14手目 もこちゃん
私は駒を並べながら、ちらりと速水先輩の顔を盗み見た。
あいかわらず強面だけど、駅で会ったときとは、雰囲気がちがう。あのときは、単純に怖い先輩だった。こうして盤を挟んで対峙してみると、それとは異なる威圧感――強者の威圧感があった。
「振り駒は、各自で」
速水先輩は、私に振り駒をゆずった。ゆずり返す。
「べつに、いいわよ」
またゆずり返された。
もたもたするのも悪いかと思って、私は振り駒をした。
歩が3枚。私の先手。
所定の位置にもどして、両手をひざのうえにそろえた。
「それでは、第2局、始めてください」
「よろしくお願いします」
速水先輩の合図で、一斉に対局が始まった。
チェスクロが押される。私は、数秒ほど策を練った。
「……7六歩」
奥山くんの話だと、先輩は居飛車党。しかも、矢倉が得意。
つまり、予想される2手目は――
「8四歩」
うんうん、そうこなくっちゃ。私はうなずいて、6八銀と上がった。
「奥山から、私の得意戦法は聞いてないの?」
「聞きました」
速水先輩は、口の端をほころばせた。
「おもしろい子ね。将棋指しは、そうでなくちゃ……3四歩」
ここからは、指し手が早かった。
6六歩、6二銀、5六歩、5四歩、4八銀、4二銀、5八金右、3二金。
後手の方針が問題。急戦にしてくる可能性もある。
私を格下認定するなら、むしろそっちのほうがありえた。
7八金、4一玉、6九玉、7四歩、6七金右、3三銀、7七銀、3一角。
5二金を保留してる。もしかして、ほんとに急戦模様?
私は10秒ほど考えて、3六歩と突いた。
4四歩、7九角、6四角。
なるほど、ようやく理解できた。脇システムへのお誘いだ。
「4六角です」
受けて立つ。
「それじゃ、お手並み拝見と行くわね……5二金」
ようやく金を上がった。
私は3七銀として、将来の4六角に備える。
速水先輩も7三銀かな、と思いきや、8五歩と伸ばしてきた。
7九玉、3一玉、2六歩、2二玉、2五歩、4三金右、8八玉、7三銀。
変則的な駒組みのわりには、無難なかたちに落ち着いた。
もうすこし、序盤が続きそうかな。1六歩、と。
速水先輩はその手を見て、無表情に30秒ほど考えた。
「8四銀」
ん? これは……パッと見で、指したい手ができた。
6四角、同歩、4一角だ。次に7四角成は先手有利だから、後手は7三銀ともどるしかないはず。明らかな手損。でも、速水先輩が、こんな筋を見逃す? 罠?
私は悩んだ。最初のチャンスは見送る、って発言した大名人もいるけど、あれは昭和のゆっくりした将棋の話。スピードを重視する現代将棋にそぐわない。それに、速水先輩から2回目のチャンスが転がりこんでくるとは限らないし……うーん……。
私は背筋を伸ばし、こめかみに指を当てた。
目を閉じて、じっと考える。
……………………
……………………
…………………
………………
ダメダメ。《速水先輩》というブランドに、こだわり過ぎ。一回も指したことない相手なんだから、プレッシャーを感じる必要なんてない。奥山くんとの会話で、ネガティブになってしまったようだ。私は深呼吸して、局面に集中した。答えは盤上にある。
6四角としたら、同歩、4一角、7三銀、6三角成までは確定路線。このままだと、後手は不利になってしまう。6三の馬の代償が必要。例えば……6五歩? 6五歩、同歩、3九角、3八飛、8四角成かしら。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
そうか……これがあるなら、手損でも問題ない。6三の馬よりも、8四の馬のほうが、若干強く働いている……でも、後手は手損だけじゃなくて、歩損なのよね。先手玉に殺到する順は、ないはず。反対に、先手は4六銀から攻めることができる。3五歩、同歩、3四歩、同銀、3五銀、同銀、同飛みたいな……あ、これは良くないか。3四銀、3八飛、3五歩と囲いなおされてしまう。
となると……左に攻めて行くとか? 4六銀の次に一手指させて……9四歩、5五歩、同歩、同銀、5三歩、6四銀、同銀、同馬、9二飛。あるいは、もっといろいろ絡めて、3五歩、同歩、5五歩、同歩、同銀、5三歩、6四銀、同銀、同馬、9二飛。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
まあまあ、かな。いいとも悪いとも言えない。選択肢のひとつ。
但し、これは、6四銀に同銀と乗ってきてくれた場合。取らずに6二銀も有力。そのときは、5二馬と内側に入って、次に5八飛を狙いたい。5三銀成を阻止するには、4二金引か4二金寄だけど、6一馬と逃げておいて、いいんじゃないかしら。馬を殺す手が、ないように見える。例えば、6二銀以下、5二馬、4二金引、6一馬、4一金なら5八飛で、後手は5一金としているヒマがない。
どうやら、4六銀〜5五歩の攻めは、成立している。5五歩に同歩と取らないなら、5四歩と取り込んで弾みがつくし、問題ない。
「6四角」
決意の一手。
同歩、4一角、7三銀、6三角成、6五歩、同歩、3九角、3八飛、8四角成。
パタパタと進んだ。
「4六銀」
私は銀を上がった。速水先輩のターン。
将棋指しは、思考中の態度に個性が出る。前後に揺れるひと、髪の毛をさわるひと、ぼやきが増えるひと、持ち駒を頻繁にそろえるひと、扇子をパチパチするひと――速水先輩は、どれでもなかった。背筋をピンと伸ばして、じっとしている。
「……6二銀」
先に動いてきた。私は座りなおす。
まさか、馬が死んでるってオチじゃないでしょうね。5二馬……7三馬? でも、馬は死んでないはず。4二金引、6一馬、4一金引に無策なら死ぬけど、7三馬の瞬間に3五歩と突いておけば、馬を切って殺到する順ができる。例えば、現局面から、5二馬、7三馬、3五歩、同歩、2四歩、同歩、3四歩、同銀、3五銀、同銀、同飛。後手は、馬を殺している余裕がない。
「5二馬」
私は、すなおに逃げた。
速水先輩は、ノータイムで7三馬と引く。
私は、多少の修正を迫られた。左側を固められた以上、5五歩〜同銀〜6四銀の筋は、成立しそうにない。あらためて、右側を攻める順を考える。
3五歩、同歩、2四歩、同歩、3五銀……あ、3七歩があるか。先に馬筋を止めておかないといけない。5五歩も追加で。3五歩、同歩、2四歩、同歩、5五歩、同歩(なんだか角換わりみたいね)、3四歩、同銀、3五銀、同銀、同飛、3四銀……これは、同飛、同金、同馬で、先手のほうが有利っぽい。後手は飛車しかないから、受けがむずかしい。
となると、3四銀じゃなくて、3四歩、3八飛、5六歩ね。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
ちょっともったいないけど、6四銀と止めたい。以下、8四馬、5六金みたいな展開。5八歩は、消極的過ぎる。5四歩と垂らす手がなくなるから。
私はチェスクロを確認する。ここまでで、私は10分消費していた。速水先輩は、まだ7分しか使っていない。これ以上は、考えられないわね。
「3五歩」
開戦。速水先輩は1分使って、同歩。
以下、2四歩、同歩、5五歩と進んだ。
「裏見さんは、H島出身なの?」
いきなり質問された。私は、そうだと答えた。
「H島に、桐野っていう女の子がいなかった?」
「あ、はい……友だちです」
「将棋の世界は、広いようで狭いわね……8六歩」
質問の意味が分からなかったけど、私は対局に集中した。
これは……同歩と取るしかない。
「同歩」
「8五歩」
継ぎ歩……継ぎ歩は読んでなかった。
放置はできない。ここから3四歩以下の攻めは、後手に銀を渡す。8六歩〜8七銀と打ち込まれたら、終わりだ。私は、読みがズラされているのを感じつつ、同歩と取った。
「4五歩」
全然ちがう局面になっちゃった。
私は落胆する気持ちをおさえて、背筋をのばし、口もとにこぶしを当てた。
速水先輩は、サッと立ち上がる。手洗いかと思いきや、和室のすみっこで、ビニール袋をごそごそし始めた。1.5リットルのペットボトルと紙コップを取り出して、お茶を2つ用意し、席にもどってきた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
私はお茶が好き。遠慮せず、ひと口飲んだ。
リフレッシュしたところで、続きを考える。
この4五歩は、同銀で攻めを呼び込んで……ないのか。5五馬と出る手が、銀香両取りになっている。3四歩、4五馬、3三歩成、同桂は、さすがに止まってるわね。
でもでも、いきなり3四歩で、いいでしょ。4六歩が怖いけど、3三歩成、同桂、3四歩で、攻めが止まらなくなる。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
4五銀の場合は、5五馬、3四歩、4五馬、3三歩成、同桂、3四歩のときに、同馬と取る手があるけど、現時点で3四歩としてしまえば、その心配はない。
私は自信を持って、3四歩と打った。