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凛として駒娘──裏見香子の大学将棋物語  作者: 稲葉孝太郎
第23章 2016年度新人戦2日目(2016年6月19日日曜)
133/487

133手目 迫り来る者

「時間がない? ……トイレに行きたいなら行けば? 序盤だし」

「……」

 氷室ひむろくんはなにも答えなかった。

 この態度に、火村ほむらさんはギリッと歯ぎしりして、

「そんなに早く負けたいなら負かしてやるわよッ!」

 と敵陣に駒を打ちつけた。

 

 パシーン


挿絵(By みてみん)


「これで困ってるでしょッ!」

 うッ、強い――と言いたいところだけど、最前列の何人かは読んでいたはず。

 現に入江いりえ会長は顔色ひとつ変えなかった。

 そして、氷室くんもまた読んでいる気配だった。

「ふぅ……あとは一直線だね。7二飛」

 2六角成、7五歩、6六歩。

 ちょ、ちょっと待って、もしかして殴り合い?

 先手のほうが遅れてない?

 7六歩、6五歩、7七歩成、6四歩、7八と。

「この手が速いわよッ! 6一銀ッ!」


挿絵(By みてみん)


 は、速い。

 先手の攻め合いが遅すぎると思ったけど、そうでもなかった。

 飛車を縦に逃げたら5二銀不成、同金、同飛成で王手だし、横に逃げたら5二銀不成、同金に7八金と手をもどすことができる。

「飛車はあげるよ。6九と」

 7二銀不成、5九と、同金、7五角。


挿絵(By みてみん)


 あッ……いきなり詰めろになった。

 これを見た入江会長は小声で、

「やはり氷室くんのほうが一枚上手か……」

 とつぶやいた。

 ただこれ、後手もそんなに手がないと思う。

 その証拠に、火村さんは困ったようすでもなく、すぐに4九金と寄った。

「4八金」

「それは詰めろじゃないッ! 7一飛ッ!」

 攻守逆転。氷室くんは4二金寄と逃げた。

 ここで火村さんが長考。

 入江会長は「ふむ」と息をついて、

「6三歩成としたいが、角筋が通ってしまうね。6三銀成のほうが本命か」

 と読みを入れた。私もすこし考えて、

「8一銀成もありませんか? 6三銀成〜5三成銀は、見た目ほど痛くないです」

 と指摘した。

「なるほど……たしかにそうか。後手は4九金とすればまた詰めろで、同銀、3九銀、1七玉とかたちを決めることができる」


【参考図】

挿絵(By みてみん)


「あとは銀1枚の入手で2八銀打、1八玉、1九銀成以下の詰めろだ。馬がかえって邪魔か……となると、銀を取られやすくする6三銀成はないな」

「さっきおっしゃった6三歩成のほうがありえませんか? 次に5三ととか」

「それは似たような展開になる。6三歩成、4九金、同銀、3九銀、1七玉のあとに後手が1手溜めて、5三と、同角、同馬、同金、同飛成の瞬間に2八角で詰む」

「あ、そっか……じゃあ、飛車から突っ込んだらどうですか? 5三と、同角、同飛成、同金、同馬……」

「馬が消えると2五桂があるよ」

 むむむ、そうか。となると、やっぱり私が最初に提案した手が本命――

 

 パシリ

 

挿絵(By みてみん)


 きた。桂馬の回収だ。

 氷室くんはすこしばかり姿勢を正した。

「即死はしないんだね……4九金」

 同銀、3九銀、1七玉。

 こんどは氷室くんの手が止まった。

 あごに手をあてて、じっと考え込む。

「ほらほら、さっさと終わらせるんじゃなかったの?」

 火村さんの挑発。氷室くんは黙って1分ほど使った。

「……5七角成」


挿絵(By みてみん)


 ん? 単に角成り? 手がぼんやりとし過ぎでは?

 火村さんも一瞬よく分からないといった表情。

 でも、すぐに顔色が変わった。

「……ッ!」

 そんなに厳しいの? 角から馬になっただけで……あッ! そうかッ!

 入江会長もメガネをなおしながら、

「これは厳しい。次に3五馬がある」

 と言った。そうだ。3五馬、同馬、同歩と清算したかたちが厳しい。

 ただ、先手劣勢というわけでもないような。

 火村さんも気をとりなおして、持ち駒に手を伸ばした。

「べつに詰めろでもなんでもないじゃない。まだこっちの手番よ」


 パシリ


挿絵(By みてみん)


 これはいい手だ。桂馬は渡しても痛くない。

 氷室くんはノータイムで3一金と寄った。

 ここで6三歩成が効くのでは? ギャラリーの私たちも読みを入れる。

 6三歩成、3五馬、同馬、同歩……あれ? と金が痛くない。

 先手は2八角、2六玉と追い出されて、2四金と縛られたら終わりだ。2五金は同金、同玉、2四金、同飛、同銀、3四玉、4四飛で詰みだし、最初の2四金を同飛は同銀と取られたのがまた詰めろで、今度こそどうしようもない。

 火村さんはチラリとチェスクロを確認した。まだ10分しか使っていない。

 とはいえ、氷室くんのほうも8分しか使っていない。かなりの早指し。

 なんでそんなに早く終わらせたがっているのか分からないし、火村さんもそれに付き合うような指し方をするのは良くない。でも、外野だから助言するわけにもいかない。

 歯がゆい気持ちで対局を見守る。

「……一回受けるわ。3八金」


挿絵(By みてみん)


 これは……後手のほうが速いと読んだのかしら。

 氷室くんは冷たいまなざしで、この手を見つめた。

「なるほどね……攻めを遅らせる手か。4八金」

 6三歩成、3八金、同銀。

 氷室くんは5七の馬に指をそえる。

「3五馬」

 急所の馬引き。これは取るしかない。

 同馬、同歩――火村さんは軽く舌打ちした。

「あいかわらず2手スキね」

「それを僕に聞こえるように言っちゃっていいの?」

「うっさいわね。どうせ分かってるんでしょ。もう一回受けるわ。2八角」


挿絵(By みてみん)


 ほほぉ、徹底抗戦ですか。

 後手の攻めは1枚の攻めだから、切れる可能性はけっこうある。

 それに、この角は取れない。2八銀不成、同玉は切れ筋だ。

「僕ももう一回打つよ。5七角」

 4九金、4八金、3九角、同金、2八銀。

 ん? 微妙に千日手含みになった?

 入江会長も、

「あまり手を変えられないように見える」

 とささやいた。同意。

 氷室くんも小考――かと思いきや、即指しだった。

「2九金」


挿絵(By みてみん)


 え? かたちを崩した? 切れたのでは?

 ギャラリーがざわつく。入江会長はシーッと注意をうながした。

 火村さんは2九の金を回収する。

「陣形の固さを頼みに立てなおすつもり?」

「いや、これで寄りだよ。4五角」


挿絵(By みてみん)


 ……………………

 ……………………

 …………………

 ………………あッ。

 火村さんは、覆いかぶさるように背を曲げた。

 体重でソファーがきしむ。

「2手スキ飛車取り。さあ、火村さん、どうする?」

「ちょっと黙んなさい」

 火村さんは真剣に読み始めた。でも、これはもう先手が悪い。

 入江会長は小さなタメ息をついて、

「これは盲点だった。まさか生角なまかく2枚で寄るとは」

 と、決着がついてるかのような雰囲気。

「後手玉も棺桶かんおけですし、5二と〜4一桂成からなんとかなりませんか?」

「そのまえに受けないといけない。持ち駒が減る」

 ぐぅ、たしかに。

 私は心の中で火村さんを応援した。がんばれ。

「……2六金」

 氷室くんは黙って5四角とした。

 5二と、同金、4一桂成、3二金、9一成銀。

 ここで香車を回収しているようだと苦しい。

「3四桂」

「串刺しッ! 5九香ッ!」


挿絵(By みてみん)


 火村さんは駒音高く香車を打った。

 だけど、これは……角を逃げる手すらあるような……。

「2六桂」

 氷室くんは一番踏み込んだ順を選択した。

 5七香、2五桂、2六玉、3六歩、同歩、3四銀。


挿絵(By みてみん)


 真綿で首を絞めるような展開。

 先手玉は狭く、後手玉は広くなった。

「氷室くん、とうとう本気を出したね」

 入江会長の一言を、私は聞き逃さなかった。

「本気? どういうことですか?」

「僕は七将しちしょうほどの実力じゃないけど、氷室くんがここまで流してたのは気づいてたよ」

「ここまで? どの対局です?」

「4月からの対局全部だよ……正確には1局を除いてかな」

 私はショックを受けた――公式戦を手抜いてたってこと?

「個人戦決勝の朽木くちき戦以来かな、今日は……いや、もう1局あった。もっとも、あれは幻に終わってしまったが……」

「もしかして、春の個人戦の風切かざぎりvs氷室ですか? あの不戦勝になった?」

 入江会長は静かにうなずいた。

 そうか……変な気はしていた。あのときの氷室くんの第一印象と、そのあとで会ったときの印象がちぐはぐだったからだ。

 私は氷室くんを見やる。無関心なようで、冷たい闘気を秘めていた。対局場に来なかった風切先輩を待っていたときの、あの顔だ。

 一方、火村さんはそうとう苦しそうだった。

「ちょっと失礼」

 火村さんは突然立ち上がると、ギャラリーを押しのけて、あたりをうろうろし始めた。

 東西対抗戦のときと一緒。ただ、このフロアは廊下に窓がない。

 火村さんはあんまりリラックスできないようで、すぐに着席した。

 頭を掻いて、大きくタメ息をつく。

「3七銀」

 氷室くんはこの手も読んでいたらしく、ノータイム指しだった。

「4五飛」


挿絵(By みてみん)


 次に3五金、同歩、同銀、2五玉、2四歩、1五玉、1四歩までの詰めろ。

「1五歩……いえ、4七飛成以下でダメね。負けました」

「ありがとうございました」

 しばらくのあいだ、フロアは静まり返った――火村さんの完敗。

 火村さんはかえってせいせいしたようで、フッと笑みを漏らした。

「あんた、やっぱ強いわね。どこが悪かっ……」

 氷室くんは左手で火村さんを制した。

「来た」

「……なにが?」

 私たちは周囲を見回した。だれかがエレベーターを指差す。

「なんか上がって来てるぞ」

 私たちの視線は、フロアを上がり続けるエレベーターに釘付けになった。

場所:2016年度 関東将棋連合新人戦 準決勝

先手:火村 カミーユ

後手:氷室 京介

戦型:先手ゴキゲン中飛車


▲7六歩 △3四歩 ▲1六歩 △8四歩 ▲5六歩 △8五歩

▲5八飛 △6二銀 ▲5五歩 △4二玉 ▲7七角 △7四歩

▲4八玉 △7三銀 ▲3八玉 △6四銀 ▲7八銀 △5二金右

▲2八玉 △3二玉 ▲3八銀 △4二銀 ▲5四歩 △同 歩

▲2二角成 △同 玉 ▲5四飛 △5五歩 ▲7七桂 △3三銀

▲7一角 △7二飛 ▲2六角成 △7五歩 ▲6六歩 △7六歩

▲6五歩 △7七歩成 ▲6四歩 △7八と ▲6一銀 △6九と

▲7二銀不成△5九と ▲同 金 △7五角 ▲4九金 △4八金

▲7一飛 △4二金寄 ▲8一銀成 △4九金 ▲同 銀 △3九銀

▲1七玉 △5七角成 ▲5三桂 △3一金 ▲3八金 △4八金

▲6三歩成 △3八金 ▲同 銀 △3五馬 ▲同 馬 △同 歩

▲2八角 △5七角 ▲4九金 △4八金 ▲3九角 △同 金

▲2八銀 △2九金 ▲同 銀 △4五角 ▲2六金 △5四角

▲5二と △同 金 ▲4一桂成 △3二金 ▲9一成銀 △3四桂

▲5九香 △2六桂 ▲5七香 △2五桂 ▲2六玉 △3六歩

▲同 歩 △3四銀 ▲3七銀 △4五飛


まで94手で氷室の勝ち

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