111手目 悪意の欠如
大胆な手だ。全体的に攻めの棋風。
おばさんはチェスクロを押すと、電子タバコを指に挟んで黙想した。
そのかっこう、いくらペン型でもバレる気がする。
人目も多くなってきた。何局か終わっている席が出始めていたからだ。
「同歩」
私は飛車を回収した。おばさんは6四角成とする。
思ったより良くなってないのかしら。ただ、後手は攻め手がないわよね。
切れ負けにだけ気をつければよさそう。
「7五角」
無難な手を指しておく。
おばさんは大きく息を吐いた。タバコの香り。
「困ったわね。やることがないわ」
そう言いながら、おばさんは同馬と取った。
同銀、5五歩、4六飛、3七角、4七飛、2六角成。
後手は馬を作り直した。けど、これはべつになんでもない。
やっぱり形勢はこちらに傾いている。私は自信を持った。
「6四角」
一番厳しく返す。
「8五桂」
「4四歩」
「……急所ね。3六馬」
私は無視して4三歩成とする。
これは決まった。4七馬なら4二と、同金、4五飛で寄る。
おばさんは残り5分まで考えて、電子タバコをくわえなおした。
「4七馬」
想定のルートに入った。私は4二とと押し込む。
同金、4五飛、4三香。
飛車に香打ちの返しは常套手段だけど……どのみち、もたないでしょ。
「4四歩」
おばさんは6九馬と深く入った。
ん? ここで馬入り? ……最後の悪あがきかしら?
私は4三歩成と成った。
「7九銀」
……………………
……………………
…………………
………………ああッ! 取れないッ!
取ったら8七飛一発で詰む。しまった。完全に終盤のうっかりだ。
「は、8七玉」
「7八馬」
これも取れない……8八飛で詰む。
「8六玉」
おばさんは4三銀と手をもどした。タバコを指でつまむ。
「勝負は最後の一打まで分からないものよ。河底撈魚、ってね」
また何を言っているのか理解できない。将棋用語じゃないみたいだけど……とにかく、私はいったん気持ちを落ち着けた。ペットボトルのキャップを開け、お茶を飲む。
水分補給を終えた私は、局面を整理する。
「……」
残り5分を切った。おばさんは3分。叩き合いなら時間切れ勝ち。状況は悪くない。
それに、相手は逆転したみたいなことを言ってるけど、ほんとにそう?
私のほうだって脱出経路はある――ん、待ってよ。もしかして持将棋狙い? 先手も後手も脱出できそうなかたちをしている。逆転云々は、そのための口三味線かも。
「……」
私はもうひとくちお茶を飲んで、読みに耽った。なるほど、持将棋狙いか……ってことは、正規の順をあまり深く読んでいないのでは? ああして、こうして……あ、ダメか。続かない……いや、続く? 私は残り時間が逆転したところで、盤上に手を伸ばした。
「4三飛成」
おばさんは3二金打とノータイムで受けた。
「5三歩成」
この一手を、おばさんは凝視した。タバコを吸いなおす。
「……」
読んでなかったくさい。龍を逃げてからの相入玉をメインに考えていたのでは。
「ふーん……点数勝負で大駒の押し売り?」
私は黙って応手を待つ。
おばさんは、ほとんど時間がない。切れ負けだから秒読みにはならないわよ。
「同金……いえ、4三金直」
強いほうで取ってきた。同金左もありえたけど、どのみち同とで詰めろだ。
「同と」
「4二歩」
おばさんは残り50秒ちょっと。私も1分を切るところまで考えて、4一金と打った。
おばさんは、この手にハッとなった。
声にこそ出さないけど、気づいたようだ――完璧に寄った。
4一同玉なら5二金、3一玉、3二と、同玉、4二角成以下で詰み。馬を作って2四の脱出経路を封鎖するのがポイント。だから、現局面で2二玉と逃げるしかない。以下、3二と、1二玉(同玉はさっきと同じ順で詰む)、2五銀と詰めろをかける。
(※図は香子ちゃんの脳内イメージです。)
次に1三金、同玉、1四銀、同玉、1五金、1三玉、1四香まで。
私のほうは詰まない。
ピッ
おばさんは30秒を切った。軽く目を閉じてタバコをふかす。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ
「負けました」
「ありがとうございました」
おたがいに一礼して終了。勝った。
「逆転してなかったのね。どのあたりで気づいたの?」
「失礼な言い方かもしれないですが……逆転したって印象は最初からなかったです」
「あら、そう」
おばさんは淡々としていた。
「趣味で初めて半年じゃ、こんなものかしらね」
うッ……半年でこれ? なにか他のボードゲームをしているのかもしれない。
時間の使い方とか、勝負の間合いとか、こういうのは簡単に身につかないはずだ。
「ほかの席も終わったみたいだし、切り上げましょうか」
「え……あ、はい」
なんかあっさり終わってしまった。
おばさんはペン回しの要領で電子タバコをくるくるさせながら、姿を消した。
私も席を立つ。
「香子、どうだった?」
火村さんが話しかけてきた。
「勝ったわよ」
「じゃあ3ー0ね」
「全員勝ったの?」
「さっきのチームより、だいぶ弱かったわよ」
ふーん……まあ、そういうこともあるわよね。スイス式だから、2回戦は1勝同士が当たる。1回戦で弱いチーム同士が当たっていても、そうなる。だから、2回戦のチームが1回戦のチームより強い保証はない。もちろん、何試合も進んでいけば別だ。弱いところはどんどん淘汰されて、強豪だけが残る。
「そういえば、香子の相手だけ、おばさんじゃなかった?」
「だけ? 火村さんたちの相手は?」
「若い女だったわよ。20代前半くらいの」
はて、どういうチームだったのかしら。
会社の先輩後輩? それとも、女性将棋サークルの仲間?
「ま、可憐のキゲンも治ったみたいだし、3回戦行きましょ」
たしかに、気にする必要もないか。ちょっとお手洗い行って来ましょ。
○
。
.
ハァ……だんだん気温が上がってきたわね。
運営がテントを準備してたの、好手だったと思う。
私はお茶を飲みながら、次の対戦チームを待った。
「あ、ベンチのお姉さんだ。こんにちは」
ふりむいた私は、むせ返りかけた。
「あ、あなた、スマホで盗撮してた……ッ」
私はあわてて口をつぐんだ。でも、メガネの少女は椅子を引きながら、
「やっぱり盗み見してましたね? 他人のスマホをのぞきこむのはマナー違反ですよ?」
と、ニヤニヤしながらやり返してきた。
ぐッ……この反応は困る。全然悪びれたようすがない。
「将棋に反応してたから、大会参加者かと思ったんですよねぇ。どんぴしゃ」
いや、そういう問題じゃないでしょ。盗撮がバレてるのよ? なんでそんな反応?
もしかして、悪いことしてるって自覚がない?
「どこから映してたの?」
私は敢えて質問した。駒を並べていた少女は、エッという顔をした。
「天井カメラ以外になくないですか?」
私は上を見あげた。白い天幕がパイプで支えられている。
付けるとしたら……パイプのつなぎ目部分?
「ここには付けてませんよ。自分の対局を録画してもしょうがないですし」
「自分のって……他人のは撮っちゃダメでしょ」
「え? なんでですか? 法律に違反してます?」
そういう問題じゃ……会話が……年齢はそんなに離れてないと思うんだけど……。
困惑する私のまえで、少女は駒を並べ終えた。
「お姉さん、並べないんですか?」
「そのまえに、さっきの状況を詳しく……」
《駒を並べ終わったところから先後を決めてくださーい》
だーッ! ダッシュで並べる。
じゃんけん……かと思いきや、少女のほうが勝手に振り駒をした。
「歩が1枚。ボクの後手」
少女が歩をもどすと、ふたたびアナウンスが入った。
《対局準備の終わっていないところはありますか? ありませんね? スタート!》
「よろしくお願いします」
少女は先に頭をさげて、チェスクロを押した。なし崩しで尋問が終了する。
こうなったら、負かして白状させる。
「よろしくお願いします。7六歩」
少女はひと呼吸おいて、8四歩と突いた。
さっきと一緒のパターンか。だったら角換わりに誘導する。
2六歩、8五歩、7七角、3四歩、8八銀、4四歩。
相手の指し手も速い。どうみても上級者だ。
2五歩、3三角、4八銀、3二金、5六歩、2二銀。
普通の角換わりだ。
私は7八金と上がって、陣形を整備する。
5二金、6九玉、4一玉、3六歩、4三金右。
むッ、あやしい。7一の銀が動かないのは変だ。用心。
「5七銀」
ここで少女は10秒ほど時間を使った。
「5一角」
ほぉ……これが7一の銀を動かさなかったワケか。
でも、微妙な気がする。7四歩〜7三角は牽制できるからだ。
「5九角」
この一手。次に3七角があるから、後手は銀を保留しにくいはず。
案の定、少女はイヤそうな顔をした。
「お姉さん、やりますね」
それほどでも。こういうセリフが出てくるのは、ちょっと舐められてた感がある。
思春期特有の自信過剰なのか、それともほんとに実力者なのか。
「7二銀」
よし、銀を上がった。私は7七銀、3三銀を入れてから、3七角とのぞいた。
3一玉、7九玉、2二玉、5八金、9四歩。
ふむふむ、棒銀に切り替えてきましたか。
「8八玉」
とりあえず入城。後手の出方をきく。
「4二角」
少女は角を反転させた。5四歩で棒銀をサポートするつもりらしい。
6六歩、5四歩、6七金右、8三銀、6五歩。
「うーん、さすがに棒銀はムリかなぁ」
少女はテーブルに頬ひじをついた。メガネがズリあがる。
「……7四銀」
少女は思ったよりサクッと方針転換した。
パシリとチェスクロが押される。
これは……6六銀右に6二飛っぽいわね。でないと手が続かない。
「6六銀右」
「6二飛」
読み通り。後手は活路を見出そうとしている。けど、すぐに6四歩は成立しない。
「9六歩」
様子見で端を突く。
「お姉さん慎重ですね。1四歩」
あなたもね、1六歩、と。端歩の突き合いが完了。後手は手待ちできない。
少女は黙って9三香と上がった。
6筋がムリだから、今度は9筋か。
ちょこまかとめんどくさいわね。こっちから攻めちゃいましょ。
「5五歩」
場所:新宿将棋大会
先手:裏見 香子
後手:くわえタバコのおばさん
戦型:後手右四間
▲7六歩 △8四歩 ▲6八銀 △3四歩 ▲6六歩 △6二銀
▲5六歩 △6四歩 ▲7八金 △6三銀 ▲4八銀 △5四銀
▲5七銀右 △6二飛 ▲5八金 △4二玉 ▲6七金右 △3二銀
▲6九玉 △3一玉 ▲7九玉 △5二金右 ▲2六歩 △7四歩
▲2五歩 △1四歩 ▲2四歩 △同 歩 ▲同 飛 △2三歩
▲2八飛 △7三桂 ▲9六歩 △9四歩 ▲1六歩 △8五歩
▲3六歩 △6五歩 ▲同 歩 △8八角成 ▲同 玉 △8六歩
▲同 歩 △3三角 ▲6六角 △7五歩 ▲同 歩 △6六角
▲同 銀 △6五銀 ▲同 銀 △同 飛 ▲6六歩 △4五飛
▲4六銀 △7五飛 ▲7七銀 △8五歩 ▲7六歩 △7四飛
▲8五歩 △9五歩 ▲同 歩 △6九角 ▲8六銀 △4七角成
▲5五銀 △3九銀 ▲2六飛 △4八馬 ▲2七飛 △3八馬
▲1七飛 △2八銀不成▲5七飛 △2九銀成 ▲8三角 △6五桂
▲5九飛 △7一飛 ▲6五角成 △2八馬 ▲9四歩 △1九成銀
▲9三歩成 △6一飛 ▲6四桂 △4二金寄 ▲9二歩 △5四歩
▲同 馬 △5一飛 ▲6五馬 △5四歩 ▲同 銀 △7三桂
▲5五馬 △同 馬 ▲同 歩 △3七角 ▲5六飛 △5四飛
▲同 歩 △6四角成 ▲7五角 △同 馬 ▲同 銀 △5五歩
▲4六飛 △3七角 ▲4七飛 △2六角成 ▲6四角 △8五桂
▲4四歩 △3六馬 ▲4三歩成 △4七馬 ▲4二と △同 金
▲4五飛 △4三香 ▲4四歩 △6九馬 ▲4三歩成 △7九銀
▲8七玉 △7八馬 ▲8六玉 △4三銀 ▲同飛成 △3二金打
▲5三歩成 △4三金直 ▲同 と △4二歩 ▲4一金
まで137手で裏見の勝ち