119手目 漏れた弱点
ふぅむ……私はやや前傾姿勢になって、盤面を見つめた。
同歩は必然だけど、同銀にどうするか、よね。
1番自然なのは6二飛。ただ、それは8四歩が……ん? ない?
8四歩、同歩、8四飛、6六角と取ったのが王手だわ。8一飛成とできない。
そっか。杞憂だった。とはいえ、大友くんがこれを見落としているとも考えにくい。ようするに、6二飛と回られたときの対応があるということだ。今の読み筋だと、6六角の王手が8四歩を阻止している。だったら、6六角を防ぐ手……5五歩ね。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
これで次に8四歩と突ける。
私が8二飛と戻らない限り、8四歩、同歩、同飛、8二歩、8三歩……ん?
私は2度目の気づきを得た――これ、8筋の攻めが全然成立していないのでは。
8三歩と打ち込んだ瞬間、7四金の大技がある。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
これを大友くんが見落として……ないか。油断は禁物。
8三歩と打たずに5七銀か7七銀と銀を逃げそう。
7七銀はそっぽだから5七銀よね。となると、さっきの想定図はかなり有力だ。こっちの4五銀も、3四の歩を守るために必要だし、ほとんど変化はないように思えた。
「6六歩」
私は歩を取り返した。
「けっこう考えてたね。同銀」
そう? 1分くらいだったけど。早指しのひとには長く感じるのかしら。
高校でバリバリやってたときは2、30秒で読めたかもね。リハビリ中。
とりあえず6二飛と寄った。
「ん〜、裏見ちゃんはどこまで読んでるのかな、と」
ご想像にお任せします。
5五歩、4五銀、8四歩、同歩、同飛、8二歩。
予想通り。
「こいつも読まれてそうだな。5七銀」
はいはい、読み筋。私はあらかじめ考えておいた手を指す。
「5四歩」
ここをほぐさないと、6三金の身動きが取れない。
「なるほどね」
大友くん、初めての長考。
聖ソフィア陣営は、だれも応援に来ないのね。
私のほうは三宅先輩がうろうろしている。
ほんとに全員1年生だったりするのかしら。だとしたら外野がいないのは納得。
「……こうかな」
パシリ
銀を退かせにきた。
4六同銀、同角、5五歩は6四歩、同金、5三銀かしら。
いずれにせよ、銀交換にうまみはない。
「5六銀」
すり込む。
「8六飛」
大友くんは銀取りに当ててきた。6五銀はない。飛車の通行の邪魔になる。
私は5五歩で銀のお尻をささえた。
「ん、それは……」
大友くんは手なりで同銀としかけた。
でも、すぐに手を引っ込める。
バレたくさいわね。同銀は5七歩という大技がある。同金、同銀成ならOKだし、5九金は6七銀成と押し込める。6八金は5五角、同角、5四金の鬼手の勝負手を考え中。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
ちょっと怖いけど、6三歩、同飛、6四歩、5五金、6三歩成、9五角くらいで、なんとかならないかしら。今はそのあたりの筋を読んでいる最中だ。
ポイントは、9五角、8二飛成、6八角成、5二とと入られたときに、5八歩成が結構痛いんじゃないかってこと。同金は意外なことに詰む。同馬、同玉、5七金、4九玉、4八金打まで。5八同馬に3九玉と逃げるのは4八金、2八玉に3九銀、3七玉、4七銀成以下。
とはいえ、必ず詰むわけでもない。5八歩成、3九玉、4九と、同銀(同玉は5八馬でさっきと同じ)、4七銀成と詰めろをかけて(3八金、同銀、5七馬以下の詰み)、4一とに2二玉と逃げて、どうか。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
この局面が詰まなければ、なんとかなるはず。多分。
ただ、5二とじゃなくて6一飛と下ろされる順はかなり気になる。
「裏見ちゃん、さすがだね。もう寄せを考える段階か」
大友くんは腕組みをして、大げさに首をひねった。
さらに1分考えて指した手は――
パシリ
ほほぉ、読みをズラしてきましたか。
いかにもこの手はそんなに考えてないだろ、という感じの応手だ。
私はかえって自信がついた。
「4四歩」
5七歩で銀が死ぬのは、ひとまず避ける。
8三歩、4五歩、3七銀引、2四角、8二歩成。
先着されたけど、こちらも角を活かせる展開になった。
「6七歩ッ!」
「それは拒否。5七歩」
私は飛車に指をそえて、1マスずらす。
大友くんは「なるほどねぇ」とつぶやいた。
「5六歩はかえって速くなる、と……じゃあ4六歩」
角筋を止めにきましたか。
ただこれ、取り返さずに4五歩と伸ばしてくるのを待てるのでは?
1回2二玉と入って4五歩、5七銀成、同金、5六歩……いや、こんなパターンになるはずないか。4五歩じゃなくて7二とと冷静に入ってくる。
つまり、4六歩はこちらから取るしかない、と。
「4六同歩」
「これでこっちも角が使える。4六銀」
私は6八歩成、同金と成り捨てたあと、4七歩で王様の頭を叩いた。
「無理攻めじゃない? 3九玉」
ぐッ……たしかに、こちらの陣形が間延びしている。
前のめりになりすぎた感は否めない。
とりあえず銀が死なないうちに攻める。
「4六角」
私は思い切って角銀交換に踏み込んだ。
チェスクロを押すと、大友くんはニヤリとして、
「さすがにどうかな」
と挑発してきた。どうかな、と思うなら潰してみなさい。
「同角」
4八銀、2八玉(取らなかったか)、4九銀不成、同銀。
私は黙って3六金と置く。これで後手の角は死んだ。
「裏見ちゃん、この手はどうかなッ!」
パシーン
……? なにそれ?
同飛で加速すると思うんだけど。
4二同飛、5五角と逃げても4八歩成で……あッ! 2二銀までの詰みかッ!
5五に角を出させるのは悪手だ。受け駒がない。3三桂と跳ねて受けるのは、4三歩、同飛、4四歩で止まっちゃう。5五の歩を拾ったからギリギリ足りている。
ということは、4二同金……でもなさそう。7二と〜8一飛成が強烈だ。例えば、4二同金、7二と、4六金、8一飛成(王手)、4一金、4四角みたいな展開は、こちらが崩壊している。先手玉はすぐに寄るかたちをしていない。
私はチェスクロを確認した。のこり時間は、私が14分、大友くんが16分。
ほぼ拮抗している。途中で長考させたのは大きかった。
「5一金」
私は読みを入れて、最後に残った手を指した。
「拠点づくりに成功。3三歩」
「同桂」
「1三角打ッ!」
「!?」
しまった。こんな強引な手が……ある? ない?
私の持ち駒に歩しかないのを見越した手だ。強引過ぎる気もする。
「……同香」
同角成、4二玉、5六歩。
ここで私は悩んだ。さっきまでなら9五角が効いた。今は1三に馬がいるからダメ。
「……3五角」
逆から打つ。馬消し。
「うーん、消してもいいっちゃいい……わけないか。1四馬」
大友くんは馬消しを避けた。同時に、3六の金を狙ってくる。
これは大掛かりな駆け引きになった。というのも、6八角成、3六馬、8六馬、6三馬の大規模交換が見えているからだ。かと言って、回避する順もない。
「6八角成」
全部交換する。
3六馬、8六馬、6三馬、8八飛。
王手が入った。大友くんは上機嫌に3八金と受ける。
ちょっと鼻歌なんか歌ったりして、優勢を意識しているのはまちがいない。
いやあ、ミスったかなぁ。じっさい後手が悪い。王様の位置が不安定だ。
とりま最善を尽くす。私は4八歩成、同銀と捨ててから5三金と受けた。
「あぁ〜、こういうごちゃごちゃしたのは苦手なんだよなぁ」
大友くんは金髪の頭を掻いて、8一馬と入り込んだ。
8九飛成、6五桂、7五馬、3七銀打。
ガチガチに固めてきた。こうなったら奥の手を使う。
「1六歩」
端攻めに切り替える。
さっきの「ごちゃごちゃしたのは苦手」っていう台詞、忘れてないんだからね。
あれは素で弱点を白状したと見ました。
大友くん、残り8分でまた長考した。かなり思案する。
一方、私は私で5分しかない。大友くんの時間も使って考える。
「……取らないほうがいいか。5三桂成」
同馬、6三金と張り付かれた。
私は1七歩成、同香、1六歩、同香に1七歩と打ち込む。
さて、5三金、同飛、6四角は1八金で頓死のかたちになった。
けど、もちろんそれは期待していなくて、大友くんの苦手を突く作戦だ。
案の定、また長考をし始めた。
相手の棋風は、事前情報からある程度は分かる。でも、こうやって指したときの感触が一番正直だ。大友くんは、飛車角を暴れさせるのは得意だけど、密集地の攻防になると頭がこんがらがるタイプらしい。
それに、時間の使い方が妙なのよね。最初はタダの早指しかと思ったけど、どうも違和感がある。大会慣れしていない。将棋アプリの早指しで鍛えたんじゃないかしら。手なりでサクサク指してきて、長考したわりには読みが深まってなさそうなのがその証拠だ。
「……5三金」
1番普通の手だ。まさかの見落とし?
「同飛」
「ここでこうかな」
パシリ
受けた――手堅い。当然、受ける局面ではある。ただ、大友くんが望んだ流れは、これじゃないはず。しぶしぶ打ったような手つきだった。
私は1八金、3九玉を入れてから、4七歩と叩いた。
まだ私が悪いと思う。大友くんのミスを待つ。
「ここは攻め……いや、ちぐはぐか……」
受けてちょうだい。すなおに攻められると困る。
ピッ
大友くんは1分将棋になった。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ! パシリ!
受けたッ! これは疑問手ッ!
「3五桂ッ!」
「チッ! 6四角だッ!」
ぐッ……やっぱり私のほうが悪い。これは詰めろだ。
5三角成、同玉、5四飛以下、1六の香車が働いて詰む。
5二金と受けても5三角成、同金、6一飛くらいで寄る。
こうなったらイチかバチか。
「4七桂不成ッ!」
私は軽快にチェスクロを押した。
いかにもこれで勝ちみたいな感じで……実態は、負けたらこれが敗着。
冷静に受けられたら後手に勝ち筋はない。けど――
「王手かぁ」
大友くんは露骨にイヤそうな顔をした。3八玉と立つ。
「3九金」
同銀(よし!)、同桂成、4七玉、8七龍、5七香、3五桂。
「これで詰まないっしょ。3六玉」
なるほど……詰まない。私は軽くタメ息をついた。2五銀と打つ。
「裏見ちゃんのほうも寄らなくなったかな……馬が消える……」
大友くんは10秒ほどで王様を寄った。
これも詰まない。4五には馬が利いている。
ただ、大友くんの「寄らない」というのは多分ウソで、本人は寄せる気だ。4五歩、同馬、同桂の瞬間が王手じゃないから、3一銀、同玉、5三角成あたりを狙っているはず。それもおそらく後手負け。
ピッ
私も1分将棋になった。念入りに考える。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「1六銀」
私は香車のほうを取った。
「馬消さないの? 1筋を広くしたほうがいいって読み?」
「……」
「じゃあ5三角成」
同玉、5四飛、4二玉、3一銀、同玉。
「5一飛成」
はい、引っかかった。
「4一香」
逆・王・手!
「あッ」
大友くんは青ざめた。
「4五……いや、入玉だッ! 5五玉ッ!」
その判断もミス。冷静に受けられたほうが困った。
4二金の逆々王手まであったのに。
チャンスは逃さない。私は猛烈に食らいつく。
5四歩、6五玉、8五龍、6四玉、7四龍。
大友くんの手がちぐはぐになってきた。
5四歩は同馬だったはず。4三角、8七馬、同角成なんて後手が全然良くない。
攻めから守りへのギアチェンジに失敗して、攻め駒を温存しようとしている。
5三玉、4四角、5二玉、4三銀、6一玉、6四龍。
大友くんは持ち駒に手を伸ばして、喫驚した。
「き、金しかねぇ!」
そう、残念ながら合い駒が悪い。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「6二金ッ!」
最後の悪手いただきましたッ! 怖くても6三金だったわよッ!
同角、2一金、同玉、4一龍、3一金、1一金。
私は駒音高く、2二玉と立った。
大友くんはがっくりとうなだれた。銀色のネックレスが光る。
「お、王手を回避しながら龍を逃げる手がない……負けました」
「ありがとうございました」
ふぅ……私は大きく息をついて、ひたいの汗をぬぐった――勝った。
大友くんはしばらく首をひねっている。けど、すぐに笑顔になって、
「いやぁ、どこが悪かったかな」
とたずねた。
正直、終盤でパニックになってくれたことだと思う。はっきり敗勢だった。
「最後、4一香の逆王手に4五歩と打たなかった理由は?」
「6四角で押さえられのがヤだった」
【検討図】
なるほど。1二金、5六歩、5五歩みたいな展開は5七龍で詰むのか。
でも、それこそ6五金みたいにがっちりと受けられたら後手は勝てなさそう。
そのあと、私たちはいくつか筋を検討した。
先手は終盤の4七歩を放置して、4四銀か6四角だったという結論に落ち着いた。
「4八歩成、同銀、3六桂がイヤだったけど、俺の勘も当てにならないね」
大友くんはそう言って、感想戦はおひらきになった。
おたがいに一礼して席を立つと、いきなり声をかけられた。
「おい、裏見」
ふりかえると、左ほほにガーゼをした風切先輩が立っていた。
私はびっくりしてしまう。すぐに返事ができない。
「対局終了後で悪いが、ちょっといいか?」
私はすこし間をおいてうなずいた。
これって――先日の事件の話よね?
場所:2016年度 関東将棋連合新人戦 1回戦
先手:大友 義明
後手:裏見 香子
場所:電電理科大学
▲7六歩 △3四歩 ▲7五歩 △1四歩 ▲7八飛 △8八角成
▲同 銀 △3二銀 ▲5八金左 △1五歩 ▲4八玉 △4二玉
▲5五角 △3三角 ▲4六角 △6二飛 ▲7七銀 △6四歩
▲8六歩 △7二銀 ▲8五歩 △6三銀 ▲8八飛 △8二飛
▲3六歩 △5二金右 ▲3八銀 △3一玉 ▲6六銀 △6五歩
▲7七銀 △5四銀 ▲5六歩 △4五銀 ▲2八角 △6三金
▲8六飛 △3六銀 ▲6六歩 △同 歩 ▲同 銀 △6二飛
▲5五歩 △4五銀 ▲8四歩 △同 歩 ▲同 飛 △8二歩
▲5七銀 △5四歩 ▲4六銀 △5六銀 ▲8六飛 △5五歩
▲6六歩 △4四歩 ▲8三歩 △4五歩 ▲3七銀引 △2四角
▲8二歩成 △6七歩 ▲5七歩 △5二飛 ▲4六歩 △同 歩
▲同 銀 △6八歩成 ▲同 金 △4七歩 ▲3九玉 △4六角
▲同 角 △4八銀 ▲2八玉 △4九銀不成▲同 銀 △3六金
▲4二歩 △5一金 ▲3三歩 △同 桂 ▲1三角打 △同 香
▲同角成 △4二玉 ▲5六歩 △3五角 ▲1四馬 △6八角成
▲3六馬 △8六馬 ▲6三馬 △8八飛 ▲3八金 △4八歩成
▲同 銀 △5三金 ▲8一馬 △8九飛成 ▲6五桂 △7五馬
▲3七銀打 △1六歩 ▲5三桂成 △同 馬 ▲6三金 △1七歩成
▲同 香 △1六歩 ▲同 香 △1七歩 ▲5三金 △同 飛
▲5九香 △1八金 ▲3九玉 △4七歩 ▲同 金 △3五桂
▲6四角 △4七桂不成▲3八玉 △3九金 ▲同 銀 △同桂成
▲4七玉 △8七龍 ▲5七香 △3五桂 ▲3六玉 △2五銀
▲4六玉 △1六銀 ▲5三角成 △同 玉 ▲5四飛 △4二玉
▲3一銀 △同 玉 ▲5一飛成 △4一香 ▲5五玉 △5四歩
▲6五玉 △8五龍 ▲6四玉 △7四龍 ▲5三玉 △4四角
▲5二玉 △4三銀 ▲6一玉 △6四龍 ▲6二金 △同 角
▲2一金 △同 玉 ▲4一龍 △3一金 ▲1一金 △2二玉
まで162手で裏見の勝ち