107手目 見られていた対局
また一手指された――さっきのスマホで観た局面に似ている。
「すみません、そろそろ返していただけますか?」
スタッフのひとに催促された。私は双眼鏡を返す。
「ありがとうございました」
「大会は夕方までやりますし、オペラグラスはそのへんで売ってると思いますよ」
やたら熱心に観ていたせいか、スタッフは私を観る将かなにかと誤解したらしい。
私は適当に返事をして、ベンチへ戻った。席は確保されていた。
「……」
私は黙って座る。さっきの少女は、スマホをひざのうえに置いていた。
これ……盗撮じゃないの? なんで他人の将棋を? どこにカメラが?
私は会場の位置関係を確認した。ロープで仕切られたなかに、テントが張り巡らされている。運動会で見るような、白い屋根に4つの鈍色の脚がついたやつだ。そして、十数台の長机。学校の会議室によくある折りたたみ式。そこに向かい合って3人ずつ座って対局している。となると、上空からは映せない……いや、映せるか。テントの天井部分だ。
ここまで考えて、私は自分が荒唐無稽な仮説を立てているんじゃないかと疑った。だって、となりに座っているのは、どうみても高校生くらいの少女だ。ボーイッシュな服装と言動を除けば、いたって普通の子どもにしかみえなかった。
「へぇ、角交換するんだ」
少女は頭をがりがりと掻いた。
かなり怖いかたちよね。観戦でも考え込みそう。
私が読みを入れていると、少女と目が合った。
「あッ……ごめんなさい」
私は反射的に謝った。
少女はなにも言わず、スマホを両手で持ってベンチにのけぞった。
画面が見えなくなる。警戒されてしまった。
……………………
……………………
…………………
………………することがなくなった。
で、でも、この少女、なんで将棋なんか盗撮してるの? 目的は?
「おーい、裏見ぃ!」
公園に響き渡る大声。私は思わずベンチから立ち上がった。
「おーい、裏見ぃ! つれてきたぞぉ!」
目の前に、一台の自転車が止まった。漕いでいたのは、冴島先輩だった。
「ぜぇ……ぜぇ……もう限界だ……」
「ご苦労さまでした」
2人乗りしていた橘さんが、ストンと地面にとびおりた。メイド服の裾をなおす。
冴島先輩は肩で息をしながら、ハンドルに突っ伏した。
「なんで……オレが……こんな目に……」
「将棋で負けたのですから、仕方がありませんわね」
「ちくしょうぉ! ふざけるなッ!」
冴島先輩は自転車をほっぽり出して、ベンチに身を投げた。
「なにがあったんですか?」
私が尋ねると、橘さんは平然と、
「『将棋で負けたら八王子から新宿まで自転車で運ぶ』という約束でした」
と答えた。えぇ……6時間くらいかかるのでは。
「ところで、ぼっちゃまはどこに?」
「あそこのテントの奥です」
私たちはロープぎわまで移動した。橘さんは、スカートから双眼鏡をとりだす。
「用意がいいんですね」
「都会でイベントを観るときは必須です」
なんですか、それは。私が田舎者ってことですか。
ちょっと腹を立てていると、橘さんはもうひとつ双眼鏡をとりだした。
「……どうしました? お使いにならないのですか?」
「あ、ありがとうございます」
私は両手で受け取った。さっそく覗き込む。
やっぱり、さっきのスマホの画面に似ている。後手が風切先輩だ。
「……橘さん、冷静に聞いて欲しいんですけど」
「わたくしはいつでも冷静です」
ほんとぉ? とりあえず、さっきの出来事を伝えることにした。
「あのテントのうえに、盗撮用のカメラが仕掛けられてます」
……………………
……………………
…………………
………………なにか反応してくださいな。
双眼鏡から目を離すと、橘さんはこちらをじっとりと見つめていた。
「スパイごっこかなにかですか?」
「ほんとに仕掛けられてるんです」
橘さんは、そのまま双眼鏡をのぞきなおした。
ぐぅ……まったく信用されてない。よく考えたら、すぐに信用される話でもない。私はどう対応したものか迷った。ここでロープのなかに入って、証拠をあげる? でも、盗撮されていたから、どうだっていうのかしら。犯罪……なのかな? 法学部の穂積さんがいたら聞けそうだけど、今はいないし……むむむ。どうしましょう。
迷ったあげく、私は観戦に集中することにした。
なるほど、こうなってるのか。
先手は8四歩と突きたい……と思った瞬間に8四歩が指された。
同歩、同飛、8三歩、8九飛、1三桂。
先手と後手、陣形はどちらもしっかりしている。
後手の風切先輩が指した1三桂は、穴熊の利点を最大限に活かそうとする手だ。
「これ、先手は4五銀と出る感じですか?」
「4五に銀は出られませんが?」
??? 私と橘さんは目を合わせた。
「先輩、どこ観てます?」
「もちろん、ぼっちゃまの対局です」
うーん、会話のすれちがい。私は、風切先輩のところの形勢を尋ねた。
橘さんは、双眼鏡をのぞきこむ。
「……タイミング的に4五銀ですか。4四歩と反発するのは、5六銀とバックされたあとで4三にキズが残って勝てません。先に6八金……は後手から4四銀がありますか。4五銀に後手がなにか指して6八金が本命でしょう」
ふむふむ、橘さん、ファッションセンスはともかく、指し手は信用できる。
「ちょうど指しました。4五銀ですね」
私も双眼鏡をのぞきこむ。
たしかに、4五銀が指されていた。
以下、7四歩、6八金に左手が伸びて、5三の銀を空打ちした。
ん? けっきょくぶつけた?
危なくないかしら。同銀、同歩に4三角が第一感だ。
と思った瞬間、相手もすぐにそう指した。4四同銀、同歩、4三角。
「風切先輩の手、危なくないですか?」
「んー、ぼっちゃま、もっと激しく迫ったほうが」
ダメだ、こりゃ。私はひとりで考え込む。
けど、うまい応手が思いつかないまま、3一飛、5四角成、2五桂、8四歩と進んだ。
猛攻が始まりそう。案の定、先手は8四同歩に6四歩と畳み掛けた。
風切先輩のかたちの良い指が、スッと3六に歩を置いた。
なるほど、ここで反撃するわけか。いい手だ。
先手と後手は王様の深さが違う。攻め合いだと先手負けになる。
相手は――これまた髪を結った少年だった――小考した。そして、3六同歩。
以下、3七歩、4七銀、6四歩、8三歩となって、ふたたび後手が受けに回った。
同金、6三歩、7二金、5三銀。
んー、いいのか悪いのか……まだ後手がいいかしら。
3七の拠点は大きい。将来的に一発で寄る可能性もある。
「ぼっちゃま、そこは金を打ったほうが」
橘さんの独り言をよそに、私は観戦を続けた。
7一銀打(手堅い)、6二歩成、同金、同銀成、同銀。
30分切れ負けだから、受け続けたら勝てるって読みなのかなぁ。
先手は6四馬と寄った。
3三飛(さすがに飛車を素抜かれるうっかりはない)、8五歩、同歩、同飛。
なんか危なくなったような気がする。8四歩は2五飛で、後手がいそがしい。
風切先輩、大丈夫かしら。
7三金、5四馬、3八銀、同銀、同歩成、同玉、3七歩。
今度は後手のターンだ。王様を追撃。
4八玉、6七歩、同金、8四歩。
ん、それは飛車をまわ……れないのか。2五飛は3四角が飛車金両取りだ。
8八飛、6三銀打。
ここで先手の少年が頭をさげた。
もしかして投了した?
疑心暗鬼になっていると、風切先輩は盤を示してなにか言った。
どうやら、ほんとうに投了したらしい。
「風切先輩、勝ったみたいですよ」
「ぼっちゃまも、お勝ちになられたようです」
となると、チーム勝ちか。氷室くんは――あ、ここも終わってるっぽい。チェックしていなかったから、氷室くんが勝ったのかどうかは分からなかった。結果を知ったのは、それから10分後のこと。
「いやぁ、3−0で勝っちゃいましたね」
氷室くん、やたらと上機嫌。
これと対照的なのが、風切先輩だった。
「すまん、とちった」
「あれ? 先輩、勝ってませんでしたか?」
私の質問に、風切先輩はタメ息をついた。
「相手のポカでな。終盤で飛車を切られたら終わってた」
私は、どの局面のことか尋ねた。
「裏見、見てたのか?」
「はい、双眼鏡で」
風切先輩は、恥ずかしそうに6七歩のところだと答えた。
「同金とせずに、8二飛成、同玉から叩いて叩いて8五銀、8三玉、8一馬だ」
【参考図】
「完全に寄りだ。俺のほうは手がない」
そうなんだ……てっきり、後手の完封勝ちかと思った。
「言い訳になるが、ちょっと寝不足なんだよな」
「寝不足は数学とお肌に悪いですよ」
氷室くん、あいかわらず言い回しが奇妙。
とはいえ、大会の日に寝不足なのは、朽木先輩も感心しなかったようで、
「せっかく参加してもらってたいへん申し訳ないのだが、体調管理は重要だと思う」
と、控えめにたしなめた。
「わりぃ。なんか寝つけないんだよなぁ」
「自律神経が不調なのではないかね?」
「いや……」
風切先輩は、急に真顔になった。声を落とす。
「だれかに見られてる気がするんだ」
場所:新宿将棋大会
先手:???
後手:風切 隼人
戦型:相振り飛車
▲7六歩 △3四歩 ▲6六歩 △3二飛 ▲7八銀 △6二玉
▲6七銀 △7二玉 ▲7七角 △8二玉 ▲8八飛 △7二金
▲8六歩 △9二香 ▲8五歩 △9一玉 ▲4八玉 △4二銀
▲3八銀 △5一金 ▲5八金左 △3五歩 ▲3九玉 △3六歩
▲同 歩 △同 飛 ▲2八玉 △1四歩 ▲5六銀 △5四歩
▲6五歩 △7七角成 ▲同 桂 △3二飛 ▲4六歩 △5三銀
▲3七歩 △6二金上 ▲9六歩 △8二銀 ▲9五歩 △1五歩
▲8四歩 △同 歩 ▲同 飛 △8三歩 ▲8九飛 △1三桂
▲4五銀 △7四歩 ▲6八金 △4四銀 ▲同 銀 △同 歩
▲4三角 △3一飛 ▲5四角成 △2五桂 ▲8四歩 △同 歩
▲6四歩 △3六歩 ▲同 歩 △3七歩 ▲4七銀 △6四歩
▲8三歩 △同 金 ▲6三歩 △7二金 ▲5三銀 △7一銀打
▲6二歩成 △同 金 ▲同銀成 △同 銀 ▲6四馬 △3三飛
▲8五歩 △同 歩 ▲同 飛 △7三金 ▲5四馬 △3八銀
▲同 銀 △同歩成 ▲同 玉 △3七歩 ▲4八玉 △6七歩
▲同 金 △8四歩 ▲8八飛 △6三銀打
まで94手で風切の勝ち