135手目 注意された私語
「よろしくお願いします」
ふたりは頭を下げた。後手の太宰くんがチェスクロを押す。
氷室くんは7六歩。平凡な初手で開幕した。
「ずいぶんと手つきが焦ってるね」
「……」
「いや、答えなくていいよ。3四歩」
2六歩、4四歩――ん? 太宰くん、振るつもり?
2五歩、3三角、4八銀、3二銀。
これは……ムリヤリ矢倉? それとも飛車より先に銀を上がっただけ?
氷室くんの応手は速かった。5六歩。
「ハハハ、もうちょっとゆっくり指してくれても、いいんじゃないかな」
「僕の早指しの理由は分かるだろう」
「宗像戦をまえに消耗したくない、だよね。でもさ、そういう時間的逼迫感は、タイプAと言ってね、強迫神経症をともなうこともある性格のひとつなんだ。アメリカのプライスという心理学者が1982年に発見したもので……」
「きみは心理学の講釈をするために、ここにいるわけじゃないだろう」
「ハハハ、多少はいいじゃないか。1年生は学部で習ったことを使いがち、ってね」
太宰くんは笑いながら4三銀と指した。
氷室くんはノータイムで5八金右。
「さて……」
太宰くんは背筋を伸ばす。3二金と指した。振り飛車じゃない。
「そういえば、今日は風切先輩が来てないね」
氷室くんが初めて反応した。ちらりと視線をあげる。
「今日は都ノで残ってる選手がいないんだ。当然だろう」
「先週もいなかったよね。怪我をしたって聞いたけど」
なんでそっちのほうへ話を持っていくの?
副立会人である私ですら警戒してしまう。
氷室くんも相手にせず、7八銀と上がった。
「僕からすこしばかり推理をさせてもらうね」
太宰くんは急にひとりごとを始めた。
6二銀。
「大学将棋界隈のうわさだと、風切先輩はこけて怪我をしたらしい」
6六歩。
「でもこれは嘘だ」
6四歩。
「なぜなら当日、新宿駅で怪我人が出たという情報はなかったから」
6七銀。
「逆に『新宿公園にパトカーと救急車が来ていた』というネット情報はあった」
6三銀。
「そして、どうもそれが将棋大会の会場に近くだったらしい」
7八金。
「しかも『人が殴られた』という話だ」
8四歩。
「風切先輩の怪我は、なんらかの事故に巻き込まれたんじゃないだろうか」
「速水立会人、すこし注意してもらえませんか」
氷室くんは6九玉と寄りながら、立会人に介入を求めた。
速水先輩はいたって平静に、
「太宰くん、対局者の迷惑になる行為は慎んでください」
と注意した。太宰くんはとぼけたように、
「多少のひとりごとは許されていると思いますが?」
と答えた。
「あなたのは度を過ぎてるわ」
「もっと露骨にいろいろ話してるひともいると思いますけど……分かりました。局面もすこし難しくなってきましたからね」
太宰くんは悪びれたようすもなく、駒組みを続けた。
8五歩、7七角、7四歩、5七銀、4一玉、7九玉、5二金。
うわぁ、相雁木になった。なんだか最新型っぽい。
氷室くんの3六歩に対して、太宰くんは5一角と引いた。
4六歩、3一玉、8八玉、9四歩、9六歩、7三桂。
7三角の展開かな、と思ったけど、ちがうのね。
まあ、先手が4六歩と突いたから、7三角はあんまり圧がなさそう。あれは飛車のこびんが開いているとき、6五歩と飛車当たりにするのがメリット。この先手の陣形なら、7七の角と5七の銀の両取りを狙える7三桂のほうが自然だ。
「3八飛」
「先攻できそうだ。6五歩」
太宰くんから開戦した。
「取らなければなんともない。3五歩」
即反撃。これは……取るしかないっぽい? 後手の6六歩は速そうに見えて、収められるとそうでもない。このまま6五で接触させたままのほうがいい。先手の動きを封じることができる。
「氷室くんに付き合うよ。同歩」
同飛、3四歩、3六飛。
氷室くんは高めの位置で停車した。
「3七桂跳ねの準備か……」
太宰くんもマジメに読んでいる。さっきの推理ごっこはなかったかのようだ。
ギィ
ドアを開ける音。私は驚いてふりむいた。
すると、春日さんがカメラを持って静かに入室した。
そっか。春日さんは連合の広報だ。
パシャパシャ
2枚ほど写真を撮って、春日さんは退室した。
なんか私も写された気がする。立会人の構図を撮りたかったのかしら。
恥ずかしいなぁ、と思っていると、太宰くんは次の手を指した。
「5四歩」
「3七桂」
「まいったな。ほんとに手が速い」
私もそう思う。宗像戦にむけた体力温存だとしても、ポカをしたら意味がない。
それとも、優勝自体はどうでもいいってこと?
「氷室は、そんなに宗像と指したいわけ?」
太宰くんは3三桂と跳ねて、またしゃべり始めた。
氷室くんも今度は相手にした。
「指したいわけじゃないさ。でも、もう終わりにしたい」
「なにを?」
「きみには関係ない」
「今、調べてることがあるんだよね。30年前の出来事なんだけど」
室内の空気が氷のように張り詰めた――気がした。
30年前……それって、慶長の児玉先輩が言ってた、聖生の出現時期じゃない?
私は記憶をたどる――まちがいない。30年前だと言っていた。
でも、今の空気の変化は、私だけの気づきじゃないと感じた。氷室くん、速水先輩、あるいはその両方が反応したと、私は直感した。
氷室くんは黙って6八角と引いた。
これは……なんとなく分かった。
次に6五歩と取って、同桂、6六銀右から角筋を通すつもりだ。
4五歩と猛攻をかけることができる。
「6五歩を許容すると、することがなくなるか……6四銀」
太宰くんは銀を立った。歩じゃなくて銀で桂馬を支える作戦だ。
「6五歩」
同桂、6六銀右、8四角、2四歩。
再度開戦。
速水先輩にいろいろ訊きたいけど、このシチュじゃ話しかけられないのよね。
対局者に丸聞こえになっちゃう。
室内は雑音ひとつしなくて、廊下の音もまったく聞こえなかった。
防音になってるのかしら。
「取るイチだね。同歩」
氷室くんは4五歩と突く。これを取れるかどうか。
太宰くんは長考した。
はたから見ても、4五歩は取りにくい。
4四歩、同銀、3四飛、5三金、2四飛があるからだ。
【参考図】
2三歩、2六飛、3四歩と収めないといけない。後手だけ一方的に歩を打たされる。
けっきょく、太宰くんは2分ほど考えて、5三金と先に立った。
これはさっきの順を先回りした手ね。
次こそ4五歩のはず。先手も忙しくなってきた。
ここで氷室くんが小考。
「いやぁ、早く終わらせるって言ってるのに、こういうときだけ冷静で困っちゃうな」
「……」
氷室くんは2分使って2三歩と垂らした。
狙いとしては甘い気がする。同金でかたちが崩れるのは分かるけど、後手は取らないだろうし……それとも、取る手すらある? 先手がぐずぐずするなら、2三同金〜2二金〜3二金と立て直すのが手待ちを兼ねてくれる。
もちろん、氷室くん相手にそう指すのはそうとう怖い。
太宰くんも長考で返した。
「……取りにくいね。4五歩」
「6五銀」
ほぉ、取りますか……3九角成とできないタイミングではある。4五桂と跳ねた手が馬取りになって、先手優勢。でも、単に6五同銀で困るのでは。6筋が受からない。
「んー、その手は多少読んでたけど、まさかほんとに指すとは……」
太宰くんは腕組みをして考え込んだ。
私も頭のなかで読む。6五同銀と仮定して……次にどうするの? 6五歩は攻めを呼び込んでいるだけだ。桂馬を打つ場所もない。うーん。
……………………
……………………
…………………
………………7七桂とか?
【参考図】
ある気がする。というのも、6五桂が金当たりになっているからだ。
5三金と上がった手の逆用だし、このタイミングで6五同銀と取った理由にもなる。
しーかーしー、かなり危ないわよ、これ。6五同銀、7七桂、6六銀、6五桂、6七銀成以下の攻め合いで勝てる保証がないし、6五桂に一回5二金と逃げる手もある。先手は6筋を収める手段がないから、攻め続けないといけない。
さらに1分ほど経って、太宰くんは6五銀と取った。
「7七桂」
「前進あるのみ、6六銀」
氷室くんの6五桂に、太宰くんは30秒ほど読みなおして5二金と引いた。
逃げましたか。こうなると、氷室くんの継続手が気に――
「6六銀」
うッ……強い。王手を呼び込んだ。
太宰くんはさらに30秒追加する。
「同角」
だんだん残り時間に差がついてきた。
氷室くんが15分、太宰くんが10分。
以下、7七角、同角成、同金、6二飛と進んだ。
こんどは氷室くんが30秒追加して、角を盤上にはなった。
パシリ
遠見の角? ……王手か。でも、4二銀打と固く守って後手いいのでは?
……あ、全然ダメだ。5三銀、同銀、同桂成、同金、同角成が王手飛車になる。
「しまった……」
太宰くんはうっかり本音を漏らした。読んでいなかったらしい。
それでも時間差がつかないように、7五歩と早めに突いた。
「同角」
「6四銀」
なるほど、手筋だ。大駒は引きつけて受けよ。
でも、これじゃ6二飛と寄った意味がない。
「7四桂」
氷室くんは飛車をいじめにかかった。この手は厳しい。横に逃げると6四の銀を取られてしまうから、縦に逃げるしかない。6三飛が幸便にみえるけど、7三桂成で痺れる。
【参考図】
同銀は王手放置だし、同飛は6四角が王手飛車取りだ。
「ぐッ……これは……」
太宰くんは険しい表情で6一飛と引いた。
6二歩、7五銀、6一歩成、8六歩。
後手は玉頭に殺到する順を選んだ。
6二と、8七歩成、同金、8六歩、7七金。
「6九角」
「8一飛」
ふたたび王手がかかる。先手も若干危ない……けど、詰めろにはなっていない。
太宰くんは7一歩と打って、同飛成とさせてから4一銀と受けた。
「5二と」
「……同銀引」
「これで終わりだね。4二歩」
ん? 大丈夫?
これは詰めろじゃないような気がする。
太宰くんも敏感に反応した。
「8七歩成」
あれ? 太宰くんのも詰めろじゃないような……あッ、取ったら王手龍かッ!
【参考図】
氷室くんはノータイムで7九玉と下がった。
太宰くんは5八角成と金を取る。
先手玉に詰めろがかかった。
「それは遅いよ。後手は詰んでる。4一歩成」
……………………
……………………
…………………
………………
「早指しペースに巻き込まれてた……負けました」
太宰くんはがくりと肩を落とした。
私も遅まきながら気づく。同銀、4二銀、同玉、5三銀、3一玉、4二金、同金、同銀成、同玉、4三歩以下で詰んでる。
【参考図】
同玉は4一龍だし、3二玉と寄るのも2二金で戻せる。
速水先輩もうなずいて、口をひらいた。
「これで2016年度新人戦決勝戦を終わります。優勝は氷室京介くん」
立会人の仕事を終えた速水先輩は、すぐに立ち上がった。
窓を開ける。たしかにこの部屋は暑い。
涼やかな風が流れ込み、私たちはひと息ついた。
「さて、感想戦はするの?」
速水先輩は、盤を見つめるふたりに話しかけた。
太宰くんは、
「僕はやりたいです。それに、3位決定戦は終わってないんじゃないですか?」
と答えた。速水先輩は腕時計を確認する。
「そうね……ちょっと見てくるわ。それまで感想戦をお願い」
速水先輩は和室を出て行った。
対局者とサシになって、私は緊張する。
太宰くんは、ああでもないこうでもないと独り言をつぶやく。
「受け身がよくなかったかな……ん、氷室、どうしたの? 顔色が悪くない?」
場所:2016年度 関東将棋連合新人戦 決勝
先手:氷室 京介
後手:太宰 治虫
戦型:相雁木
▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △4四歩 ▲2五歩 △3三角
▲4八銀 △3二銀 ▲5六歩 △4三銀 ▲5八金右 △3二金
▲7八銀 △6二銀 ▲6六歩 △6四歩 ▲6七銀 △6三銀
▲7八金 △8四歩 ▲6九玉 △8五歩 ▲7七角 △7四歩
▲5七銀 △4一玉 ▲7九玉 △5二金 ▲3六歩 △5一角
▲4六歩 △3一玉 ▲8八玉 △9四歩 ▲9六歩 △7三桂
▲3八飛 △6五歩 ▲3五歩 △同 歩 ▲同 飛 △3四歩
▲3六飛 △5四歩 ▲3七桂 △3三桂 ▲6八角 △6四銀
▲6五歩 △同 桂 ▲6六銀右 △8四角 ▲2四歩 △同 歩
▲4五歩 △5三金 ▲2三歩 △4五歩 ▲6五銀 △同 銀
▲7七桂 △6六銀 ▲6五桂 △5二金 ▲6六銀 △同 角
▲7七角 △同角成 ▲同 金 △6二飛 ▲9七角 △7五歩
▲同 角 △6四銀 ▲7四桂 △6一飛 ▲6二歩 △7五銀
▲6一歩成 △8六歩 ▲6二と △8七歩成 ▲同 金 △8六歩
▲7七金 △6九角 ▲8一飛 △7一歩 ▲同飛成 △4一銀
▲5二と △同銀引 ▲4二歩 △8七歩成 ▲7九玉 △5八角成
▲4一歩成
まで97手で氷室の勝ち