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凛として駒娘──裏見香子の大学将棋物語  作者: 稲葉孝太郎
第23章 2016年度新人戦2日目(2016年6月19日日曜)
135/486

135手目 注意された私語

「よろしくお願いします」

 ふたりは頭を下げた。後手の太宰だざいくんがチェスクロを押す。

 氷室くんは7六歩。平凡な初手で開幕した。

「ずいぶんと手つきが焦ってるね」

「……」

「いや、答えなくていいよ。3四歩」

 2六歩、4四歩――ん? 太宰くん、振るつもり?

 2五歩、3三角、4八銀、3二銀。


挿絵(By みてみん)


 これは……ムリヤリ矢倉? それとも飛車より先に銀を上がっただけ?

 氷室くんの応手は速かった。5六歩。

「ハハハ、もうちょっとゆっくり指してくれても、いいんじゃないかな」

「僕の早指しの理由は分かるだろう」

宗像むなかた戦をまえに消耗したくない、だよね。でもさ、そういう時間的逼迫ひっぱく感は、タイプAと言ってね、強迫神経症をともなうこともある性格のひとつなんだ。アメリカのプライスという心理学者が1982年に発見したもので……」

「きみは心理学の講釈をするために、ここにいるわけじゃないだろう」

「ハハハ、多少はいいじゃないか。1年生は学部で習ったことを使いがち、ってね」

 太宰くんは笑いながら4三銀と指した。

 氷室くんはノータイムで5八金右。

「さて……」

 太宰くんは背筋を伸ばす。3二金と指した。振り飛車じゃない。

「そういえば、今日は風切かざぎり先輩が来てないね」

 氷室くんが初めて反応した。ちらりと視線をあげる。

「今日は都ノみやこので残ってる選手がいないんだ。当然だろう」

「先週もいなかったよね。怪我をしたって聞いたけど」

 なんでそっちのほうへ話を持っていくの?

 副立会人である私ですら警戒してしまう。

 氷室くんも相手にせず、7八銀と上がった。

「僕からすこしばかり推理をさせてもらうね」

 太宰くんは急にひとりごとを始めた。

 6二銀。

「大学将棋界隈のうわさだと、風切先輩はこけて怪我をしたらしい」

 6六歩。

「でもこれは嘘だ」

 6四歩。

「なぜなら当日、新宿駅で怪我人が出たという情報はなかったから」

 6七銀。

「逆に『新宿公園にパトカーと救急車が来ていた』というネット情報はあった」

 6三銀。

「そして、どうもそれが将棋大会の会場に近くだったらしい」

 7八金。

「しかも『人が殴られた』という話だ」

 8四歩。


挿絵(By みてみん)


「風切先輩の怪我は、なんらかの事故に巻き込まれたんじゃないだろうか」

速水はやみ立会人、すこし注意してもらえませんか」

 氷室くんは6九玉と寄りながら、立会人に介入を求めた。

 速水先輩はいたって平静に、

「太宰くん、対局者の迷惑になる行為は慎んでください」

 と注意した。太宰くんはとぼけたように、

「多少のひとりごとは許されていると思いますが?」

 と答えた。

「あなたのは度を過ぎてるわ」

「もっと露骨にいろいろ話してるひともいると思いますけど……分かりました。局面もすこし難しくなってきましたからね」

 太宰くんは悪びれたようすもなく、駒組みを続けた。

 8五歩、7七角、7四歩、5七銀、4一玉、7九玉、5二金。


挿絵(By みてみん)


 うわぁ、相雁木あいがんぎになった。なんだか最新型っぽい。

 氷室くんの3六歩に対して、太宰くんは5一角と引いた。

 4六歩、3一玉、8八玉、9四歩、9六歩、7三桂。

 7三角の展開かな、と思ったけど、ちがうのね。

 まあ、先手が4六歩と突いたから、7三角はあんまり圧がなさそう。あれは飛車のこびんが開いているとき、6五歩と飛車当たりにするのがメリット。この先手の陣形なら、7七の角と5七の銀の両取りを狙える7三桂のほうが自然だ。

「3八飛」

「先攻できそうだ。6五歩」


挿絵(By みてみん)


 太宰くんから開戦した。

「取らなければなんともない。3五歩」

 即反撃。これは……取るしかないっぽい? 後手の6六歩は速そうに見えて、収められるとそうでもない。このまま6五で接触させたままのほうがいい。先手の動きを封じることができる。

「氷室くんに付き合うよ。同歩」

 同飛、3四歩、3六飛。

 氷室くんは高めの位置で停車した。

「3七桂跳ねの準備か……」

 太宰くんもマジメに読んでいる。さっきの推理ごっこはなかったかのようだ。

 

 ギィ

 

 ドアを開ける音。私は驚いてふりむいた。

 すると、春日かすがさんがカメラを持って静かに入室した。

 そっか。春日さんは連合の広報だ。

 

 パシャパシャ

 

 2枚ほど写真を撮って、春日さんは退室した。

 なんか私も写された気がする。立会人の構図を撮りたかったのかしら。

 恥ずかしいなぁ、と思っていると、太宰くんは次の手を指した。

「5四歩」

「3七桂」

「まいったな。ほんとに手が速い」

 私もそう思う。宗像戦にむけた体力温存だとしても、ポカをしたら意味がない。

 それとも、優勝自体はどうでもいいってこと?

「氷室は、そんなに宗像と指したいわけ?」

 太宰くんは3三桂と跳ねて、またしゃべり始めた。

 氷室くんも今度は相手にした。

「指したいわけじゃないさ。でも、もう終わりにしたい」

「なにを?」

「きみには関係ない」

「今、調べてることがあるんだよね。30年前の出来事なんだけど」

 室内の空気が氷のように張り詰めた――気がした。

 30年前……それって、慶長けいちょう児玉こだま先輩が言ってた、聖生のえるの出現時期じゃない?

 私は記憶をたどる――まちがいない。30年前だと言っていた。

 でも、今の空気の変化は、私だけの気づきじゃないと感じた。氷室くん、速水先輩、あるいはその両方が反応したと、私は直感した。

 氷室くんは黙って6八角と引いた。


挿絵(By みてみん)


 これは……なんとなく分かった。

 次に6五歩と取って、同桂、6六銀右から角筋を通すつもりだ。

 4五歩と猛攻をかけることができる。

「6五歩を許容すると、することがなくなるか……6四銀」

 太宰くんは銀を立った。歩じゃなくて銀で桂馬を支える作戦だ。

「6五歩」

 同桂、6六銀右、8四角、2四歩。


挿絵(By みてみん)


 再度開戦。

 速水先輩にいろいろ訊きたいけど、このシチュじゃ話しかけられないのよね。

 対局者に丸聞こえになっちゃう。

 室内は雑音ひとつしなくて、廊下の音もまったく聞こえなかった。

 防音になってるのかしら。

「取るイチだね。同歩」

 氷室くんは4五歩と突く。これを取れるかどうか。

 太宰くんは長考した。

 はたから見ても、4五歩は取りにくい。

 4四歩、同銀、3四飛、5三金、2四飛があるからだ。


【参考図】

挿絵(By みてみん)


 2三歩、2六飛、3四歩と収めないといけない。後手だけ一方的に歩を打たされる。

 けっきょく、太宰くんは2分ほど考えて、5三金と先に立った。


挿絵(By みてみん)


 これはさっきの順を先回りした手ね。

 次こそ4五歩のはず。先手も忙しくなってきた。

 ここで氷室くんが小考。

「いやぁ、早く終わらせるって言ってるのに、こういうときだけ冷静で困っちゃうな」

「……」

 氷室くんは2分使って2三歩と垂らした。

 狙いとしては甘い気がする。同金でかたちが崩れるのは分かるけど、後手は取らないだろうし……それとも、取る手すらある? 先手がぐずぐずするなら、2三同金〜2二金〜3二金と立て直すのが手待ちを兼ねてくれる。

 もちろん、氷室くん相手にそう指すのはそうとう怖い。

 太宰くんも長考で返した。

「……取りにくいね。4五歩」

「6五銀」


挿絵(By みてみん)


 ほぉ、取りますか……3九角成とできないタイミングではある。4五桂と跳ねた手が馬取りになって、先手優勢。でも、単に6五同銀で困るのでは。6筋が受からない。

「んー、その手は多少読んでたけど、まさかほんとに指すとは……」

 太宰くんは腕組みをして考え込んだ。

 私も頭のなかで読む。6五同銀と仮定して……次にどうするの? 6五歩は攻めを呼び込んでいるだけだ。桂馬を打つ場所もない。うーん。

 ……………………

 ……………………

 …………………

 ………………7七桂とか?


【参考図】

挿絵(By みてみん)


 ある気がする。というのも、6五桂が金当たりになっているからだ。

 5三金と上がった手の逆用だし、このタイミングで6五同銀と取った理由にもなる。

 しーかーしー、かなり危ないわよ、これ。6五同銀、7七桂、6六銀、6五桂、6七銀成以下の攻め合いで勝てる保証がないし、6五桂に一回5二金と逃げる手もある。先手は6筋を収める手段がないから、攻め続けないといけない。

 さらに1分ほど経って、太宰くんは6五銀と取った。

「7七桂」

「前進あるのみ、6六銀」

 氷室くんの6五桂に、太宰くんは30秒ほど読みなおして5二金と引いた。

 逃げましたか。こうなると、氷室くんの継続手が気に――

「6六銀」


挿絵(By みてみん)


 うッ……強い。王手を呼び込んだ。

 太宰くんはさらに30秒追加する。

「同角」

 だんだん残り時間に差がついてきた。

 氷室くんが15分、太宰くんが10分。

 以下、7七角、同角成、同金、6二飛と進んだ。

 こんどは氷室くんが30秒追加して、角を盤上にはなった。


 パシリ


挿絵(By みてみん)


 遠見の角? ……王手か。でも、4二銀打と固く守って後手いいのでは?

 ……あ、全然ダメだ。5三銀、同銀、同桂成、同金、同角成が王手飛車になる。

「しまった……」

 太宰くんはうっかり本音を漏らした。読んでいなかったらしい。

 それでも時間差がつかないように、7五歩と早めに突いた。

「同角」

「6四銀」

 なるほど、手筋だ。大駒は引きつけて受けよ。

 でも、これじゃ6二飛と寄った意味がない。

「7四桂」


挿絵(By みてみん)


 氷室くんは飛車をいじめにかかった。この手は厳しい。横に逃げると6四の銀を取られてしまうから、縦に逃げるしかない。6三飛が幸便にみえるけど、7三桂成で痺れる。


【参考図】

挿絵(By みてみん)


 同銀は王手放置だし、同飛は6四角が王手飛車取りだ。

「ぐッ……これは……」

 太宰くんは険しい表情で6一飛と引いた。

 6二歩、7五銀、6一歩成、8六歩。

 後手は玉頭に殺到する順を選んだ。

 6二と、8七歩成、同金、8六歩、7七金。

「6九角」

「8一飛」


挿絵(By みてみん)


 ふたたび王手がかかる。先手も若干危ない……けど、詰めろにはなっていない。

 太宰くんは7一歩と打って、同飛成とさせてから4一銀と受けた。

「5二と」

「……同銀引」

「これで終わりだね。4二歩」


挿絵(By みてみん)


 ん? 大丈夫?

 これは詰めろじゃないような気がする。

 太宰くんも敏感に反応した。

「8七歩成」

 あれ? 太宰くんのも詰めろじゃないような……あッ、取ったら王手龍かッ!


【参考図】

挿絵(By みてみん)


 氷室くんはノータイムで7九玉と下がった。

 太宰くんは5八角成と金を取る。

 先手玉に詰めろがかかった。

「それは遅いよ。後手は詰んでる。4一歩成」


挿絵(By みてみん)


 ……………………

 ……………………

 …………………

 ………………

「早指しペースに巻き込まれてた……負けました」

 太宰くんはがくりと肩を落とした。

 私も遅まきながら気づく。同銀、4二銀、同玉、5三銀、3一玉、4二金、同金、同銀成、同玉、4三歩以下で詰んでる。


【参考図】

挿絵(By みてみん)


 同玉は4一龍だし、3二玉と寄るのも2二金で戻せる。

 速水先輩もうなずいて、口をひらいた。

「これで2016年度新人戦決勝戦を終わります。優勝は氷室京介くん」

 立会人の仕事を終えた速水先輩は、すぐに立ち上がった。

 窓を開ける。たしかにこの部屋は暑い。

 涼やかな風が流れ込み、私たちはひと息ついた。

「さて、感想戦はするの?」

 速水先輩は、盤を見つめるふたりに話しかけた。

 太宰くんは、

「僕はやりたいです。それに、3位決定戦は終わってないんじゃないですか?」

 と答えた。速水先輩は腕時計を確認する。

「そうね……ちょっと見てくるわ。それまで感想戦をお願い」

 速水先輩は和室を出て行った。

 対局者とサシになって、私は緊張する。

 太宰くんは、ああでもないこうでもないと独り言をつぶやく。

「受け身がよくなかったかな……ん、氷室、どうしたの? 顔色が悪くない?」

場所:2016年度 関東将棋連合新人戦 決勝

先手:氷室 京介

後手:太宰 治虫

戦型:相雁木


▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △4四歩 ▲2五歩 △3三角

▲4八銀 △3二銀 ▲5六歩 △4三銀 ▲5八金右 △3二金

▲7八銀 △6二銀 ▲6六歩 △6四歩 ▲6七銀 △6三銀

▲7八金 △8四歩 ▲6九玉 △8五歩 ▲7七角 △7四歩

▲5七銀 △4一玉 ▲7九玉 △5二金 ▲3六歩 △5一角

▲4六歩 △3一玉 ▲8八玉 △9四歩 ▲9六歩 △7三桂

▲3八飛 △6五歩 ▲3五歩 △同 歩 ▲同 飛 △3四歩

▲3六飛 △5四歩 ▲3七桂 △3三桂 ▲6八角 △6四銀

▲6五歩 △同 桂 ▲6六銀右 △8四角 ▲2四歩 △同 歩

▲4五歩 △5三金 ▲2三歩 △4五歩 ▲6五銀 △同 銀

▲7七桂 △6六銀 ▲6五桂 △5二金 ▲6六銀 △同 角

▲7七角 △同角成 ▲同 金 △6二飛 ▲9七角 △7五歩

▲同 角 △6四銀 ▲7四桂 △6一飛 ▲6二歩 △7五銀

▲6一歩成 △8六歩 ▲6二と △8七歩成 ▲同 金 △8六歩

▲7七金 △6九角 ▲8一飛 △7一歩 ▲同飛成 △4一銀

▲5二と △同銀引 ▲4二歩 △8七歩成 ▲7九玉 △5八角成

▲4一歩成


まで97手で氷室の勝ち

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