159手目 バブル崩壊
うーん……なるほど……この政策がこうなって……。
ここは都ノ大学の中央図書館。
私は本のページをめくりながら、ノートをとっていた。
シャーペンを走らせていると、急にテーブルのうえが暗くなる。
「香子、なに読んでるの?」
顔をあげると、穂積さんが私の本をのぞきこんでいた。
「日本経済史のレポートを書いてるの」
「あ、レポートか、ふーん……『平成金融史』? 銀行に興味があるの?」
私はペンをおく。となりに座るように、穂積さんをうながした。
穂積さんは木製の椅子をひいて、大胆に腰をおろした。
私はさっそく本題に入る。
「聖生に関する新しい情報、穂積さんも聞いた?」
「バブル崩壊が云々ってやつ? あんなの折口のデタラメでしょ」
穂積さんの反応はそっけなかった。
どうも折口先生をまったく信用していないっぽい。
それもそのはず。折口先生は印象が悪いし、ほかの部員も穂積さんと似たりよったりの反応だった。そのなかで、唯一、調べたほうがいいかもしれないと言ったのは――
「穂積さんのお兄さんは、いちおう考慮したほうがいいって言ってたわよ」
「お兄ちゃんは心配性なのよ。このまえも『仕送りは大事にしないと月末の生活費に困るよ』とか散々言われたし」
いやいやいや、仕送り大事に。
みんなのまえでは言わないけど、穂積お兄さんがじつは一番常識人っぽいのよね。重度のシスコンである、という点を除いては。
「まあ、それはおいとくとしても、どのみちレポートは書かないといけないから、ついでにバブル崩壊のことも調べてるのよ。一石二鳥でしょ」
「ふぅん……で、なにかわかった? バブル崩壊って、けっきょくなんだったの?」
よくぞ聞いてくれました。
私はノートを見ながら説明をする。
「まず、バブル景気とはなにか、よね。本によって説明はマチマチなんだけど、大きな原因のひとつは、銀行資金のだぶつき。つまり、企業が株式発行を通じて資金調達を始めたせいで、銀行が貸付先を失ってしまったわけね」
「穂積さんが銀行の立場なら、こういうときにどうする?」
「いきなりクイズ? そうね……べつの融資先を探すかも」
「例えば?」
「うーん……株式会社はお金を借りないんでしょ? だったらべつの企業形態に貸すわ」
「あ、その手もあるっちゃあるわね……」
「なに? 正解じゃないの?」
「正解は『不動産に投資する』なの」
穂積さんは、けげんそうな顔をした。
「不動産投資? ダメよ、あんなの危ないでしょ。詐欺が多いから法律でめちゃくちゃ規制されてるのに。宅建業法がなんのためにあるの」
「それは現代からみた感覚よ。当時は『土地は絶対に値上がりする』という土地神話が信じられてて、土地に対する投機が進んだわ。買って売るだけで儲かるのよ。いわゆる土地転がしね」
「ん? ちょっと待って。そんなのうまくいくわけないじゃない。土地の価格が無限にあがるんならともかく」
「そう、そこが怖いところ。これってどうみてもネズミ講なんだけど、当時は一部をのぞいてだれも気づかなかったのよ」
「ま、そんなもんよね。今の年金もネズミ講みたいなもんだし。日本人の数が延々と増え続けるわけないでしょ」
シーッ、それは言っちゃダメ。
「で、その土地神話の崩壊がバブル崩壊ってわけ?」
「実態はそこまで単純じゃないんだけど、おおざっぱにいうとそういうことになるわね。土地価格が上昇すると、土地持ちのひとは資産が勝手に増えるでしょ。だから出費がどんどん派手になって、景気を後押ししていたわけ。しかも、土地価格があがると、お金を借りやすくなるみたいだし」
「それはそうね。民法には抵当権っていう制度があって、債権を不動産で担保することができるから。土地価格があがればあがるほど、担保できる債権の額が上がる、つまり、たくさん借金できるようになるってわけ……でも、聖生となにが関係あるの、これ?」
私は大きくタメ息をついた。
急所を突かれたからだ。
「そこなのよね……バブル崩壊は70年代から続く日本経済の成り行きであって、聖生が引き起こしたなんていうのは全然信憑性がないわ」
「そもそも、聖生と日本の大不況が絡んでるなんていっても、1990年と2008年の2回だけなんでしょ。こんなの偶然でカタがつく話じゃない」
……なのよね。私は降参した。
「目的はレポートの作成で、聖生はついでよ。ところで、穂積さんはなんで図書館に?」
「試験勉強」
やっぱりね。この時期はだんだん図書館が混み始める――ん、ほんと?
「荷物は? 放置したまま席を立つとあぶないわよ?」
「じつはね、いろいろ本をあさってみたんだけど、よく分からないのよ」
はぁ、迷える子羊ですね。
っていうか、筆記用具すら持ってないのか。それはそれで、どうなのかしら。
「というわけで、香子、いっしょに勉強しましょ」
「私じゃアドバイスできないわよ。法律は勉強してないし」
穂積さんはチッチッチッと指をふった。
「心強い味方がいるでしょ、さっ、行きましょ」
○
。
.
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ
私が一手指すと、奥山くんはウーンとうなった。
「裏見さん、強いなぁ」
いえいえ、それほどでも。
私はペットボトルのお茶を飲みつつ、内心で謙遜した。
そのとなりで、穂積さんが投了する。
畳のうえに身を投げ出した。
「さっきからみんな強すぎでしょッ!」
ですね。はい。日センのレギュラーメンバーばかりだもの。
そう、ここは日センのサークル棟にある共同和室。
私と穂積さんは、奥山くんたちに稽古をつけてもらっていた。なぜこんな展開になったかというと、話は単純。穂積さんが言っていた【心強い味方】というのが、日セン法学部の速水先輩だったから。わざわざ他大のアドバイスもらいに来ますかね、普通。
しかも、速水先輩はいなかったというオチ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ
奥山くんはギリギリのタイミングで同金と取った。
私は5五角と打つ。攻防に利かせる。
「そこに角打ちか。じゃあ3四銀ね」
ん? ……あッ!
「し、しまった、角の素抜き……」
私は正座をしたまま、畳に両手をついた。
「致命傷ってわけじゃないと思うよ」
シーッ、稽古でも真剣に。敵に塩を送らない。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「同銀ッ!」
「おっと、それは意外。5五角成」
3七桂成、同飛、3六桂、同飛。
「4四桂ッ!」
どやッ! 3九飛なら3六銀がいきなり詰めろだ。
奥山くんはあごをこぶしで支えて、
「あ、なるほど、そういう……」
とつぶやいてから、メガネをなおした。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ
ん……あれ? 2二玉と下がれない?
下がったら3四歩に3六桂と跳ねられなくなる(王手放置)
「ど、同歩」
私は桂馬を払った。
奥山くんは1四銀と打ち込む。
同玉、1五歩、2三玉、1四金。
私は息をついた。背筋を伸ばす。
「負けました」
「ありがとうございました」
奥山くんはチェスクロをとめた。
畳に寝そべって観戦していた穂積さんは、
「詰んではないけど、2二に逃げても3三に逃げてもダメだからアウトね」
と言った。お行儀が悪い。
とはいえ、言っていることは正しい。
私は奥山くんと感想戦をはじめた。
「どこが悪かったかしら?」
「3四銀には同銀じゃなくて、1三玉で桂馬のほうを払うんじゃない?」
【検討図】
「4五銀で?」
「そこで4六桂……いや、どっちにしても僕のほうがいいのかな」
私たちが感想戦を続けていると、いきなり穂積さんが起き上がった。
「そうだ、奥山、あんた法学部じゃなかった?」
「そうだけど……なにか? 日常法律相談? マルチ商法にでもひっかかった?」
「あたしも法学部なのよ。法律の勉強のしかたを教えなさい」
あのさぁ。完全に他力本願じゃないですか。
これはお兄さんが甘やかしすぎね。奥山くん、社会の厳しさを教えてあげなさい。
「うーん……法律の勉強ねぇ……やっぱり法的三段論法じゃないの?」
「ホウテキサンダンロンポウ……?」
「穂積さん、授業マジメに聞いてる?」
「き、聞いてるわよ」
ほんとぉ? 寝てそう。まあ、90分集中するのってむずかしいけど。
奥山くんもお察し状態なのか、丁寧に説明をはじめた。
「法的三段論法っていうのはね、規範を大前提、事実を小前提として、法的結論を導き出す推論の一種だよ」
「もうちょっとやさしく」
「例えば、刑法199条には『人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する』と書いてあるよね」
「まだ刑法総論しかやってないから」
「とりあえず、書いてあるから、あとで六法で確認してね。で、『Aさんという人は、人を殺した』という事実をここに当てはめると、どうなる?」
「……どうなるの?」
「『Aさんは、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する』になるね」
穂積さんは畳のうえでバタバタと暴れた。
「そんなの当たり前じゃないッ!」
「アハハハ、ごめんごめん。でもさ、これってそんなに簡単じゃないよ。べつの例で考えてみようか。民法21条に『制限行為能力者が行為能力者であることを信じさせるため詐術を用いたときは、その行為を取り消すことができない』っていう規定があるよね」
穂積さんは、ぴたりと暴れるのをやめた。
「ん……それは聞いたことがあるわね」
「じゃあさ、17歳のAくんは、本屋で漫画を買うときに、自分は未成年者であることを隠していました。このとき、取消権は消滅するでしょうか、と聞かれたら?」
「……騙してるから詐術なんじゃないの?」
「残念。制限行為能力者の『詐術』は積極的な行為に限られるから、沈黙してただけじゃ詐術に該当しないんだよね。店員に『20歳か?』と聞かれて黙ったらダメだけど」
穂積さんは、また暴れはじめた。
「そんなの分かるわけないでしょッ! 条文に書いてないじゃないッ!」
「うん、だからさ、法律の当てはめっていうのはじつは難しいんだよ。でも、法学部っていうのは、法律をじっさいに運用する方法を勉強するわけだろう。だから、試験問題も、こういうテクニックを磨くものばかりなわけで……あ、主将、おかえりなさい」