136手目 30年前の証人
「氷室?」
太宰くんはもういちど声をかけた。
私も氷室くんの顔をのぞきこむ――真っ青だ。
私はあわてて立ち上がる。
「ひ、氷室くん、大丈夫?」
「きょう……じを……よ……」
氷室くんは頭をおさえたまま、畳のうえに倒れた。
「氷室? 氷室?」
太宰くんは、氷室くんを揺り動かそうとした。
「ダメよッ! 安静にッ!」
私は大急ぎで部屋を出た。
「た、たいへんですッ! 氷室くんが倒れましたッ!」
フロアに集まっていた全員がふりむいた。
3位決定戦がまだ終わっていなかったことに気づく。
でも、いちいち気にしてられない。
入江会長がまっさきに、
「倒れた?」
と聞き返した。
「はい、顔色が真っ青なんです」
入江会長も色を失って、すぐに和室へ飛び込んだ。
氷室くんは座布団をまくらにして、あお向けに横たわっていた。
太宰くんは、
「気道は確保しときました」
と、応急措置をしたことを伝えた。入江会長は迅速に指示を出す。
「僕は119番する。裏見さんは1階の受付で医者がいないかどうか確認。太宰くんはここで待機。なにかあったら速水さんと相談してくれ」
私はエレベーターに乗り、1階へダッシュした。
○
。
.
ピーポー ピーポー ……
救急車が去る。
公民館のまえに並んだ私たちは、その赤い光を見送った。
「息子の京介が、ごめいわくをおかけしました」
あご髭のダンディなおじさんが、私たちに頭をさげた。
アラフィフだろうか。高級そうなスーツに身を固めていた。職場から来たらしい。
入江会長は恐縮して、
「いえ、こちらこそ運営に不手際があり、たいへんもうしわけございません」
と平謝りだった。
「氷室くんの荷物は、こちらで保管してあります。お持ち帰りになられますか?」
「病院へ付き添った妻に渡しておいていただけませんか。私は講義があるもので。最近は文科省がうるさくて、なかなか休講にできないのですよ」
……ん? このひと、もしかして大学教授?
ただ、ちょっと冷淡だと思った。
すると、氷室くんのお父さんは私の反応に気づいたらしく、
「おそらくシックハウスだと思います。昔から新築の家にいくと、気分が悪くなりがちでしたから。大事にはならないでしょう」
と言葉を継いだ――いや、そういう問題なのかしら。
親ならもうちょっと子どもの心配をしたほうがいいのでは。
現に奥さんのほうはかなり心配してたわよ。
納得がいかない私のよこで、太宰くんがいきなり声をあげた。
「すみません、こういう場でたいへんもうしわけないのですが、氷室教授におうかがいしたいことがあります。1分……いえ、30秒ほどよろしいですか?」
ちょっとちょっと、と思いきや、氷室くんのお父さんはイヤな顔ひとつしなかった。
むしろフレンドリーな感じになる。
「なんだね。数学の話なら1分と言わずにもっとしてもいい」
「30年前、聖生という人物から届いた暗号は、もう残っていないのですか?」
心臓が止まりかけた。それに、ほかのメンバーも微妙に反応する。
入江会長は、
「太宰くん、TPOは守ってくれ」
とたしなめた。ところが、氷室くんのお父さんは笑って、
「ずいぶんと昔のことを持ち出してくるね。なぜ今になってその質問を?」
と返した。
「氷室教授が、当時の関東大学将棋連合の会長だとうかがいましたので」
「私が尋ねているのは、なぜ今になってあの暗号に興味を持つのか、だよ」
「ルポタージュに興味があるんです。その練習にはいいかな、と思いました」
「ルポタージュなら、もっと社会的なもののほうがいいのではないかな。いずれにせよ、あの暗号はもう残っていないだろう。葉書を紛失してしまった」
「コピーも残っていないのですか? 当時はすでにコピー機が普及していたのでは?」
「コピーならだれかが持っているかもしれない。残念だが私は持っていない」
氷室くんのお父さんは、淡々とそう答えた。
太宰くんもそれ以上は食い下がらずに折れた。
「ご迷惑な質問だったかもしれません。おゆるしください」
「かまわないよ。もしあの暗号が今でも手元にあったら、息子と一緒に解いてみたかもしれない。当時、あのハガキを閲覧したのはごく一部のメンバーで、私も最初はイタズラだと思っていた。暗号だと気づいたのは、ずっとあとのことだ」
「ずっとあと、とは?」
「OBの私に電話がかかってきてね。聖生という人物から『あの暗号は解けたか?』という葉書が来たが、なんのことか分からないという相談だった。じっさいに捜してみたが、どこにもなかった」
「ご自身でお捜しになられたんですか?」
「ああ、当時は助手だったので比較的時間があった」
「いつのことでしょうか?」
「もうだいぶ前のことだからな……90年代前半だったろうか」
「その2通目のハガキは、どこかに残ってますか?」
「それは分からない。当時の会長に返してしまったからね」
太宰くんは、まだなにか尋ねようとした。ところが、氷室くんのお父さんは、
「もうしわけないが、そろそろ行かないといけない。本日は息子がご迷惑をおかけした」
と言って話を打ち切り、手近なタクシーを呼び止めた。
「今後とも京介をよろしく頼む。では」
タクシーは走り去った。入江会長はタメ息をついて、
「太宰くん、いったいどういうつもりなんだ。今のはさすがに失礼だぞ」
とたしなめた。太宰くんはあまり悪びれたようすもなく、
「いえ、ちょっと個人的に調べ物をしているもので」
と答えた。入江会長はもっと怒るかと思いきや、話題を変えた。
「ともかく、僕も病院へ行くよ。速水くんに先に行ってもらったが、さすがに総責任者は僕だからね。裏見さん、あとのことは傍目さんと土御門くんに頼んだと伝えてくれ」
「りょ、了解しました」
入江会長もタクシーを呼び止めて、そのまま姿を消した。
あとには、私と太宰くんだけが残される――めちゃくちゃ気まずい。
一方、太宰くんは私の存在すら忘れているのか、独りごとを続けていた。
「2通目の葉書があったのか……情報不足だったな……」
うーん、どうしましょ。私はこっそりとこの場を立ち去ることにした。
抜き足差し足、公民館のほうへ移動する――と、いきなり呼び止められた。
「香子、あいつはどうなったの?」
視線を落とすと、火村さんがこっちを見上げていた。
「メガネ会長は? 気取り屋の法学部女もいないわね」
「氷室くんは病院に運ばれたわ。シックハウスらしいの」
「命に別条は?」
「ない……んじゃないかしら。お父さんはあんまり心配してなかったから」
「そう……ってことは、氷室の不戦敗で、太宰が優勝?」
私は対局の詳細を説明した。
「終局後に倒れた? じゃあ、あいつが優勝なのか……わりと根性あるわね」
正直、こうなるくらいなら途中で言って欲しかった感はある。
急病なら対局を中断して、後日指しなおしにしてもよかったわけで。
「で、火村さんは? 3位決定戦はどうなったの?」
「さてと、渋谷の有縁坂でトマトジュースでも飲もうかしら」
「ほーむーらーさーん?」
火村さんはこぶしを握って、わなわなと震えた。
「あいつ、めちゃくちゃ中飛車対策してた」
そりゃそうでしょ。3分の1以上の確率で当たるんだし。
大河内くんはいかにも研究家タイプだから、対策されてるのは当然。
「残念ね」
「ま、しょうがないわ。とりあえず荷物取りにもどりましょ」
私たちは15階へ移動した。ガランとしている。
みんな打ち上げに移動してしまったようだ。
傍目先輩がひとりで、段ボールに荷物を詰めていた。
「手伝いましょうか」
「ありがとうございます。だいたい終わったので、忘れ物の確認をお願いします」
私は和室に入った。忘れ物は……ないかな。
念入りに確認しておきましょ。氷室くんの私物があると困るし。
部屋のすみからすみへ視線を移していると、急にドアがひらいた。
「ちょっと、香子、さっきから呼んでるんだけど」
「え? ……全然聞こえなかったわよ」
この部屋、もしかして防音? 対局中もそんな気はしていた。
火村さんは眉間にしわを寄せて、
「この部屋、やけに薬品くさいわね」
と言った。私も鼻をスンスンする――そうかも。
火村さん、あいかわらず匂いに敏感。
「換気しましょ」
火村さんはエアコンをつけようとした。
「ダメよ。もう撤収するんだから。それに、エアコンは動かないの」
「ほんとに動かないの? コンセントが抜けてるとかいうオチじゃなくて?」
あのさぁ。コンセントはどう見ても繋がって……ん?
私はちょっと妙なことに気づいた。エアコンのコンセントは、たしかに繋がっている。けど、壁に設けられた差込口じゃなくて、その差込口に挿された電源タップのほうに繋げてあったからだ。
「変ね……」
私さんがそうつぶやくと、火村さんは、
「なにが?」
とたずね返した。
「エアコンのコンセントしか繋いでないのに、差込口を増やす必要なくない?」
「それもそうね……そのタップをはずして繋ぐとどうなるの?」
火村さんは背が届かないから、私にはずすように頼んだ。
試してみる。タップをはずし、壁の差込口に直接つなぐ。
スイッチオン。
ヴーン
えッ……動いた。これには火村さんも、
「どういうこと? タップが壊れてたとか?」
と言いながら、目を白黒させた。
「裏見さん、火村さん、ちょっとよろしいですか?」
傍目先輩が、あけっぱなしのドアから入ってきた。
空調の音に気づく。
「あれ? 壊れてたんじゃないんですか?」
「あ、えっと……勘違いだったみたいです」
「そうですか。だとしたらあんなごたごたも……ま、いいです。切っておいてください」
私は空調を切った。傍目先輩も室内を軽く確認する。
「大丈夫そうですね……そのタップは?」
「あ、これは……」
私は言葉に詰まりかけた。すると、火村さんがいきなりウソをついた。
「それは聖ソフィアの私物よ。あたしのスマホ充電用」
傍目先輩はメガネをなおしながら、
「公共の建物でスマホを充電しないでください」
と注意した。火村さんは笑ってごまかす。
「では、撤収しましょう」
傍目先輩は段ボールをかかえてエレベーターへ向かった。
手伝おうとしたけど、1個だからいいと言われた。
「私は10階の管理人室へ報告に行きます。おつかれさまでした。打ち上げの会場はメーリングリストで送った通りです。参加は自由ですから、お好きなように。土御門くんが幹事ですから、飲み会になっているとは思いますが」
傍目先輩だけ途中で降りて、私たちは1階へ到着――って、げげッ!
レセプションホールの中央に、見慣れたニュースボーイキャップの少年。
「よぉ、おふたりさん」
恭二くんは、私たちにむかって手を振った。
「ずいぶん遅かったな。京介はくたばったのか?」
これには火村さんが怒って、
「ストーカーはさっさとO阪に帰って、たこ焼きでも食べてなさいッ!」
と怒鳴った。
「まあまあ、俺と京介の仲だしさ。冗談だよ」
「冗談にしてもほどがあるでしょ。っていうか、なんでまだここにいるの?」
「さすがに東京まで来たんだ、なんかして帰りたいだろ……ですよね、先輩」
恭二くんは、うしろに控えていた姫野先輩と藤堂さんに話しかけた。
藤堂さんはくいっ〜とメガネをあげながら、
「急に先輩呼ばわりされると、気味が悪い」
と答えた。けど、まんざらでもない模様。
いやいやいや、ここはさすがに姫野先輩が止めるでしょう。
私は期待のまなざしを投げかけた。
「わたくしも、少々肩透かしでした。ここはなにか記念を残しておきたいところです」
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………………は?
※電源タップのイラストは下記のフリー素材をお借りしました。
https://www.sozai-library.com/sozai/12731




