101手目 原始の行方
パシリ
あたりまえの受け。
昔の将棋だから分かりません、ということにはならないようだ。
将棋を覚えたとき、最初に教わる攻めだものね、これ。
「3二銀ッ!」
お、さすがに突っかからないのか。ちょっと安心した。
「慎重な駒組みが必要かな。2六歩」
児玉先輩は飛車先をのばした。
3三銀、5八金、5四歩、6七金右、5二金右。
一転して囲い合いになった。
「4八銀」
「3一角」
交換できるかたちになった。次は8六歩と行きそう。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「8八銀」
児玉先輩、仕掛けを回避。
このチェスクロ、音量が小さめに設定してある。お客さんへの配慮かしら。
「Umm……Difícil……」
「撤退する?」
「しないッ! 9四歩ッ!」
ララさんは銀のお尻を支えた。
きっと8六歩の準備ね。次は8六歩、同歩、同銀、8七歩に9五銀だ。
9四歩を入れてないと、最後の9五銀を同角で取れちゃう。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
児玉先輩は黙って5七銀とあがった。
「Agressão!! 8六歩ッ!」
突撃した。児玉先輩は、手元のアイスコーヒーに手を伸ばした。
「前回はうまく撃退できたけど、今回はどうかな……同歩」
同銀、8七歩、9五銀。
ララさんはチェスクロを押して、腕まくりしなおす。
「暑くなってきたね。ララ、注文したい」
さっきしてくださいな。私は店員さんを呼んだ。
「ご注文でしょうか?」
「コーラ」
ララさんはあっさり決めた。
店員さんは、私と大谷さんを見る。
なんですか。注文しないといけないんですか。
「じゃ、じゃあ、こっちのハニーパンケーキで……」
「拙僧は抹茶パンケーキを……」
パンケーキ・シリーズのなかから、適当に注文してみた。
私は観戦に集中する。
おっと、進んでるじゃないですか。
これは……6五歩、4二玉、6六銀、3二玉かな。多分。
後手は囲いに来ている。先手も6九玉だろう。
「6九玉」
児玉先輩は、滑らせるように王様を寄った。
よしよし、慶長はAクラスだけど、このあたりの手は読める。
上位でも下位でも、共通する部分がある。それが将棋のいいところだ。
「ん〜、むずかしくなったかなぁ」
ララさんは肘をついて考え込む。コーラが先に運ばれてきた。
「水で薄めてないよね?」
「失礼な。当店はそのようなことはしません」
「Eu entendo」
ララさんはストローをつまんで、チューとひと口飲んだ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「6四歩」
攻めっ気タップリ。
ただ、そんなに繋がる攻めには見えない。
「歩の持ち合いになる感じかな。同歩」
児玉先輩も冷静に取り返す。
同角、7五銀、4二角、5七角。
先手のほうが……いや、まだ難しいか。
「ん? 5七角? じゃあララ、5五歩」
ほほぉ、なかなか勇気のいる手だ。次に9六歩が見えている。
9六歩、8四銀、同銀は、5七に角がいるから同飛と取り返せない。
ララさん、見落としてないわよね?
「9六歩」
児玉先輩は見落としていなかった。
「Oh……銀が死んでる」
こらぁ! 見落としてるじゃないですかッ!
「ああしてこうして……あ、助かりそう。7四歩」
なるほど、これで助かっている。
「イッチー、5六歩を入れたほうがよかった?」
「それは感想戦でね。6六銀」
8四銀、5五銀、7三桂、2五歩。
ララさん、コーラを飲まずに考えこむ。
「うーん……攻めらんない……」
「そろそろこっちの番かな」
「じゃあ攻めて。4四歩」
ララさんは、児玉先輩に主導権をゆずった。
7七桂、6五歩、5四銀と進む。
「ディフェンス気味になっちゃった……と見せかけて9五歩ッ!」
まさかの反撃――しかも、いい手っぽい。
このタイミングは取るしかないはず。
本局で初めて、児玉先輩も感心した表情を浮かべた。
メガネのフレームを押し上げる。
「へぇ、やるね……でも、続くかな? 同歩」
「7五歩」
ララさん、畳み掛けるつもりだ。
児玉先輩も、すかさず反応する。
「これで止める。6五桂」
うまい。同桂、同銀なら、7六歩に同銀と後退できる。手順だ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「7六歩」
ララさんは、金の吊り上げを優先した。同金は6五桂、同銀で渋滞する。
「反撃。2四歩」
児玉先輩は盤面を大きく使う。左右に焦点を作った。
「Bom!! フレックスオフェンスみたい」
「ララさんの名ディフェンス、見せてもらおうか」
「2四同歩しかないでしょ」
そう、選択肢がない。ここでそのセリフはずるい。
飛車先の清算から、児玉先輩は7三桂成と成り込む。
同銀、2二歩、同玉。
「こんどこそ見せてもらうよ。2五歩」
……きびしい。このまま2四歩とされたら終わる。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「3二金」
「意外とふつうの守り方だね」
ララさんは長い人差し指をたてて、児玉先輩を威嚇した。
「ここからび〜っくりするようなフットワークがあるんだから」
「それは楽しみだな。2四歩」
当然進めるわよね。3二金は一時しのぎにしかなっていない。
「攻め駒を攻めるッ! 2七歩ッ!」
あ、なるほど、なんとなく方針がみえた。
同飛に3五桂と打つつもりだ。これしかない。
児玉先輩も、すぐに作戦を察したようだ。ノータイムで同飛と取った。
「3五桂ッ!」
「引くよ。2八飛」
ララさんは、ここで手をとめた。
理由は分かる。2八飛じゃなくて2六飛を読んでいたのだろう。
2六飛、4七桂成、6六角みたいなのが第一感。
2七歩を許容するってこと? だったら最初の2七歩にスライドで良かったのでは?
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「2六歩ッ!」
ララさんは、1マス控えて打った。
2七歩は4八飛でジリ貧になるとみたのか、それとも別の理由があったのか。
原始棒銀で始まったのに、応酬は細かい。思考が追いつかない。
児玉先輩は10秒ほど考えて、2六同飛と取った。
「お待たせいたしました」
おっと、ここでパンケーキの登場。
3段重ねの熱々バターが乗った、キツネ色のパン。蜂蜜がたっぷり。
皿の周りには、生クリームでハートの模様が描かれていた。
想像していたよりもずっとおいしそう。いただきまーす。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「2五歩」
「4六飛」
んー、おいしい。甘すぎず、バターの香りがよく出ている。
「香子、わたしの将棋観てる?」
「ふぃふぇふふぁふぉ」
っていうか、ララさん、話しかけてる時間ないわよ。15秒経った。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「Shit!! 6四角ッ!」
ふむふむ、生クリームは自家製みたい……じゃなくて、これは5五桂の強要だ。
3六飛は4七桂成、6六角、4六成桂で困る。
「5五桂」
さすがに間違えないか。児玉先輩のポカは期待できなさそう。
私は2枚目のパンケーキにとりかかった。
「……あれ? 大谷さん、もう食べないの?」
大谷さんは、1枚目のパンケーキを半分ほど食べたあたりで、口もとを押さえていた。
「煩悩を食べているような感じが……うぷ」
もったいない。私がそう思った瞬間、サイドからフォークが伸びた。
ララさんが緑色の抹茶パンケーキを強奪して頬張る。
「ふむふむ、ビターだね」
「ちょっと、ララさん」
「いえいえ、拙僧、もう入りませんので、さしあげます」
「あ、じゃ、私にも1枚……」
「閃いたッ! 7四銀ッ!」
テーブルがてんやわんやになるなかで、ララさんは銀をくりだした。
ん? 私はフォークをとめた――悪手では?
6五歩、7三角、7五歩、8三銀、6三銀成でゲームセットな気がする。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「6五歩」
児玉先輩、ここも的確な歩打ち。
「7三角……じゃなくて5五角ッ!」
うお、角を切った。
同歩、6二桂、6四角、8三飛、9一角成、5四桂、同歩。
「5六歩ッ!」
「こじ開けに来たわけか。その勇気は称賛するよ。6六角」
「なぁに気取ってんの。イッチー、内心汗だくでしょ?」
ララさんは軽くウィンクして、5七銀と打ち込んだ。
すごい、両取りだ。9二馬のような一撃が入らなければ、あるいは。
この手を見た児玉先輩は、にわかに押し黙った。
「……なるほど、都ノには予想以上に選手がそろってるわけか」
「Sim!! わたしたちのチームワークは最高だよ」
いや、ララさん、あなたまだ他のメンバーとろくにしゃべってないでしょ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「5六飛」
6六銀成、同金、4七桂成。
桂馬が敵陣にダイブした。児玉先輩は馬に指をそえる。
「6四馬」
うわッ、きびしい。5筋に殺到されちゃいそう。
「わたしのほうが速いよ。5七歩」
「端歩が活きてきた。5三歩成」
5八歩成、7九玉、5三金、同馬、3五角、8九玉。
端を逆用された。と金も角も、そんなに利いていない。
「あきらめたらそこで試合終了ッ! 6八とッ!」
パシーンと大きめの駒音。となりのカップルが、ちらりとこちらを見た。
児玉先輩は動じずに、ゆっくりと盤上に手を伸ばす。
「カフェの対局で、こんな大技が決まるなんてね……これだから将棋はおもしろい」
パシリ
……………………
……………………
…………………
………………寄ってる。
同金は2三金の1手詰め。同玉は5一飛成で、これに2二玉ともどるのは、2三金、同金、同歩成、同玉、2一龍、2二合駒、3二銀、2四玉、3六桂、1四玉、1六香だ。
【参考図】
途中、5一飛成に4一角なら5二銀と打って攻め駒がなくなる。寄りだ。
ピッ、ピッ、ピッ、ピーッ!
「O fim……投了」
「ありがとうございました」
一礼して終了――ララさんは、ぷくっと頬をふくらませた。
「全力で指すことないじゃない」
「ハハハ、ここの財務には優しかったんじゃないかな」
八百長ダメ、絶対。
児玉先輩は、アイスティーで喉をうるおした。
「ところで、ララは都ノの将棋部に入ったの?」
「そうだよ」
「4月に入らないって言ってなかった?」
「Oh……それは話せば長い長い……」
べつに長くないでしょ。私はツッコミをいれかけた。
「というのは嘘でぇ、将棋部と賭けをしたの」
「ララさん、誤解を招くような言い方しない」
「賭け? ……風切が受けたってことは、ハメられたね、ララさん」
ん? どういう意味?
ララさんもよく分からなかったのか、
「なにをハメたの?」
とたずね返した。
「風切は計算の天才だよ。数学的に勝算のあるギャンブルしかやらない。賭けを持ちかけたってことは、最初から勝つ気ようにできてたんだ」
「Não、わたしのほうから賭けたの。正確には聖生が賭けろって言ったんだけど」
児玉先輩の表情がこわばった。ストローからくちびるをはなす。
「のえる? ……聖生が帰ってきたの?」
場所:有縁坂将棋道場
先手:児玉 一朗
後手:南 ララ
戦型:後手原始棒銀
▲7六歩 △8四歩 ▲6八銀 △3四歩 ▲6六歩 △8五歩
▲7七銀 △7二銀 ▲7八金 △8三銀 ▲7九角 △8四銀
▲5六歩 △9五銀 ▲6八角 △3二銀 ▲2六歩 △3三銀
▲5八金 △5四歩 ▲6七金右 △5二金右 ▲4八銀 △3一角
▲8八銀 △9四歩 ▲5七銀 △8六歩 ▲同 歩 △同 銀
▲8七歩 △9五銀 ▲6五歩 △4二玉 ▲6六銀 △3二玉
▲6九玉 △6四歩 ▲同 歩 △同 角 ▲7五銀 △4二角
▲5七角 △5五歩 ▲9六歩 △7四歩 ▲6六銀 △8四銀
▲5五銀 △7三桂 ▲2五歩 △4四歩 ▲7七桂 △6五歩
▲5四銀 △9五歩 ▲同 歩 △7五歩 ▲6五桂 △7六歩
▲2四歩 △同 歩 ▲7三桂成 △同 銀 ▲2二歩 △同 玉
▲2五歩 △3二金 ▲2四歩 △2七歩 ▲同 飛 △3五桂
▲2八飛 △2六歩 ▲同 飛 △2五歩 ▲4六飛 △6四角
▲5五桂 △7四銀 ▲6五歩 △5五角 ▲同 歩 △6二桂
▲6四角 △8三飛 ▲9一角成 △5四桂 ▲同 歩 △5六歩
▲6六角 △5七銀 ▲5六飛 △6六銀成 ▲同 金 △4七桂成
▲6四馬 △5七歩 ▲5三歩成 △5八歩成 ▲7九玉 △5三金
▲同 馬 △3五角 ▲8九玉 △6八と ▲3一馬
まで107手で児玉の勝ち