんだ。お先に」
「あ、ありがとうございました」
私は丁寧にお礼を言った。先輩のうしろすがたを見送りながら、最後のことばの意味を考える。これって……速水先輩の指示は無視しろ、ってアドバイスよね。なんか不穏。私はしばらくのあいだ、その場を動くことができなかった。
○
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《本日は、朱雀位10周年記念イベントにご来場いただき、まことにありがとうございました。会場出口にて粗品をお配りしております。どうぞお持ち帰りください。なお、本日のイベントのお写真は、協賛団体の各HPにて……》
祭りのあとの静けさ。華やかな女性たちを吐き出した会場は、閑散としていた。ゴミ袋を片づける清掃員のひとたちが、スタッフルームを出たり入ったりしている。ほとんど最後尾になった私と穂積さんは、ゆっくりと廊下に出た。
「穂積さん、ここからどうするの? 駅まで歩く?」
「ん〜、香子は先に帰ってていいよ」
いきなりの提案に、私におどろいた。
「え? どうしたの? 都内に用事?」
穂積さんはスマホをとりだして、なにやら画像をひらいた。
「プロのだれかと、じかに話したいの」
「控え室がどこか、全然わからなくない?」
「館内マップは入手してあるんだよね」
ちょ、そんなのどこで……あぁ、お兄さん経由か。
「穂積さん、楽屋に突撃するのはマナー違反でしょ?」
「ま、こういう業界だから、多少は許してくれるんじゃない? というわけで、あたしは楽屋前で張るわ。香子を待たせちゃ悪いから、先に帰っていいよ」
私が引き止める間もなく、穂積さんはくるりときびすを返した。
……どうしましょ。ちょっとだけ迷う。でも、三和先輩のことばを思い出した。大学生の第一歩って、じぶんのことはじぶんで決める、なのよね。楽屋に用事はない。このまま帰りましょ。
ひとの列は、だいぶ掃けてきた。スムーズに進む。そとに出たところで、私は夜の空気を胸いっぱいに吸い込み、ひと息ついた。
「ハァ……将棋の大会より疲れたかも」
「ポニテの姉ちゃん、カラダ鈍ってんじゃないの?」
私は左へふりむいた。花壇のそばに、不破さんが立っていた。
不破さんは、スニーカーのつまさきでコンコンと地面のコンクリートを蹴った。
「さてと、このイベントに来た理由を教えてもらおうかな」
「それは、三和先輩のお供で……」
「じゃねーよなぁ? 麻雀イベントに誘うんなら筒井っちとかのほうがいいだろ? しかもみわっち、先に帰ってんじゃん。ポニテの姉ちゃんが残ったってことは、このイベントに用があったのは、みわっちじゃなくてポニテの姉ちゃんのほうだろ?」
ぐッ……さすがにするどい。
「ちょっとひとから頼まれたのよ」
「他人に麻雀を観戦してもらうって、どういう依頼?」
「それは……」
えーい、めんどくさくなってきた。
私はいいわけを考える。不破さんは飴玉を頬張ったまま、さみしそうな顔をした。
「そこは笑い飛ばすような返事をしてくれよ……こっちが不安になるだろ」
「えッ……?」
不破さんは顔をあげた。
「会ったときからずっと深刻そうな顔してるけど、なにかあったのか? マジで変な男に引っかかったとか、そういうんじゃないよな? それとも、剣之介に女ができた?」
あッ……私は、知らず知らずのうちに不破さんを心配させていたことに気づいた。
「ごめんなさい、私の個人的な問題じゃないの。部のほうでいろいろあって……」
「将棋部?」
私は、立てなおしの経緯から、かいつまんで説明した。あんまり深入りしない程度に。
すべてを聴き終えた不破さんは、へぇ、とつぶやいた。
「謎のストーカーね……香子が狙われてないってのは、ほんと?」
「私はなにもされてないの。そもそも、犯人の狙いがよくわからないのよ」
「それは不安になるな……なにかあったら、あたしに電話しろよ。力になるぜ」
心強い提案。私は今日、はじめて笑顔になった。
「不破さんに頼めば、万事解決しそうね」
「へへ、だろ……とはいえ、土産話にはできないな。ほかにないの? 帰ったら、東京のOB・OGに会ったかどうか、いろいろ聞かれそうなんだよね」
「元気そうだった、くらいでいいんじゃない? そういえば、みんなは元気?」
「ああ、元気だぜ。駒桜市内は勢力図が一変したけどな。春はうちが優勝」
「え? ほんと?」
「多喜っていうめちゃくちゃ強い1年が入ったんだ。あたしと師匠とで3枚看板」
「そっか……女子は?」
不破さんはすこし言いにくそうだった。
「女子は藤女だな。レモンと夏希が入ってから、手がつけらんないよ」
うーん、残念。しばらくは藤女の一強かなぁ。
私はなんだか懐かしくなって、いろんなことを聞いた。
みんなの進路志望とか、喫茶店八一のようす、それに、街の雰囲気。
一番おどろいたのは、捨神くんの進路だった。
「海外留学?」
「ヨーロッパの音楽学校を考えてるんだってさ。春の国内コンペで入賞したんだよ。もしかすると奨学金が出るかもしれない、らしい」
「へぇ……やっぱり捨神くんってすごいのね」
「でさ、なにがおかしいって、自称宇宙人いただろ、あいつがついてくとか言ってんの。卒業したらすぐに結婚するかもしれないぜ、あのふたり」
えぇ、それはまた……なんというか、おめでたいような、びっくりなような。
「飛瀬さんと捨神くん、ほんとに愛し合ってる感じがあっていいわよね」
「だな。ほかにも、ポーンはドイツに帰るって噂があるし、改造制服の姉ちゃんはデザイン学校って言ってたし、今の3年生は進路がけっこうバラバラな気がする」
「……みんな自分の道を進むわけね」
「ああ、だから……」
「楓、お待たせ」
この声は――街灯の下に、スポーツキャップの少年があらわれる。
不破煌プロだ。ほ、ほんとに若い。しかも、実物のほうがよほど美少年にみえた。
それともうひとつ、会場で見たときと違うところがあった。それは、年相応の……高校生らしい屈託のないオーラ。クールエッジィショートの下からのぞく眼差しは、夢見がちな少年らしく澄んでいて、どこか純粋な輝きをたたえていた。
「こんばんは」
私は挨拶をされて、一瞬返すのがおくれた。
「こ、こんばんは……はじめまして」
「はじめまして。楓のお知り合いですか?」
「は、はい……」
「地元の知り合いだよ。H島出身」
不破さんが説明を入れてくれた。
私はなにを話せばいいのか、わからなくなる。とりあえず――
「えーと、不破くんは不破さんのご親戚、って聞いてるんだけど……」
「ええ、そうです。煌でいいですよ。苗字だと混乱するでしょ。お姉さんのおっしゃるとおり、僕は楓の又従兄弟です」
「H島の出身?」
「いえ、僕は生まれも育ちもK奈川です。お姉さんはH島のご出身ですか?」
私は、そうだと答えた。大学に通うために上京したことも付け加えた。
すると、煌くんは、おやっという顔をして、
「もしかして晩稲田ですか? 南原プロのご後輩?」
と尋ねた。
「う、ううん、べつの大学」
「そうですか。失礼しました……楓、南原プロが車を出してくれるってさ」
「マジかぁ、あのおばさん、いいとこあるじゃん」
「ニコチン中毒が玉に瑕だけどね……では、お姉さん、お先に」
煌くんと不破さんは、その場をはなれていく。
途中で、不破さんが振り返った。
「さっき、剣之介に女ができたのかって訊いただろ。あれ、半分くらい本気だからな。あたしが言うことじゃないかもしれないけど、あんなにイイ男が東京でアプローチかけられないってのはないぜ。後悔するまえにケジメつけといたほうが、いいんじゃねーの?」
私は赤くなった。右手でこぶしをふりあげる。
「煌くんのまえで、そういう話はしない」
「わりぃわりぃ……でもさ、やっぱりみんなバラバラになるんだよ。ならないかもしれないものは、大事にしたほうがいいぜ。師匠がヨーロッパへ行ったら、あたしはほんとにさみしいよ……日本には帰って来ないかもしれないからな……でもそれは、師匠の夢とは関係ないよな。だから、思い出にするしかないんだ。だけど、思い出にしなくていいものまで、意地で思い出にする必要はないんじゃないか」
私は右手をおろす。夜風が吹いた。
今こうしている時間もまた、思い出に変わりつつあることを実感した。
「ご忠告、感謝するわ」
「ただのひとりごと……夏休みは帰ってこいよ。みんな待ってるぜ」