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凛として駒娘──裏見香子の大学将棋物語  作者: 稲葉孝太郎
第23章 2016年度新人戦2日目(2016年6月19日日曜)
136/489

136手目 30年前の証人

氷室ひむろ?」

 太宰だざいくんはもういちど声をかけた。

 私も氷室くんの顔をのぞきこむ――真っ青だ。

 私はあわてて立ち上がる。

「ひ、氷室くん、大丈夫?」

「きょう……じを……よ……」

 氷室くんは頭をおさえたまま、畳のうえに倒れた。

「氷室? 氷室?」

 太宰くんは、氷室くんを揺り動かそうとした。

「ダメよッ! 安静にッ!」

 私は大急ぎで部屋を出た。

「た、たいへんですッ! 氷室くんが倒れましたッ!」

 フロアに集まっていた全員がふりむいた。

 3位決定戦がまだ終わっていなかったことに気づく。

 でも、いちいち気にしてられない。

 入江いりえ会長がまっさきに、

「倒れた?」

 と聞き返した。

「はい、顔色が真っ青なんです」

 入江会長も色を失って、すぐに和室へ飛び込んだ。

 氷室くんは座布団をまくらにして、あお向けに横たわっていた。

 太宰くんは、

「気道は確保しときました」

 と、応急措置をしたことを伝えた。入江会長は迅速に指示を出す。

「僕は119番する。裏見うらみさんは1階の受付で医者がいないかどうか確認。太宰くんはここで待機。なにかあったら速水はやみさんと相談してくれ」

 私はエレベーターに乗り、1階へダッシュした。


  ○

   。

    .


 ピーポー ピーポー ……


 救急車が去る。

 公民館のまえに並んだ私たちは、その赤い光を見送った。

「息子の京介きょうすけが、ごめいわくをおかけしました」

 あご髭のダンディなおじさんが、私たちに頭をさげた。

 アラフィフだろうか。高級そうなスーツに身を固めていた。職場から来たらしい。

 入江会長は恐縮して、

「いえ、こちらこそ運営に不手際があり、たいへんもうしわけございません」

 と平謝りだった。

「氷室くんの荷物は、こちらで保管してあります。お持ち帰りになられますか?」

「病院へ付き添った妻に渡しておいていただけませんか。私は講義があるもので。最近は文科省がうるさくて、なかなか休講にできないのですよ」

 ……ん? このひと、もしかして大学教授?

 ただ、ちょっと冷淡だと思った。

 すると、氷室くんのお父さんは私の反応に気づいたらしく、

「おそらくシックハウスだと思います。昔から新築の家にいくと、気分が悪くなりがちでしたから。大事にはならないでしょう」

 と言葉を継いだ――いや、そういう問題なのかしら。

 親ならもうちょっと子どもの心配をしたほうがいいのでは。

 現に奥さんのほうはかなり心配してたわよ。

 納得がいかない私のよこで、太宰くんがいきなり声をあげた。

「すみません、こういう場でたいへんもうしわけないのですが、氷室教授におうかがいしたいことがあります。1分……いえ、30秒ほどよろしいですか?」

 ちょっとちょっと、と思いきや、氷室くんのお父さんはイヤな顔ひとつしなかった。

 むしろフレンドリーな感じになる。

「なんだね。数学の話なら1分と言わずにもっとしてもいい」

「30年前、聖生のえるという人物から届いた暗号は、もう残っていないのですか?」

 心臓が止まりかけた。それに、ほかのメンバーも微妙に反応する。

 入江会長は、

「太宰くん、TPOは守ってくれ」

 とたしなめた。ところが、氷室くんのお父さんは笑って、

「ずいぶんと昔のことを持ち出してくるね。なぜ今になってその質問を?」

 と返した。

「氷室教授が、当時の関東大学将棋連合の会長だとうかがいましたので」

「私が尋ねているのは、なぜ今になってあの暗号に興味を持つのか、だよ」

「ルポタージュに興味があるんです。その練習にはいいかな、と思いました」

「ルポタージュなら、もっと社会的なもののほうがいいのではないかな。いずれにせよ、あの暗号はもう残っていないだろう。葉書を紛失してしまった」

「コピーも残っていないのですか? 当時はすでにコピー機が普及していたのでは?」

「コピーならだれかが持っているかもしれない。残念だが私は持っていない」

 氷室くんのお父さんは、淡々とそう答えた。

 太宰くんもそれ以上は食い下がらずに折れた。

「ご迷惑な質問だったかもしれません。おゆるしください」

「かまわないよ。もしあの暗号が今でも手元にあったら、息子と一緒に解いてみたかもしれない。当時、あのハガキを閲覧したのはごく一部のメンバーで、私も最初はイタズラだと思っていた。暗号だと気づいたのは、ずっとあとのことだ」

「ずっとあと、とは?」

「OBの私に電話がかかってきてね。聖生のえるという人物から『あの暗号は解けたか?』という葉書が来たが、なんのことか分からないという相談だった。じっさいに捜してみたが、どこにもなかった」

「ご自身でお捜しになられたんですか?」

「ああ、当時は助手だったので比較的時間があった」

「いつのことでしょうか?」

「もうだいぶ前のことだからな……90年代前半だったろうか」

「その2通目のハガキは、どこかに残ってますか?」

「それは分からない。当時の会長に返してしまったからね」

 太宰くんは、まだなにか尋ねようとした。ところが、氷室くんのお父さんは、

「もうしわけないが、そろそろ行かないといけない。本日は息子がご迷惑をおかけした」

 と言って話を打ち切り、手近なタクシーを呼び止めた。

「今後とも京介をよろしく頼む。では」

 タクシーは走り去った。入江会長はタメ息をついて、

「太宰くん、いったいどういうつもりなんだ。今のはさすがに失礼だぞ」

 とたしなめた。太宰くんはあまり悪びれたようすもなく、

「いえ、ちょっと個人的に調べ物をしているもので」

 と答えた。入江会長はもっと怒るかと思いきや、話題を変えた。

「ともかく、僕も病院へ行くよ。速水くんに先に行ってもらったが、さすがに総責任者は僕だからね。裏見さん、あとのことは傍目はためさんと土御門つちみかどくんに頼んだと伝えてくれ」

「りょ、了解しました」

 入江会長もタクシーを呼び止めて、そのまま姿を消した。

 あとには、私と太宰くんだけが残される――めちゃくちゃ気まずい。

 一方、太宰くんは私の存在すら忘れているのか、独りごとを続けていた。

「2通目の葉書があったのか……情報不足だったな……」

 うーん、どうしましょ。私はこっそりとこの場を立ち去ることにした。

 抜き足差し足、公民館のほうへ移動する――と、いきなり呼び止められた。

香子きょうこ、あいつはどうなったの?」

 視線を落とすと、火村ほむらさんがこっちを見上げていた。

「メガネ会長は? 気取り屋の法学部女もいないわね」

「氷室くんは病院に運ばれたわ。シックハウスらしいの」

「命に別条は?」

「ない……んじゃないかしら。お父さんはあんまり心配してなかったから」

「そう……ってことは、氷室の不戦敗で、太宰が優勝?」

 私は対局の詳細を説明した。

「終局後に倒れた? じゃあ、あいつが優勝なのか……わりと根性あるわね」

 正直、こうなるくらいなら途中で言って欲しかった感はある。

 急病なら対局を中断して、後日指しなおしにしてもよかったわけで。

「で、火村さんは? 3位決定戦はどうなったの?」

「さてと、渋谷の有縁坂うえんざかでトマトジュースでも飲もうかしら」

「ほーむーらーさーん?」

 火村さんはこぶしを握って、わなわなと震えた。

「あいつ、めちゃくちゃ中飛車対策してた」

 そりゃそうでしょ。3分の1以上の確率で当たるんだし。

 大河内おおこうちくんはいかにも研究家タイプだから、対策されてるのは当然。

「残念ね」

「ま、しょうがないわ。とりあえず荷物取りにもどりましょ」

 私たちは15階へ移動した。ガランとしている。

 みんな打ち上げに移動してしまったようだ。

 傍目先輩がひとりで、段ボールに荷物を詰めていた。

「手伝いましょうか」

「ありがとうございます。だいたい終わったので、忘れ物の確認をお願いします」

 私は和室に入った。忘れ物は……ないかな。

 念入りに確認しておきましょ。氷室くんの私物があると困るし。

 部屋のすみからすみへ視線を移していると、急にドアがひらいた。

「ちょっと、香子、さっきから呼んでるんだけど」

「え? ……全然聞こえなかったわよ」

 この部屋、もしかして防音? 対局中もそんな気はしていた。

 火村さんは眉間にしわを寄せて、

「この部屋、やけに薬品くさいわね」

 と言った。私も鼻をスンスンする――そうかも。

 火村さん、あいかわらず匂いに敏感。

「換気しましょ」

 火村さんはエアコンをつけようとした。

「ダメよ。もう撤収するんだから。それに、エアコンは動かないの」

「ほんとに動かないの? コンセントが抜けてるとかいうオチじゃなくて?」

 あのさぁ。コンセントはどう見ても繋がって……ん?

 私はちょっと妙なことに気づいた。エアコンのコンセントは、たしかに繋がっている。けど、壁に設けられた差込口じゃなくて、その差込口に挿された電源タップのほうに繋げてあったからだ。


挿絵(By みてみん)

 

「変ね……」

 私さんがそうつぶやくと、火村さんは、

「なにが?」

 とたずね返した。

「エアコンのコンセントしか繋いでないのに、差込口を増やす必要なくない?」

「それもそうね……そのタップをはずして繋ぐとどうなるの?」

 火村さんは背が届かないから、私にはずすように頼んだ。

 試してみる。タップをはずし、壁の差込口に直接つなぐ。

 スイッチオン。

 

 ヴーン

 

 えッ……動いた。これには火村さんも、

「どういうこと? タップが壊れてたとか?」

 と言いながら、目を白黒させた。

「裏見さん、火村さん、ちょっとよろしいですか?」

 傍目先輩が、あけっぱなしのドアから入ってきた。

 空調の音に気づく。

「あれ? 壊れてたんじゃないんですか?」

「あ、えっと……勘違いだったみたいです」

「そうですか。だとしたらあんなごたごたも……ま、いいです。切っておいてください」

 私は空調を切った。傍目先輩も室内を軽く確認する。

「大丈夫そうですね……そのタップは?」

「あ、これは……」

 私は言葉に詰まりかけた。すると、火村さんがいきなりウソをついた。

「それは聖ソフィアの私物よ。あたしのスマホ充電用」

 傍目先輩はメガネをなおしながら、

「公共の建物でスマホを充電しないでください」

 と注意した。火村さんは笑ってごまかす。

「では、撤収しましょう」

 傍目先輩は段ボールをかかえてエレベーターへ向かった。

 手伝おうとしたけど、1個だからいいと言われた。

「私は10階の管理人室へ報告に行きます。おつかれさまでした。打ち上げの会場はメーリングリストで送った通りです。参加は自由ですから、お好きなように。土御門くんが幹事ですから、飲み会になっているとは思いますが」

 傍目先輩だけ途中で降りて、私たちは1階へ到着――って、げげッ!

 レセプションホールの中央に、見慣れたニュースボーイキャップの少年。

「よぉ、おふたりさん」

 恭二きょうじくんは、私たちにむかって手を振った。

「ずいぶん遅かったな。京介はくたばったのか?」

 これには火村さんが怒って、

「ストーカーはさっさとO阪に帰って、たこ焼きでも食べてなさいッ!」

 と怒鳴った。

「まあまあ、俺と京介の仲だしさ。冗談だよ」

「冗談にしてもほどがあるでしょ。っていうか、なんでまだここにいるの?」

「さすがに東京まで来たんだ、なんかして帰りたいだろ……ですよね、先輩」

 恭二くんは、うしろに控えていた姫野ひめの先輩と藤堂とうどうさんに話しかけた。

 藤堂さんはくいっ〜とメガネをあげながら、

「急に先輩呼ばわりされると、気味が悪い」

 と答えた。けど、まんざらでもない模様。

 いやいやいや、ここはさすがに姫野先輩が止めるでしょう。

 私は期待のまなざしを投げかけた。

「わたくしも、少々肩透かしでした。ここはなにか記念を残しておきたいところです」

 ……………………

 ……………………

 …………………

 ………………は?

※電源タップのイラストは下記のフリー素材をお借りしました。

https://www.sozai-library.com/sozai/12731

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