115手目 被害者からの依頼
赤いランプが周囲の闇を裂く。
ナマあたたかい都会の風が、喧騒を遠くから運んできた。
「あれはホームレスでしたよ。テントから出て来ましたからね」
「高校生くらいの少年だった気がするけどなぁ」
ふたりのおじさんが、警察に事情聴取を受けていた。
その光景を、私は速水先輩のよこで遠目に見やる。
火村さんと三和先輩は、付き添いで病院に向かった。
重くるしい沈黙に耐えられなくなって、私は口をひらいた。
「先輩、いいんですか? 私たちも目撃……」
速水先輩は人差し指を立てて、私を黙らせた。
右手のスマホをちらりと見せる。
隼人 。o O(うまく逃がしてくれ頼む)
その一行で、私はすべてを悟った。
「もしかして、先輩は宗像くんをかば……」
「シーッ」
先輩はくちびるに指をそえた。なにやら聞き耳を立てている。
警察官の無線機に雑音が入った。
「こちら新宿公園。少年1名が顔面を殴打されたとの情報を確認しました。複数の異なる目撃情報が寄せられています。どうぞ……はい、少年は病院に搬送されました」
相手方の応答は、遠くて聞こえなかった。
「了解。これから林のほうで聞き取りをおこないます」
警察官は無線を切って、同僚と話し始めた。
私はもういちど先輩に確認する。
「いいんですか? 情報が錯綜してますよ?」
「そのほうが助かるわ。時間が稼げるから」
「時間? なんの?」
「宗像恭二を東京から脱出させる猶予……もしもし」
先輩はスマホで、どこかに電話をかけ始めた。
《もしもし? 速水か?》
ん? これって……連合の入江会長の声では。
「そっちに連絡は入ってる? 例の件なんだけど」
《ああ、三和から連絡があった。現状は?》
「ちょっとマズいわね。東京をそのまま出てくれればいいんだけど、その可能性は低いと思うわ。彼、今度こそ決着をつけるつもりなんじゃない?」
《まいったな……どうやって漏れたのか、申命館の藤堂からも電話がかかってきてる》
「出て話したの?」
《いや、居留守だ……が、まちがいなく用件は同じだぞ》
藤堂さん、宗像くんをとりもどしに東京に来てるとか?
考えすぎかもしれない。でも、彼を勧誘するために橋の下へ土下座しに行ったくらいだから、可能性はある。でないと、情報が近畿勢に筒抜けなのは変だ。
「私たちが匿うのと、藤堂に引き渡すの、どちらが安全だと思う?」
会長は押し黙った。付近では、林の捜索が始まっている。テントハウスを一件一件回る方針のようだ。ということは――宗像くんに焦点が合うのは早いかもしれない。彼が出てきたテントハウスは、そんなに奥にはなかったし、庇ってもらえるとはかぎらない。
《どちらとも言えないな。藤堂の言うことを聞くとは思えないが、かと言って、僕たちの意見におとなしく従ってもらえるようにも思えない》
「そうよね……」
ふたりとも間を置いた。10秒ほどして、会長が思い出したかのように口走った。
《そうだ、彼女に……》
「ダメよ」
コンマ0秒もおかずに、速水先輩はノーを突きつけた。
スマホの向こうからタメ息が聞こえる。
《分かった……で、どうするつもりだ?》
「私の予想だと、彼は東京のどこかに宿を構えているはずよ」
《宿? ……ホームレスといっしょにいたんだろう?》
「目撃情報によれば、服装は小綺麗だったらしいわ」
それは私から聞き出した情報だ。
なんで服装のことをしつこく聞くのか分からなかったけど、そういうことか。
《なるほど、一理ある。だが、東京で『宿』なんてそれこそ無数に……》
「だからこそ、あなたに電話してるのよ。電電理科のエリートさん」
沈黙――それに続く震えた声。
《まさか、宿の宿泊客データを……》
「その続きは言わなくていいわ。できる? できない?」
再び沈黙。私は止めようかどうか迷った。いくらなんでも独断専行では。これって……宿の宿泊客情報を違法に突きとめろってことよね。穂積お兄さんが聖生のアカウントに対してやったみたいに。
《……できなくはない》
「二重否定は強めの肯定。それじゃ、連絡はいつものMINEにお願い」
速水先輩は電話を切った。呆然とする私に視線を投げかける。
「私たちは別ルートで捜すわよ」
「別ルート……?」
「ちょっとばかり目星はついているの。時間はある?」
○
。
.
「この写真の男の子が来ませんでしたか?」
速水先輩は、一枚の写真を提示した。整理整頓された机の向こうには、前髪に銀色のメッシュが入ったアラサーの男性――渋谷の将棋カフェ、有縁坂の店長が座っていた。店長は、接客用の笑顔で写真を一瞥して、
「さあ」
とだけ答えた。速水先輩は矢継ぎ早に質問する。
「最近、顔を見かけたとかは?」
「いちいち覚えてないよ」
「接客業なのに店長失格、という意味ですか?」
私はハラハラしてきた。このようすだと、速水先輩は店長のことを知っている。
でも、ふたりがどういう関係なのか分からなかった。口を挟むタイミングもない。
速水先輩はひと息ついて、質問を変えた。
「どこかべつの道場で見たという情報はありませんか?」
「ほかの店の内情を教えるわけにはいかないなぁ」
店長は、裏になにかあるような笑みを浮かべた。
速水先輩はあくまでも冷静に、それでいて断固とした口調で、
「私がこの件で佐田さんのところへ来た理由は、お分かりですよね?」
とたずねた。私には、なんのことやら分からない。
サダと呼ばれた店長も、
「分からないな」
と、はぐらかした。
「宗像恭二が東京で最初に頼りそうな人物として、あなたが浮かんだからです」
「その少年の名前がなんなのかはおいといて、なぜ僕のところだと思ったの?」
「あなたが元真剣師だからです」
店長室の空気が、設定温度よりもヒンヤリとした。
真剣師? このひとが? ……ちょっとそうは見えない。髪型も顔の整え方も、真剣師というよりはホストだ。それに『元』というのが気になった。
サダ店長は、やれやれと言ったようすで首を振った。
「きみはどこからそういう情報を手にいれてくるのか、さっぱり分からないよ」
「こう見えても探偵趣味なので」
こう見えても、っていうか、どう見ても、だ。
聖ソフィア潜入のときの変装と言い、速水先輩は韜晦癖が強すぎる。
「で、仮に僕が元真剣師だとして、なにか問題があるのかな?」
「第185条、賭博をした者は、50万円以下の罰金又は科料に処する」
サダ店長は笑った。
「あいかわらずの秀才ぶりだね。ただし……」
「ただし、一時の娯楽に供する物を賭けたにとどまるときは、この限りでない……佐田店長が動かした金額は、『一時の娯楽』というレベルではなかったと思いますが?」
店長はタメ息をついた。さっきから動作が大げさだ。
「了解、了解。彼も『泊めて欲しい』とは言ったけど『匿って欲しい』とは言わなかったからね。正直に言うよ……宗像恭二は僕の店に来た」
「いつ?」
「1週間前だ」
「今はどちらに?」
「知らない」
「店長。今回の宗像くんの家出は深刻で……」
「ほんとに知らないんだよ。行き先も言わなかったからね。ところで、速水さんはどうして彼の居場所を知りたがるんだい? もしかして、なにかあった?」
今度は速水先輩が黙る番だ。傷害事件があったとは言えない。
それとも、店長は今回の事件を知って、からかってる?
先輩は慎重に言葉を選んだ。
「10代の少年が家出した……これだけで事件性があるとは思いませんか?」
「思わないね。彼はもともと破天荒な生活だろう?」
「店長は、彼になにかあったとき責任を取れるんですか?」
「僕が責任を取る必要性はない」
「タクシーが泥酔した客を途中でおろした場合、保護責任者遺棄になります。未成年を泊めた事案も、同じではないでしょうか」
速水先輩、強い。おとなをやり込めている。
店長は、書類棚の置き時計へ視線を伸ばした。
「8時前か……きみに口で勝つのは難しそうだ。となると……」
最後までは言わずに、店長はテーブル上の将棋盤を引き寄せた。
パシリと王様を所定の位置におく。
「これで決着をつけよう」
「佐田さん、今は将棋を指している場合では……」
「真剣師がなにかを賭ける方法は決まっている。たとえそれが些細な情報でもね」
サダ店長の目は本気だった。これは……ロジックの飛躍じゃない。宗像くんの居場所を教えたくなくて、自分の一番得意な分野に引きずり込もうとしているようにみえた。
ふたりはどういう関係なの? そもそも、速水先輩はなぜそのことを?
速水先輩はジッと盤を見つめたあと、
「……分かりました」
と答えて、残った王様を手に取った。
「元真剣師なら、負けてもゴネませんね?」
「もちろん。きみが勝てるなら、ね。30秒でいいかな? それとも10秒?」
「……30秒で」
駒が並べられる。最後に歩を置いた速水先輩は、ルールを確認した。
「『私が勝ったら宗像恭二くんの居場所を教えてもらう』で、よろしいですか?」
「OK。きみはなにを賭ける?」
速水先輩は一瞬――ほんの一瞬、逡巡して、
「私は宗像恭二の居場所を捜さない、というのはどうですか?」
と提案した。
「Goodだ。それでいこう」
サダ店長は速水先輩に振り駒を頼んだ。先輩はゆずり返さなかった。
「店長のことですから、なにかテクニックがあるかもしれないので」
先輩は念入りにかきまぜて、歩を宙に放った。
「表が2枚。私の後手です」
吉と出たのか凶と出たのか。ふたりの表情からは読み取れない。
「それじゃ、始めようか。チェスクロは速水さんの右でいいね」
「……はい」
ちょっと雰囲気に呑まれてないかしら。先輩の返事は、どこか曖昧模糊としていた。
「じゃ、よろしく」
「よろしくお願いします」
おたがいに一礼して、賭け将棋が始まった。
「7六歩、と。速水さんが選ぶ渾身の戦法は、なにかな?」
速水先輩は黙って3四歩とした。
そのまま横歩の流れになる。
2六歩、8四歩、2五歩、8五歩、7八金、3二金。
「2四歩」
サダ店長の指し手は速い――というか華麗過ぎる。
早指しなのに手つきがまったく乱れていない。
先輩は5秒ほど考えた。
「同歩」
「ここで考えてるようじゃ、危ういなぁ」
店長はクスリと笑って同飛と取った。
8六歩、同歩、同飛、3四飛、3三角、5八玉、5二玉、3六歩。
店長は、飛車を引かないかたちを選択した。これもノータイム。
ひょっとして、研究手順に誘導されているのでは? 不安だ。
同じことを考えたのか、速水先輩は次の手に小考した。
「……受けて立ちます。7六飛」
定跡に突入したッ!




