160手目 2008年
速水先輩が、和室に現れた。ふすまを開けて、スッと入ってくる。
どこか雰囲気がピリピリしていた。
私は正座しなおす。
「こ、こんにちは」
私があいさつすると、速水先輩はするどい目つきで、
「こんにちは……遊びに来てたのね」
と、やや低めの声で答えた。
なんかいつもとちがう。
ところが、穂積さんはまったく空気を読まないで、
「あ、いいところにッ! 法律の勉強法を教えてくださいッ!」
と口走った。
速水先輩は彼女のほうをむいて、
「あなたは……穂積八花さん、だったかしら」
と名前をあてた。
「そうです。今日は法律のお勉強にきました」
「民法ならダットサンを読んでおきなさい。内田民法は自説が多いから初学者には不向きよ。有斐閣のSシリーズでもいいし、とにかく薄めの基本書をよく読んで、あとは判例百選を回す。OK?」
「OKじゃないですッ! 教科書を読んでもわからないから困ってますッ!」
穂積さんの抗議にたいして、速水先輩は冷ややかに対応した。
「わからないんじゃなくて、わかろうとしてないのよ。OK?」
「いや、わかんないものはわかんないので……」
「奥山、すこし相手をしてあげなさい。私は荷物を取りにきただけだから」
「は、はい」
速水先輩はカバンをひろいあげて、そのまま部屋をあとにした。
穂積さんは悪態をつく。
「なによ、あの態度」
奥山くんは、まあまあとなだめた。
「もこっち先輩、予備試が近いんだよ」
穂積さんは、聞きなれない言葉にきょとんとした。
「ヨビシってなに?」
「司法試験の受験資格を得るための試験。建前上、司法試験はロースクールを卒業しないと受けられないだろう。でも、予備試験に合格したら、ローに行ってなくても受験することができるんだ。っていうか、法曹のエリートコースは今はこっちだよ。ローは予備試験に受からなかった組が行く雰囲気になってる」
「ふーん、あたしは弁護士になるつもりはないけど……じゃ、奥山くん、代わりに指南をよろしくぅ」
「まいったな……」
奥山くんは困ったように頭をかきながら、穂積さんにレクチャーを始めた。延々と1時間近く、奥山くんが講義に出るまで続いた。そして、そのタイミングで、私たちも失礼することになった。もともと法律の勉強法を聞くのが目的だったし、奥山くん以外に親しいメンツがいなくて、ちょっと気まずかったからだ。
帰り道、穂積さんは腕組みをしながら、教えてもらったことを復唱していた。
「ん〜、わかったような、わからなかったような……」
口頭だけの説明だと、限界があるんじゃないかしら。奥山くんのアドバイス、一般的な勉強のテクニックみたいなことばかりで、ザ・法律って感じじゃなかった気がする。外野からの印象として。
都ノの正門がみえたところで、ふとアドバイスを思いついた。
「速水先輩のいうとおり、教科書をよく読んでみたら? 1冊のテキストをちゃんと読むのは、大学受験でも大切だったでしょ。あれこれ手を出さないほうがいいわよ」
「そりゃそうだけど……あんなトゲがある言い方しなくてもいいじゃない」
大事な試験が近くなってくると、人間ピリピリするもので――っと、そうだ。私もまだレポート書き上げてなかった。提出は今週中なのに。
「穂積さん、ごめんなさい、私は図書館にもどるわ……って、穂積さん?」
穂積さんは、となりでスマホをいじっていた。
どこに連絡するのかと聞くと、
「こうなったら、お兄ちゃんに教えてもらうわ。お兄ちゃん、教え方うまいし」
と答えた。あのさぁ。
あの兄にして、この妹あり。
私はあきれながら、正門のところでわかれた。
○
。
.
ふむふむ、なるほど、債権を担保していた地価が下落することで、多額の不良債権が発生した、と。土地バブルの仕組みがだんだんわかってきた。
私は数冊の本をみくらべながら、レポートにまとめていく。本から直接引用したときは「」でくくって、注をつけて、剽窃は禁止……ん? またテーブルが暗くなった。顔をあげると、ララさんが立っていた。
「ハロ〜、香子、なにやってるの?」
「レポートを書いてるの」
「たいへんだねぇ〜」
大変だねぇ、って、ララさんも大学生でしょ。私はそのことを指摘した。
すると、ララさんは胸を張って、エヘヘンと鼻も高く、
「留学生もテストあるんだけど、日本語のチェックがメインだからチョ〜簡単」
とのたまった。
あのさぁ、大学の試験制度、しっかり。もちろん、ララさんの日本語が達者なのは、たまたま日系だからだ。そうじゃない学生については、れっきとしたテストになっているのだと思う。でも、なんか釈然としない。
「いいわね、ララさんは楽で」
「怠けてるわけじゃないよ。あまった時間でいろいろ勉強してるし……あ、翔だ」
ララさんは、いきなり手をふった。
プリントの束をかかえた星野くんが、こちらへ歩いてくるのがみえた。
「こんにちは、みんなも勉強してたんだね」
「翔、プリントいっぱい持ってるね」
「これは欠席してたときのノートのコピー」
あ、そっか、星野くん、欠席回数がけっこう多いんだ。
コピーの量は膨大だった。ノート何冊分なのかしら。
私は思わず、
「よく貸してもらえたわね。ほかのひとも試験勉強してるんじゃない?」
とたずねてしまった。
すると、星野くんは懇願するような表情をつくって、
「ぼく、体が弱いから授業にあんまり出られなかったんだ、ウルウル……って言ったら、女子がみんな貸してくれたよ」
と答えた。この腹黒美少年がぁ!
ララさんはおもしろがって、星野くんをひじでこづく。
「翔もワルよのぉ」
「そんなことないよ。っていうか、ララさん、それどこでおぼえたの?」
「おじいちゃんが時代劇の録画持ってたから。ビデオデッキで観てたよ」
ふたりのテンション、微妙にいらだたしい。
私はわざわざノートをちゃんと毎回とってるのにぃ。
なんて、いきどおっていたら、うしろのほうで見知らぬ女子2名の声が聞こえた。
「宗教史の授業で、お坊さんみたいなかっこうしてる子がいない?」
「大谷さん? 東洋文化学科の子らしいよ」
「すごいよね。あてられたら毎回パーフェクトに答えてるし、先生も『きみに教えることは特にない』とか言ってるんだよ」
「試験勉強とかしなくていいんだろなぁ。いいなぁ」
その瞬間、私のなかでなにかが切れた。
○
。
.
「ライフハック?」
詰めパラを解いていた風切先輩は、けげんそうに顔をあげた。
部室でひとりきりだった先輩に、今日あったできごとをグチる。
「聞いてくださいッ! 将棋部でマジメに勉強してるの、私だけなんですよッ!」
かくかくしかじか。
風切先輩はタメ息をついて、詰めパラを閉じた。
「そんなの、あとで本人が困るだけだろ。っていうか、それってライフハックなのか?」
「お、大谷さんのはちがうかもしれないですけど、穂積さんと星野くんのはまちがいなくライフハックです。穂積さんはお兄さんに手伝ってもらってますし、星野くんなんか色仕掛けですよ。いつか女子に刺されると思います」
「ぶ、物騒だな……でも、他人といっしょに勉強するのは普通だし、ノートのコピーも星野の場合はしょうがないだろう。一時は退学も考えてたんだからな」
むむむ、論破されそう。
「だからって、みんなラクしすぎです」
「まあ、勉強しに来てるとは思えない大学生も多いけどな……他人は他人なんだ。あんまり気にしてもしょうがないぞ。それに、今回のレポートのおかげで、折口が言ってたバブル崩壊の背景もわかったんだ。やっぱり勉強には意味がある」
うーん、納得がいかない。なぜなのかしら。
「でも、先輩、けっきょくわかったのは、折口先生からの情報がデマってだけで……」
「デマではなーいッ!」
いきなりドアがひらいた。折口先生が姿をあらわす。
「「す、ストーカーだあッ!」」
私たちはそうさけんで、先生を追い出しにかかった。
「こ、こら、顧問を追い出すとはなにごとだッ!」
「サークル棟に毎日顔を出す顧問なんて、聞いたことありませんよッ!」
「たまたま通りかかったら、私の名前が聞こえたんだッ! アレはデマじゃないッ!」
ほんとぉ? 私たちは、ひとまず折口先生の話を聞くことにした。
こっちから質問したいことがたくさんある。
「とりあえず、聖生がバブル崩壊と関係ある、という点をくわしく説明してください」
「この前も話したとおり、詳細は知らん」
「せんせぇ、あんまり学生をからかうと、世界一美しい女神像が……」
「ちょっと待てッ! 最後まで話を聞けッ!」
折口先生は椅子に座り、コホンと咳ばらいをした。
時間稼ぎしてるんじゃないでしょうね。
「あれは、私がまだ学部生のころだった……」
***** ここから折口先生の回想録です *****
2008年5月――古都大3回生で主将になった私は、まさにのぼり調子だった。
春の団体戦も、4回戦を折り返した時点で個人全勝、チーム全勝。
その日も意気揚々と、いきつけの将棋サロンに顔を出した。
定年退職をした男性店主が、カウンターで新聞を読んでいた。
私は500円玉を、将棋の要領でパシリと支払った。
店主はようやく顔をあげた。
「のぞみちゃん、ようおこし」
「おっちゃん、手合いつけて。手が空いてるメンツで一番強いひと」
私の注文に、店主――私はおっちゃんと呼んでいた――はニヤリと笑った。
「新顔でもええか?」
「団体戦の練習になるなら……あッ、セクハラおやじはダメだかんね」
おっちゃんは新聞を丸めて、こっそりと店の奥をさししめした。
「あそこに若いニイちゃんがおるやろ」
私はちらりと視線を追った。
すると、ずいぶんキザなかっこうをした青年が、店の奥で雑誌を読んでいた。
髪型はサイドパートボブで、上は黒のジャケット、下は黒の長ズボン。シャツには真っ赤なチェ・ゲバラの顔写真がプリントされていた。首のシルバーネックレスが、窓から差し込む陽の光にかがやいてみえた。左手の中指に平打ちのシルバーリングをはめていた。
「ホストみたいなやつだね」
「正真正銘のホストや。出勤前にうちへ寄ってる」
私はじぶんの耳をうたがった。
「将棋道場にホスト? おっちゃん、憶測で言ってない?」
「祇園のホストクラブでみかけたやつがおる」
私は口笛を吹きかけた。変わったひとが世の中にはいるもんだ。
同時に、ちょっとからかわれたとも思った。
「おっちゃん、私は強いひとと指したいんだ。ホストと指したいんじゃない」
おっちゃんはまたニヤリと笑って、声をひそめた。
「あのニイちゃん、ほんま強いで」
「……ほんと?」
「ここ1週間くらい顔みせとるが、1回も負けてへん」
私は信じられなかった。ここの道場は、古都大の将棋部がちょくちょく顔を出してるだけじゃない。地元の強豪もいりびたっていた。1週間も通いつめて無敗なんてことがあるんだろうか。私は疑問に思って、
「級位者を当ててるとか、そういうオチ?」
とたずねた。おっちゃんは否定した。
「のぞみちゃん、一局指してみ」
私は肩をすくめて、その席へ移動した。
ホストの兄ちゃんは私が目のまえに来ても、顔をあげなかった。
パンとテーブルをたたく。
「ここ、手合わせみたいなんですけど?」
「だったら席につきなよ」
私はムッとした。けど、言い返さずに椅子をひいた。
ホストは雑誌をかたづけようとすらしなかった。
ありきたりなファッション雑誌かと思ったら、マジメな経済誌だった。
だけど、手合いが決まったのに失礼だろう、この態度は。
「指さないんですか? この道場、手合わせ拒否は原則禁止ですよ?」
「こっちはもう並べてある」
私は、ホストの陣形だけ並べなおしてあることに気づいた。
私のほうはバラバラ。
「ホストなのに気が利かないんですね」
「仕事とプライベートは分けるタイプだから」
私は駒をならべた。最後の歩を置いたところで、ホストはようやく雑誌をたたんだ。
となりのテーブルに放り投げる。
「振り駒はきみにまかせるよ」
「レディファースト? 仕事とプライベートは分けるんじゃなかったんですか?」
「分けてるから、きみにやらせる。店では女性にめんどうな作業はやらせない」
私は内心舌打ちして、振り駒をした。
「歩が2枚、そちらが先手です……お名前は?」
「名乗るほどの名前はないよ」
「源氏名でもけっこうですよ」
「お金を落とさない女性に教えるもんじゃないね」
私は相手にするのをやめた。ようは、ちゃちゃっとボコればいいだけだ。
プライドをへし折って、2度と来店させない。
「じゃ、よろし……」
「そのまえに賭け金を決めようか、お嬢さん」