123手目 逃せないチャンス
私はお茶で一服して、念入りに読みを入れた――なるほど、分かった。
7六銀に一回7七歩と収めるつもりね。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
以下、8七銀成、6八飛みたいな?
これは先手がいいとも後手がいいとも言えない気がする。交通渋滞になってるのは、どちらかと言えば私のほうかなぁ。後手は6四銀のスムーズな進行があるけど、私のほうは8筋に成銀がいるから一回どかさないといけない。
私は黙考した。
日高くんのほうもコーヒーの缶を開ける。
……………………
……………………
…………………
………………
一回受けますか。
「5四角」
6三歩成を防止する。先手は手がそんなにないと思うんだけど。
私がチェスクロを押すと、日高くんはしばらく考え込んだ。
「……5六歩」
これは……角にプレッシャーをかけつつの手渡しかな。
先手も後手を潰す順があるわけではないようだ。
となると猶予がある。私は全体の構想を練り直した。
「6一飛」
こうしましょ。まずは飛車の筋を変える。
「6八飛」
日高くんの応手は早かった。
それに、ちょっとだけ安心したような雰囲気が伝わってきた。
7六銀以下の攻めがほとんどなくなったからだろう。
でも、次の手はどうかしら。
「1二香ッ!」
穴熊ぁ。組み替える。
日高くんにとっては意外だったらしく、ほんのりと眉間にシワを寄せた。
「ここでですか……無謀だと思いますけど……」
むむむ、言葉の圧をかけてきた。
「無謀かどうかは、やってみないと分からなくない?」
「ま、それはそうですね」
日高くんはすぐには指さなかった。かなり気合が入っている。
ふと気づけば、周囲のギャラリーはさらに増えていた。
えーい、雑念、雑念。盤面に集中する。
パシリ
日高くんは6六銀と引いた。交換の要請だ。
同銀、同飛、8一飛、7五銀、6一飛、4六歩。
うーん……損得がよく分からない状況になった。
先手はすべての傷を消したけど、4九の角はぼやけている。
「……1一玉」
行きがけの駄賃で入っておく。
「7七桂」
日高くんはサッと桂馬を跳ねた。全体的に攻勢のようだ。
ここで2二銀……は、やりにくいかなぁ。上部が薄くなる。
というか、読みを進めるごとに、私のほうはだんだんと困り始めていた。この局面から2二銀は8五桂、同桂、同歩、2三金、5五歩、4三角、7四銀があるからだ。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
これがまったく止まってないように見えるし、実際に止まってない。
ちょっとマズった……かな? 歩がないのよね、歩が。
どこからか駒を入手するしかない。となると――
「8八銀」
こうかしら。
「ん、それは……」
日高くんは一瞬前のめりになった。
「……なるほど、香車を拾って6二香と打つわけですか」
そういうこと。狙いはシンプルだけど、防ぐ手はない。6九飛なら7七銀成だ。
「飛車の位置が悪いか……とりあえず8五桂です」
同桂、同歩、9九銀……不成を選択。
「5五歩」
私は4三角と撤退する。日高くんは7四銀と進出した。
「6二香」
「5六桂」
むッ……そう来たか。
まあ、これくらいしか止める手はないわよね。
日高くん自身が言っていたように、後手は飛車の位置が悪い。
じゃあ、攻勢に転じさせてもらいましょ。
「8八銀不成」
どんどん引いて飛車のお尻を狙う。
「成らずの理由はそれですか……僕も7三銀不成です」
日高くんは6四の歩を2重に支えた。
7七銀不成、6九飛、7八銀成、6六飛。
「7四桂ッ!」
よっし、飛車を押さえ込んだ。
日高くんの6七飛に、私は勢いよく7六角と飛び出した。
「飛車角交換は確定か……4八金引」
手がないと見ました。
私は6七角成、同角、7七飛、4九角、6七歩と進めた。
あとは、と金攻めで勝てるんじゃないの、これ?
パシリ
……銀成? 悠長な手に見えるけど……飛車を逃げるヒマがないって読み?
私はザッと読みを入れた。3一飛、6二成銀、6八歩成、6三歩成、5九と、6四桂、4九と、同金とか?
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
かなり適当に読んだから、必ずこれとは言えないけど……ただ、ひとつ気づいたのは、角を取っても私の攻め駒が不足しているということだ。現に、この想定局面で持ち駒が角と歩しかない。後手に5二桂成と入られたら困る。
私はちらりと視線を上げた。日高くんと目が合う。
A級校の1年生はさすがに弱くありませんよ――そう言われた気がした。
「……」
「……」
おたがいに沈黙のなかで読み続ける。正念場だ。
日高くんの銀成りは、飛車を逃げられないことを前提にしている。
これは間違いないし、読み進めても後手が芳しくない。
となると……飛車を見捨てて、寄せの速度で勝つしかないか。
例えば、現局面から6八歩成、6一成銀、5九と。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
この局面を選択するメリットは、先手が取れていることだ。6二成銀なら4九と、同金に7六角と打ち込めばいい。よくある美濃崩しのかたちになるし、7六の角はいざとなれば自陣にも効いてくる。
とはいえ、日高くんがこれを読んでいない可能性は、ほぼない。
なにか対抗策があるはずだ。その候補として一番考えられるのは、6五角。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
この手の意味は単純で、4九と、同金に7六角と打てない、ということだ。さらに、6二成銀〜5二成銀として、同金なら3二角成がある。
つまり、この6五角にカウンターがあれば、後手にも光明が見える、と。
……………………
……………………
…………………
………………これかな。
「6八歩成」
私は踏み込んだ。ギャラリーが若干ざわつく。
でも、A級のメンバーは落ち着いたようすだった。さすがに読み筋らしい。
「6一成銀」
私の5九とに、6五角が置かれる。
4九と、同金。
ここで用意しておいた手を指す。
「5七角」
6五の角を殺す手だ。7五角成とすれば角は死んで――
パシリ
ぐぅ、イヤな手がきた。
7五角成に7七飛、同成銀、3二角成とするつもりだ。多分。
3二同金に5二飛と打たれたら後手に回る。
私は残り時間を確認した。ふたりとも10分を切っている。
「……」
変えようがない。私は7五角成とした。
7七飛、同成銀、3二角成、同金。
「5二飛」
「7六角」
私は残り2分で、この手を指した。攻防に利かせる。
自陣と敵陣の見比べっこ。2三になにか打ち込む攻めに注意。
日高くんのほうも時間はなくて、5分を切った。
最後の長考に入る。
「……3九金寄」
よしッ! 受けたッ!
「5九飛ッ!」
私は駒音高く飛車を打ち込んだ。このチャンスは逃さない。
6二飛成、5六飛成、6三歩成、5九龍。
「ろ、6七歩」
「4七桂ッ!」
華麗に打つ。おたがいに1分将棋に突入した。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「4八金上ッ!」
同馬、同金、3九龍、1七玉、2九龍。
パシリ
うッ……早まった?
かえって固めてしまったような気がする。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「い、1九龍」
日高くんは1八金と打った。
……寄らない。私は3九龍と撤退する。
「ちょっと勇み足でしたね。4九金」
……捕まった。うわぁあん、もう1手くらい溜めておけばよかった。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
私は仕方なく3七金と打った。
日高くんは3九金としかけて、手を止める。
「……取ると危ないか」
そこは微妙。一応、3九金、同桂成、7四角なら1五歩、同歩、2三桂を考えている。
3二の金に角の紐がついているかぎりは大丈夫なはず。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
パシリ
ぬおおぉ……角筋をむりやり止めてきた。
このままだと即死する。4二香と貼り付けた。
5一龍、6七角成、3九金、同桂成、4一飛。
先に詰めろがかかってしまった。きつい。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
私は2二金と打った。
日高くんは膝に手をついて熟考する。
寄るな、寄るな。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「ぐッ、続かないか。7四角」
うらっしゃぁああッ! 反撃ぃ!
「4九馬ッ!」
迫る。2八桂、1五歩(待望)、同歩、2三桂。
この手を打った瞬間、私は勝利を確信した。先手は受けがない。
日高くんは59秒まで苦吟する。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「1筋に打つ駒がない……負けました」
「ありがとうございました」
ギャラリーが湧いた。
「DがAに入れたか」
「秋からはCクラスだろ」
「聖ソフィアも帝大の尾平に勝ったらしいぞ」
「大番狂わせが続くなぁ」
おほほほほ、ごめんあそばせ。
日高くんはしばらく納得がいかないような顔をしていたけど、ふいに、
「5四香と打たずに5四歩でしたか?」
と尋ねた。そこまで局面をもどす。
【検討図】
「同角に5三と?」
「はい」
「それなら5三と〜5四とで1手稼げるから……1三香打は?」
私は香車を重ねて打った。以下、5四となら1五歩、同歩、同香、1六歩、同香、同銀、同香と突っ込んで、なんとかならないかしら。1六同香に同角なら2八銀で詰む。
「バラバラにして、最後1六同玉は?」
日高くんは、1六同玉のバージョンを尋ねた。
「1五歩、同玉、1四歩、1六玉……詰まないのか。でも、4九龍でいいわよね?」
「たしかに、後手は絶対に詰みませんからね……1三香打に3九金だと?」
「それは……同桂成かな?」
日高くんは5四とと取った。
1五歩、3二龍、1六歩、同銀、同香、同角、同香、同玉。
【検討図】
「龍を取ってもいいけど、1五歩、同玉、1四歩、同玉、1三金、1五玉、2三桂は、どう? 受けがなくない?」
「同龍なら詰まないですが、攻めの拠点がなくなって先手負けですね。1五歩に対して3二龍とせずに、同歩と取るのはどうですか?」
「それは1五同香とせずに1六歩と打って、同銀、3八成桂かしら」
「こっちは3二龍と入っても詰めろになっていない、と……負けですね」
私の解説に、日高くんも納得したようだった。というか、たぶんこのへんはだいたい読んであって、確認だけしたかったらしい。ずいぶんとあっさりしていた。
「となると、中盤の分かれが悪かったですね。角を切ったところかな……」
「えー、そろそろ感想戦を切り上げて休憩に入ってください」
幹事からの催促。日高くんはタメ息をついた。
「若も氷室には勝てないでしょうし、慶長はこれで全滅ですね。頑張ってください」
「あ、はい、頑張ります」
おたがいに一礼して対局終了。私は席を立った。
松平がさっそく声をかけてくれた。
「お疲れさん。控え室にお菓子を用意してあるぞ」
やったぁ。糖分補給。
私たちは廊下へ出た。
「反対の山は、だれが上がったの?」
「僕だよ」
おっと、この声は――ふりかえると、メガネをかけたジャケット姿の少年が。
「奥山くんだったのね。おめで……」
「と言いたいところなんだけど、負けちゃった。次は太宰だよ」
あらら、お祝いしてしまうところだった。
「奥山を負かすなんて、やるな」
と松平。奥山くんはやれやれと言ったようすで、
「太宰は晩稲田の次期主将候補だからね」
と返した。だぁ、あんまり知りたくない情報だったかも。
「ま、裏見さんならちょちょいと……」
「どいて! そこどいてぇ!」
ん? 廊下の奥から悲鳴が?
ふりかえった瞬間、私たち3人は何かにぶつかって弾け飛んだ。
場所:2016年度 関東将棋連合新人戦 3回戦
先手:日高 虔
後手:裏見 香子
戦型:角交換型三間飛車
▲7八飛 △8四歩 ▲7六歩 △8五歩 ▲7七角 △6二銀
▲4八玉 △4二玉 ▲3八玉 △1四歩 ▲1六歩 △3二銀
▲2八玉 △3一玉 ▲6八銀 △3四歩 ▲3八銀 △5二金右
▲5八金左 △2四歩 ▲8八飛 △6四歩 ▲2二角成 △同 玉
▲7七銀 △6三銀 ▲8六歩 △同 歩 ▲同 飛 △8五歩
▲8八飛 △7四歩 ▲6六歩 △4四歩 ▲5六角 △4三角
▲4六歩 △8四飛 ▲4五歩 △同 歩 ▲同 角 △4四歩
▲6七角 △7三桂 ▲8七歩 △9四歩 ▲4七金 △3三銀
▲3六歩 △4二金寄 ▲2六歩 △3二金上 ▲2七銀 △5四銀
▲3八金 △6五歩 ▲同 歩 △7五歩 ▲6六銀 △8六歩
▲同 歩 △6五銀 ▲7五銀 △6六歩 ▲4九角 △8一飛
▲6四歩 △5四角 ▲5六歩 △6一飛 ▲6八飛 △1二香
▲6六銀 △同 銀 ▲同 飛 △8一飛 ▲7五銀 △6一飛
▲4六歩 △1一玉 ▲7七桂 △8八銀 ▲8五桂 △同 桂
▲同 歩 △9九銀不成▲5五歩 △4三角 ▲7四銀 △6二香
▲5六桂 △8八銀不成▲7三銀不成△7七銀不成▲6九飛 △7八銀成
▲6六飛 △7四桂 ▲6七飛 △7六角 ▲4八金引 △6七角成
▲同 角 △7七飛 ▲4九角 △6七歩 ▲7二銀成 △6八歩成
▲6一成銀 △5九と ▲6五角 △4九と ▲同 金 △5七角
▲4七飛 △7五角成 ▲7七飛 △同成銀 ▲3二角成 △同 金
▲5二飛 △7六角 ▲3九金寄 △5九飛 ▲6二飛成 △5六飛成
▲6三歩成 △5九龍 ▲6七歩 △4七桂 ▲4八金上 △同 馬
▲同 金 △3九龍 ▲1七玉 △2九龍 ▲3八角 △1九龍
▲1八金 △3九龍 ▲4九金 △3七金 ▲5四香 △4二香
▲5一龍 △6七角成 ▲3九金 △同桂成 ▲4一飛 △2二金打
▲7四角 △4九馬 ▲2八桂 △1五歩 ▲同 歩 △2三桂
まで156手で裏見の勝ち