117手目 受け入れられなかった放蕩息子
「いるんだろ、店長?」
ドア越しに聞こえたのは、宗像恭二くんの声だった。
間違えようがない。近畿のイベントで、はっきりと何度も耳にしたからだ。
「入るぜ」
ノブが回り、扉がひらいた。帽子をかぶった恭二くんの姿があらわれる。
彼は一瞬だけ――ほんとうに一瞬だけ刮目した。
そして、すぐに不敵な笑みを浮かべた。
「おっと……店長に売られたかな」
「私が先回りしたのよ。佐田さんは関係ないわ」
速水先輩は店長をかばった。恭二くんと対峙する。
「さてと……自分の立場は分かってる?」
「さあね」
「あなたの行為は傷害罪よ。捕まったら家裁に送致されるわ」
恭二くんはまるでとりあわないかのように、右手で速水先輩を制した。
「どうせ負け犬から『かくまってやってくれ』とか、そういうコメントもらってんだろ」
図星――なぜそのことを?
風切先輩は病院に運ばれたし、スマホを盗み見るチャンスはなかったはずだ。
「おっと、そこの女……裏見だったか? 合点がいかないって顔してるな?」
「え、その……」
「ハハハ、安心しろ。俺はエスパーじゃない。あいつの考えそうなことを言っただけだ。そのようすだと、ほんとにそういう指示があったみたいだな」
しまった――よく見たら、速水先輩はさっきから表情を変えていない。
顔に出したのは私だけだ。大失態。
「さーて、相棒は白状したぞ。風切がオーケーなら問題ないだろ?」
「傷害罪は親告罪じゃないのよね。私たちが警察に告訴したら終わり」
「告訴するのか?」
速水先輩は口をつぐんだ。
この少年、どれだけ図々しいの。常識が壊れてるとしか言いようがない。
私が嫌悪感をいだきかけたとき、恭二くんはいきなり質問を飛ばした。
「殴られるだけのことを風切はやってきた、とは思わないのか?」
……………………
……………………
…………………
………………え? 速水先輩、なんで反論しないの?
公園のいざこざで、風切先輩にはなんの過失もなかった。私が証人だ。
それとも、まったくべつの出来事について語っているのだろうか。
恭二くんは、わざとらしく両肩をすくめてみせた。
「ほらな、けっきょくは自業自得なんだよ。殴っただけなんだから、むしろ感謝しろ」
「暴力を褒めるわけにはいかないわ」
「へぇ、アノときは土御門も殴ったって聞いたけど?」
??? アノとき? 土御門先輩が……風切先輩を殴った……?
いつの話? さっきの公園じゃないことだけは分かる。
「裏見は全然知らないみたいな顔してるな。演技か?」
私が答えるよりも先に、恭二くんは大笑いして、
「新入りに教えてるわけないか」
と言ってから、急に真顔になった。
「じつはな……」
「恭二ッ!」
入り口から女性の叱責が飛んだ。聞き覚えのある声だった。
ふりかえると――もうひとりの宗像さんが立っていた。
高幡不動の将棋道場の席主、宗像ふぶきさんだ。
ふぶきさんは店長室に踏み込み、恭二くんを叱りつけた。
「あなた、東京でなにをしてるの? だれかと喧嘩したそうじゃない?」
恭二くんは子犬のように身をすくめた。
「いや……姉さん……これは……」
……………………
……………………
…………………
………………姉さん?
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……………………
…………………
………………姉弟ッ!?
「これは、なに? どうして佐田さんや速水さんと一緒にいるの?」
「いろいろあってね……姉さんの顔を見たいな、とか」
「あなた、隼人と喧嘩したんでしょ?」
恭二くんの目が泳いだ。
一方、ふぶきさんの言い回しにも、私は違和感をおぼえた。
喧嘩? ……顔を殴られて流血したのに、ちょっと表現がソフト過ぎない?
ちょっとしたいざこざがあったかのような口調だ。
「ね、姉さん、それをどこで……?」
「今は関係ないでしょう。『胸ぐらのつかみ合いになった』って聞いたわよ」
ちがう――けど、だれも訂正しなかった。
恭二くんも渡りに舟と見たのか、真相をごまかしたまま、
「ちょっとしたおしおきだよ。姉さん」
と、よく分からないことを口走った。
「隼人が何故あなたにおしおきされないといけないの?」
「それは姉さんが一番よく知ってるだろう」
「あなたがおしおきされる理由ならゴマンとあるわよ」
恭二くんは、だんだんと険しい表情になった。
「なんで姉さんは、あいつに優しくて俺に厳しいんだッ!? おかしいだろッ!」
「あなたに厳しくしているつもりはありません」
「ウソだッ! 姉さんはあいつに未練があって……」
パーン
強烈な平手打ちが、恭二くんの左頬をおそった。
「あなた、関西の大学に入ったって聞いたわよ。だれのお世話になってるの?」
「俺はだれの世話にもなってないッ!」
「アパートの保証人は? お金だけの問題じゃないでしょ?」
「……」
恭二くんは言葉に詰まった。自腹でまかなえているとは思えない。
「あなたは自分ひとりで生きているようなフリをしてるけど、まわりに甘えているだけでしょう。ちがう?」
ふぶきさんが言い終えるまえに、恭二くんは手近な椅子に崩れ落ちた。
そして、小学生みたいに泣きじゃくり始めた。
ふぶきさんはタメ息をついて、私たちのほうに頭をさげた。
「弟がご迷惑をおかけしました」
店長と速水先輩はおたがいに顔を見合わせた。
先に店長が口をひらく。
「いえいえ、おたがいに顔見知りですからね。ご無事で良かったです」
「宿泊費等は後日お支払いしますので」
「けっこうですよ。タクシーをお呼びしましょうか?」
「いえ、それならもう外に待たせてあります」
私たちは将棋道場を出て、エレベーターに乗った。
ドアの向こうに店長が消える。1階でドアがひらき、ふぶきさんが最初に降りた。
「ほら、恭二、行くわよ」
「……」
ビルの玄関を出ると、1台のタクシーが夜の街角に停まっていた。
メガネをかけたオールバックの男性が、そのまえで仁王立ちしている。
申命館の藤堂さんだった。
恭二くんを見た藤堂さんは、メガネの位置をなおしたあと、ただ一言、
「帰るぞ」
とだけ言った。恭二くんは黙ってタクシーの後部座席に乗り込む。
ドアを開けたとき、黒髪の美しい女性の横顔が見えた。姫野先輩だ。
姫野先輩は黒いカードを渡しながら、
「東京駅までお願いできますか」
と運転手さんに指示した。藤堂先輩は助手席に乗り込む。
なんの釈明もなく、西日本陣営は走り去ってしまった。
速水先輩は腰に手をあてて、わざとらしくタメ息をつく。
「まったく、お騒がせな連中ね」
「弟がたいへん失礼しました」
「あ……いえ、大丈夫です」
速水先輩、気が抜けて失言しましたね。めずらしい。
「帰りの電車代です」
ふぶきさんはそう言って、封筒を渡そうとした。速水先輩はていねいに断る。
「今日は将棋大会で新宿まで来ていました。帰りも想定の範囲内です」
ふぶきさんは迷惑料として渡そうとしてきた。こちらも丁重にお断りする。方向は同じだけど、一緒に帰ると気まずそうだから、ふぶきさんとは渋谷駅で別れた。
井の頭線に揺られつつ、私は速水先輩をねぎらう。
「おつかれさまでした」
「おつかれさま。あの将棋は私の負けね」
そっちに話題を持っていきますか。触れないで欲しいということのようだ。
「なにか切り返す手はなかったですか? 後手もすぐには寄らないと思うんですけど」
「本譜は8七香、7三玉、3四角くらいでダメでしょう」
私と速水先輩は、サダ店長との対局をふりかえりながら帰路についた。
電車なかで、私の脳裏をかすめた問いがある。
この事件は、聖生とどこかで繋がっているのだろうか、と。