158手目 ついえなかったライン
《折口希さん、ですか……》
電話のむこうで、姫野先輩の声がとぎれた。
私は息を殺して、続きを待つ。
《たしかに、古都大将棋部のOGです。わたくしは面識がありませんけれども》
「どんなかたか、ご存知ですか?」
《それは裏見さんのほうがお詳しいのでは? 都ノの教官とうかがいましたが》
「はい……さきほどお伝えしたとおり、工学部の先生です。私が知りたいのは、大学将棋で現役だったときのことです。どれくらい強かったとか、どんなメンバーと顔見知りだったとか、そういうことです」
ふたたび会話がとぎれた。
ちょっと先走ってしまったかもしれない。内偵がバレバレの聴き方になってしまった。特に、交友関係を知りたがったのはマズかったかも。後悔先に立たず。
姫野先輩が私の好奇心をどう解釈するのか、不安になる。
《……古都大の教官にも、将棋部のOBがいらっしゃいます。年齢も30そこそこですので、もしかすると折口先生の現役時代をご存知かもしれません》
「でしたら、そのひとにぜひ……」
《とはいえ、裏見さんが折口先生とじかにお話になられるのが一番です。裏見さんと折口先生がそのような仲でないならば、第三者のわたくしから情報を流すのは憚られます》
ぐぅ、先手を打たれた。教えてくれそうにない。
ここは、あらかじめ風切先輩と練っておいた策を使う。
「じつは、折口先生が都ノ将棋部の顧問になられたんです。まえの先生は退職とかで……折口先生はちょっと破天荒なところがあって、今後のつきあいかたにみきわめがつかない状態です。どなたか、対応などを教えていただきたいかな、と……」
《それは部の活動をつうじて、みきわめていくことかと思いますが……》
ダメだ、こりゃ。完全に警戒されている。
「わかりました。お時間をとっていただき、ありがとうございました」
《こちらこそ。王座戦で合間見える日を、楽しみにしております》
ひえッ。勝負師の覇気を感じて、私はあいさつもそこそこに電話を切った。
ひと息ついて、うしろのメンバーに結果を報告する。
「得られた情報はゼロです」
それを聞いた風切先輩は「妙だな」と言ってから、
「10年近く前とはいえ、OGの、しかも主将のことを知らなかったりするかね」
と、いぶかしんだ。
私も、不承不承うなずいた。
「なんとなく、情報を隠された気がしてます……でも、姫野先輩は、気軽にウソをついたりするひとじゃありません。よほどの理由があるんだと思います」
「そのよほどの理由が聖生なら、問題は関西に飛び火するな」
そう……そうなのだ。これまでは、関東限定の問題だと考えられていた。だけど、折口先生が聖生を知っていた以上、事件のラインは関西ともつながる。
「折口先生のあの話、ほんとうだと思いますか?」
「……思わないな。突拍子がなさすぎる」
「ですよね、だって……」
私は、あのあと部室でかわされた会話を思い出す――
***** 裏見香子、回想中 *****
「リーマンショックが聖生のしわざッ!?」
私たちの大声が、部室にひびきわたった。
折口先生は、椅子のうえで足を組みながら、
「聖生のしわざとは言っていない……が、聖生の出没と日本の大不況は関係している」
と告げた。私たちは全員、頭がハテナマークになる。
意外とかそういう以前に、意味がわからなかった。
私はしびれを切らして、
「どういうことなのか、きちんと説明してください」
と催促した。すると、折口先生は悪びれもせずに、
「いや、じつはな、それ以上のことはわからんのだ」
と答えた。あのさぁ。
私がつっこみを入れるまえに、三宅先輩が質問をはなった。
「とりあえず、聖生が日本の大不況の年に現れている、という理解でいいんですか?」
「うむ、そこのきみはなかなか理解力があるな。そのとおりだ」
「ということは、リーマンショックの年、2008年にも聖生は現れたんですか?」
「そうだ。近畿大学将棋連合に、聖生と名乗る人物から手紙がとどいた」
えぇ、初耳すぎる。
三宅先輩も不審に思ったらしく、
「関東の大学将棋関係者で、そのことを知っている人物はいないようですが」
と探りを入れた。すると、折口先生はさも当然のように、
「まあ、そうだろうな」
とだけ返した。教育者なら、もっと丁寧に説明してくださいな。
三宅先輩も、やや顔をしかめて、
「折口先生、もしかして俺たちをからかってます?」
とたずねた。
「からかってはいない。ただ、この話題は近畿でも秘中の秘だ。先に、きみたちが集めた聖生の情報を教えてもらおう。なぜ10代の学生が聖生の名前を知っている?」
いやいやいや、さりげなくこちらの情報を引き出そうとするのはNG。
不公平はイヤだから、だれも答えなかった。
折口先生は腕組みをして、
「なんだ? そっちこそ私をからかっているのか?」
と、あらぬ疑いをかけてきた。
三宅先輩が冷静に対応する。
「からかってはいません。でも、年配の先生から話すのが筋じゃないですか?」
「亀の甲より年の功だからな、と言いたいところだが、女性の年齢に触れるのは許さん」
ダメだ、これ。どんどん話がそれる。
しょうがないので、同性の私から強く圧力をかける。
「折口先生、はっきりとおっしゃってください。三宅先輩が困ってます」
「しかし、情報はバーターだから……」
「それなら、共同研究室での活動を事務に報告してもいいわけですね?」
折口先生の顔色が変わった。
「い、いや、あれはだな、適正な予算の執行であって……」
「世界で一番美しい女神像の、どこが適正な予算執行なんですかぁ?」
ほらほらほら、バラされたくなかったら白状しなさい。
私が詰め寄ると、折口先生はさすがに折れた。
「ぐぬぬぬ……わかった。近畿の大学将棋連合に、ハガキが送られてきたらしい」
「らしい……? らしいって、どういうことですか?」
「私は実物を見ていないのだ」
「折口せんせぇ、小出しにするとよくありませんよぉ?」
「ほんとに見てないのだッ! 当時の幹事長が内密に処分したと聞いている」
内密に処分? ……うそくさい。
私は三宅先輩のほうをチラ見した。
三宅先輩はかるく肩をすくめた。判断がつきかねているらしい。
しょうがないので、私はすこしちがう方向から尋問することにした。
「幹事長が内密に処分したことを、なんで先生はご存知なんですか?」
「こういうのは自然と漏れるものだ」
「世界で一番美しい女神像……」
「ほんとだッ! O阪の将棋道場の客から、そう聞いたッ!」
「将棋道場の客? 客ってなんですか?」
「通りすがりの真剣師だ。そこそこ顔見知りでな、情報通だったから信頼できる」
はぁ〜、情報源があやふやなわけか。
私は大きくタメ息をついた。
ほかの部員も、一気にさめた感じになる。
「あ、その顔は信じていないな? 聖生から手紙が送られてきたのは、バブルが崩壊した1990年とリーマンショックの2008年だ。前者は関東、後者は関西というちがいはあるが、偶然ではないと考える」
けっきょく憶測な気がするんですが、それは。
なんだか微妙な空気になったので、三宅先輩がしめくくった。
「わかりました。いちおう聖生との線は切れてないってことですね。ただ、この情報だけで聖生を追跡するのは無理なので、俺たちのほうで、もういちどよく考えてみます。情報提供ありがとうございました」
「うむ、秋の大会までビシバシ鍛えてやるから、よろしく」
***** 回想終了 *****
という流れだったわけだけど――今考えてもナゾ。
「風切先輩は、2008年の手紙がホンモノだと思いますか?」
私の質問に、先輩は「さぁな」と答えた。
「実物を見てないんじゃ、なんとも言えない。第一、ソースがあいまいすぎる」
「ですよね……この件はいったん無視ですか?」
「それしかないな。聖生もちょっかいをかけなくなってきたし、寝た子を起こすのも野暮だ。折口の話はノイズとしておこう」
なんだか、大山鳴動したわりにネズミ一匹というか、なんというか。
姫野先輩に聖生の名前を告げたほうがよかったかしら――いや、それも藪蛇か。
私がスマホを片付けていると、風切先輩はなにか言いにくそうな顔をした。
「どうかしましたか? もしかして、まだ疑問があるとか?」
「聖生とは関係ないんだが……最近、松平が顔見せないのは、なにかあったのか?」
「なにも」
私は即答した。風切先輩は「あぁ、うん」とつぶやいて、
「それならいいんだが……思春期男子はいろいろあるから、すこしは勘弁してやってくれよな」
と、なんだか松平の肩を持つような発言。
思春期女子にもいろいろあるんですけどぉ。っていうか思春期の問題じゃないし。
「わかりました。善処します」
「お、おぅ……ところで、世界で一番美しい女神像ってなんだ?」