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凛として駒娘──裏見香子の大学将棋物語  作者: 稲葉孝太郎
第27章 法律の勉強は大変だ?(2016年7月6日水曜)
160/486

160手目 2008年

 速水はやみ先輩が、和室に現れた。ふすまを開けて、スッと入ってくる。

 どこか雰囲気がピリピリしていた。

 私は正座しなおす。

「こ、こんにちは」

 私があいさつすると、速水先輩はするどい目つきで、

「こんにちは……遊びに来てたのね」

 と、やや低めの声で答えた。

 なんかいつもとちがう。

 ところが、穂積ほづみさんはまったく空気を読まないで、

「あ、いいところにッ! 法律の勉強法を教えてくださいッ!」

 と口走った。

 速水先輩は彼女のほうをむいて、

「あなたは……穂積ほづみ八花やつかさん、だったかしら」

 と名前をあてた。

「そうです。今日は法律のお勉強にきました」

「民法ならダットサンを読んでおきなさい。内田民法は自説が多いから初学者には不向きよ。有斐閣のSシリーズでもいいし、とにかく薄めの基本書をよく読んで、あとは判例百選を回す。OK?」

「OKじゃないですッ! 教科書を読んでもわからないから困ってますッ!」

 穂積さんの抗議にたいして、速水先輩は冷ややかに対応した。

「わからないんじゃなくて、わかろうとしてないのよ。OK?」

「いや、わかんないものはわかんないので……」

「奥山、すこし相手をしてあげなさい。私は荷物を取りにきただけだから」

「は、はい」

 速水先輩はカバンをひろいあげて、そのまま部屋をあとにした。

 穂積さんは悪態をつく。

「なによ、あの態度」

 奥山おくやまくんは、まあまあとなだめた。

「もこっち先輩、予備試よびしが近いんだよ」

 穂積さんは、聞きなれない言葉にきょとんとした。

「ヨビシってなに?」

「司法試験の受験資格を得るための試験。建前上、司法試験はロースクールを卒業しないと受けられないだろう。でも、予備試験に合格したら、ローに行ってなくても受験することができるんだ。っていうか、法曹のエリートコースは今はこっちだよ。ローは予備試験に受からなかった組が行く雰囲気になってる」

「ふーん、あたしは弁護士になるつもりはないけど……じゃ、奥山くん、代わりに指南をよろしくぅ」

「まいったな……」

 奥山くんは困ったように頭をかきながら、穂積さんにレクチャーを始めた。延々と1時間近く、奥山くんが講義に出るまで続いた。そして、そのタイミングで、私たちも失礼することになった。もともと法律の勉強法を聞くのが目的だったし、奥山くん以外に親しいメンツがいなくて、ちょっと気まずかったからだ。

 帰り道、穂積さんは腕組みをしながら、教えてもらったことを復唱していた。

「ん〜、わかったような、わからなかったような……」

 口頭だけの説明だと、限界があるんじゃないかしら。奥山くんのアドバイス、一般的な勉強のテクニックみたいなことばかりで、ザ・法律って感じじゃなかった気がする。外野からの印象として。

 都ノみやこのの正門がみえたところで、ふとアドバイスを思いついた。

「速水先輩のいうとおり、教科書をよく読んでみたら? 1冊のテキストをちゃんと読むのは、大学受験でも大切だったでしょ。あれこれ手を出さないほうがいいわよ」

「そりゃそうだけど……あんなトゲがある言い方しなくてもいいじゃない」

 大事な試験が近くなってくると、人間ピリピリするもので――っと、そうだ。私もまだレポート書き上げてなかった。提出は今週中なのに。

「穂積さん、ごめんなさい、私は図書館にもどるわ……って、穂積さん?」

 穂積さんは、となりでスマホをいじっていた。

 どこに連絡するのかと聞くと、

「こうなったら、お兄ちゃんに教えてもらうわ。お兄ちゃん、教え方うまいし」

 と答えた。あのさぁ。

 あの兄にして、この妹あり。

 私はあきれながら、正門のところでわかれた。

 

  ○

   。

    .


 ふむふむ、なるほど、債権を担保していた地価が下落することで、多額の不良債権が発生した、と。土地バブルの仕組みがだんだんわかってきた。

 私は数冊の本をみくらべながら、レポートにまとめていく。本から直接引用したときは「」でくくって、注をつけて、剽窃は禁止……ん? またテーブルが暗くなった。顔をあげると、ララさんが立っていた。

「ハロ〜、香子きょうこ、なにやってるの?」

「レポートを書いてるの」

「たいへんだねぇ〜」

 大変だねぇ、って、ララさんも大学生でしょ。私はそのことを指摘した。

 すると、ララさんは胸を張って、エヘヘンと鼻も高く、

「留学生もテストあるんだけど、日本語のチェックがメインだからチョ〜簡単」

 とのたまった。

 あのさぁ、大学の試験制度、しっかり。もちろん、ララさんの日本語が達者なのは、たまたま日系だからだ。そうじゃない学生については、れっきとしたテストになっているのだと思う。でも、なんか釈然としない。

「いいわね、ララさんは楽で」

「怠けてるわけじゃないよ。あまった時間でいろいろ勉強してるし……あ、かけるだ」

 ララさんは、いきなり手をふった。

 プリントの束をかかえた星野ほしのくんが、こちらへ歩いてくるのがみえた。

「こんにちは、みんなも勉強してたんだね」

「翔、プリントいっぱい持ってるね」

「これは欠席してたときのノートのコピー」

 あ、そっか、星野くん、欠席回数がけっこう多いんだ。

 コピーの量は膨大だった。ノート何冊分なのかしら。

 私は思わず、

「よく貸してもらえたわね。ほかのひとも試験勉強してるんじゃない?」

 とたずねてしまった。

 すると、星野くんは懇願するような表情をつくって、

「ぼく、体が弱いから授業にあんまり出られなかったんだ、ウルウル……って言ったら、女子がみんな貸してくれたよ」

 と答えた。この腹黒美少年がぁ!

 ララさんはおもしろがって、星野くんをひじでこづく。

「翔もワルよのぉ」

「そんなことないよ。っていうか、ララさん、それどこでおぼえたの?」

「おじいちゃんが時代劇の録画持ってたから。ビデオデッキで観てたよ」

 ふたりのテンション、微妙にいらだたしい。

 私はわざわざノートをちゃんと毎回とってるのにぃ。

 なんて、いきどおっていたら、うしろのほうで見知らぬ女子2名の声が聞こえた。

「宗教史の授業で、お坊さんみたいなかっこうしてる子がいない?」

大谷おおたにさん? 東洋文化学科の子らしいよ」

「すごいよね。あてられたら毎回パーフェクトに答えてるし、先生も『きみに教えることは特にない』とか言ってるんだよ」

「試験勉強とかしなくていいんだろなぁ。いいなぁ」

 その瞬間、私のなかでなにかが切れた。

 

  ○

   。

    .


「ライフハック?」

 詰めパラを解いていた風切かざぎり先輩は、けげんそうに顔をあげた。

 部室でひとりきりだった先輩に、今日あったできごとをグチる。

「聞いてくださいッ! 将棋部でマジメに勉強してるの、私だけなんですよッ!」

 かくかくしかじか。

 風切先輩はタメ息をついて、詰めパラを閉じた。

「そんなの、あとで本人が困るだけだろ。っていうか、それってライフハックなのか?」

「お、大谷さんのはちがうかもしれないですけど、穂積さんと星野くんのはまちがいなくライフハックです。穂積さんはお兄さんに手伝ってもらってますし、星野くんなんか色仕掛けですよ。いつか女子に刺されると思います」

「ぶ、物騒だな……でも、他人といっしょに勉強するのは普通だし、ノートのコピーも星野の場合はしょうがないだろう。一時は退学も考えてたんだからな」

 むむむ、論破されそう。

「だからって、みんなラクしすぎです」

「まあ、勉強しに来てるとは思えない大学生も多いけどな……他人は他人なんだ。あんまり気にしてもしょうがないぞ。それに、今回のレポートのおかげで、折口おりぐちが言ってたバブル崩壊の背景もわかったんだ。やっぱり勉強には意味がある」

 うーん、納得がいかない。なぜなのかしら。

「でも、先輩、けっきょくわかったのは、折口先生からの情報がデマってだけで……」

「デマではなーいッ!」

 いきなりドアがひらいた。折口先生が姿をあらわす。

「「す、ストーカーだあッ!」」

 私たちはそうさけんで、先生を追い出しにかかった。

「こ、こら、顧問を追い出すとはなにごとだッ!」

「サークル棟に毎日顔を出す顧問なんて、聞いたことありませんよッ!」

「たまたま通りかかったら、私の名前が聞こえたんだッ! アレはデマじゃないッ!」

 ほんとぉ? 私たちは、ひとまず折口先生の話を聞くことにした。

 こっちから質問したいことがたくさんある。

「とりあえず、聖生のえるがバブル崩壊と関係ある、という点をくわしく説明してください」

「この前も話したとおり、詳細は知らん」

「せんせぇ、あんまり学生をからかうと、世界一美しい女神像が……」

「ちょっと待てッ! 最後まで話を聞けッ!」

 折口先生は椅子に座り、コホンと咳ばらいをした。

 時間稼ぎしてるんじゃないでしょうね。

「あれは、私がまだ学部生のころだった……」


 ***** ここから折口先生の回想録です *****

 

 2008年5月――古都こと大3回生で主将になった私は、まさにのぼり調子だった。

 春の団体戦も、4回戦を折り返した時点で個人全勝、チーム全勝。

 その日も意気揚々と、いきつけの将棋サロンに顔を出した。

 定年退職をした男性店主が、カウンターで新聞を読んでいた。

 私は500円玉を、将棋の要領でパシリと支払った。

 店主はようやく顔をあげた。

「のぞみちゃん、ようおこし」

「おっちゃん、手合いつけて。手が空いてるメンツで一番強いひと」

 私の注文に、店主――私はおっちゃんと呼んでいた――はニヤリと笑った。

「新顔でもええか?」

「団体戦の練習になるなら……あッ、セクハラおやじはダメだかんね」

 おっちゃんは新聞を丸めて、こっそりと店の奥をさししめした。

「あそこに若いニイちゃんがおるやろ」

 私はちらりと視線を追った。

 すると、ずいぶんキザなかっこうをした青年が、店の奥で雑誌を読んでいた。

 髪型はサイドパートボブで、上は黒のジャケット、下は黒の長ズボン。シャツには真っ赤なチェ・ゲバラの顔写真がプリントされていた。首のシルバーネックレスが、窓から差し込む陽の光にかがやいてみえた。左手の中指に平打ちのシルバーリングをはめていた。

「ホストみたいなやつだね」

「正真正銘のホストや。出勤前にうちへ寄ってる」

 私はじぶんの耳をうたがった。

「将棋道場にホスト? おっちゃん、憶測で言ってない?」

祇園ぎおんのホストクラブでみかけたやつがおる」

 私は口笛を吹きかけた。変わったひとが世の中にはいるもんだ。

 同時に、ちょっとからかわれたとも思った。

「おっちゃん、私は強いひとと指したいんだ。ホストと指したいんじゃない」

 おっちゃんはまたニヤリと笑って、声をひそめた。

「あのニイちゃん、ほんま強いで」

「……ほんと?」

「ここ1週間くらい顔みせとるが、1回も負けてへん」

 私は信じられなかった。ここの道場は、古都大の将棋部がちょくちょく顔を出してるだけじゃない。地元の強豪もいりびたっていた。1週間も通いつめて無敗なんてことがあるんだろうか。私は疑問に思って、

「級位者を当ててるとか、そういうオチ?」

 とたずねた。おっちゃんは否定した。

「のぞみちゃん、一局指してみ」

 私は肩をすくめて、その席へ移動した。

 ホストの兄ちゃんは私が目のまえに来ても、顔をあげなかった。

 パンとテーブルをたたく。

「ここ、手合わせみたいなんですけど?」

「だったら席につきなよ」

 私はムッとした。けど、言い返さずに椅子をひいた。

 ホストは雑誌をかたづけようとすらしなかった。

 ありきたりなファッション雑誌かと思ったら、マジメな経済誌だった。

 だけど、手合いが決まったのに失礼だろう、この態度は。

「指さないんですか? この道場、手合わせ拒否は原則禁止ですよ?」

「こっちはもう並べてある」

 私は、ホストの陣形だけ並べなおしてあることに気づいた。

 私のほうはバラバラ。

「ホストなのに気が利かないんですね」

「仕事とプライベートは分けるタイプだから」

 私は駒をならべた。最後の歩を置いたところで、ホストはようやく雑誌をたたんだ。

 となりのテーブルに放り投げる。

「振り駒はきみにまかせるよ」

「レディファースト? 仕事とプライベートは分けるんじゃなかったんですか?」

「分けてるから、きみにやらせる。店では女性にめんどうな作業はやらせない」

 私は内心舌打ちして、振り駒をした。

「歩が2枚、そちらが先手です……お名前は?」

「名乗るほどの名前はないよ」

源氏名げんじなでもけっこうですよ」

「お金を落とさない女性に教えるもんじゃないね」

 私は相手にするのをやめた。ようは、ちゃちゃっとボコればいいだけだ。

 プライドをへし折って、2度と来店させない。

「じゃ、よろし……」

「そのまえに賭け金を決めようか、お嬢さん」

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