02 必然の別れ
「お久しぶりね、シリウス!」
淡い水色のドレスの裾をふわりと翻したその人は、大きな木の下にいた男の姿を目にすると、パッと顔を輝かせて駆けてきた。下ろしたままの銀髪がさらりと宙を舞う。
シリウス、と呼ばれた男はその冷たい相好をわずかに崩すと、胸に飛び込んできた華奢なその人を難なく受け止める。「…カルディアは相変わらずだな」と、短く応えて微笑めばその人─────カルディアはかすかに眉をひそめた。
「あら、淑女を前に『変わらない』なんて言うのは失礼ですわ」
つん、とそっぽを向いてカルディアは男─────シリウスの腕の中から離れる。「レディに対する社交界の流儀を理解していないのはこの人ぐらいね」とカルディアは自分の認識が確かなことを確認する。…でも。
「…いや、俺はそういうことが言いたいわけでは」
少し戸惑って狼狽えるこの男が、愛しい。
赤くなった頬を隠しながらカルディアは「分かってるってば」と言い、今度は自分からシリウスの首に腕を回して抱きしめる。
「カルディア」
「会いたかった……」
よく締まった首筋に顔を寄せると爽やかな香りがカルディアを満たす。シリウスはなされるがままになり、微動だにしない。カルディアが離れていくまでいつもそうだ。
しかし、シリウスはそう簡単にカルディアを抱きしめ返すことはできない。なぜなら、どれだけ互いを想っても覆せないものがあるからだ。
…カルディアはただの少女ではない。
『カルディア・ハーネクリス』というリンドベルク王国の王族であり、次代の王の証である “ 宝珠 ” を授かった絶対にして唯一の存在。それは王に次いで尊ばれる立場にある。
対して、シリウスはいち貴族の跡取りだ。ただし、王家とは公然の秘密といえる特別な繋がりを持った “ ローダント子爵家 ” の。
『暗部を担い、様々な貴族が一度は世話になったことのある “王家の番犬” は、暗殺、諜報、隠蔽工作を得意とし、常に王の側に仕える “影の忠臣”。』
「ローダント子爵家」と貴族が聞けば十中八九、「あぁ、あの家ね…」と言葉が濁る。リンドベルク王族を至上とし、主の障害になるものならば切り捨てる。「後ろ暗い噂ばかりの一族」だと指を指され、その一員である自分は忌避されながら生きていくのか、と物心ついた頃のシリウスはそんな風に考えていた。
確か、あれはシリウスが “ローダント” として “初仕事” を終えたばかりで疲れきっていた時のことだと思う。王宮の裏庭にひっそりと、だが、しっかりと根をはる大きな木の下で出会ったのだ。
『…どうしたの?こんなところで』
不思議そうにシリウスを見つめる少女を、柄にもなく「きれいだ」と思ったのは初めてだった。極上の宝石のような青い瞳、さらりと流れる銀の髪。全てが清らかで、思わず手を伸ばしかけたそのとき、彼女が誰なのか、すぐにわかってしまった。
『申し訳、ありません……』
彼女は、自分が触れてはならない。
何もかも、シリウスとは違う。
でも。
伸ばしかけた手はしっかりと彼女に取られた。
『ここはあなたが来たってだれも咎めないのよ。私だって、逃げたいときがあるもの』
どうして、と小さく呟いた声は彼女に届いていたらしい。彼女はふっと表情を曇らせる。
『…私は、』
『ディーさまー!カルディアさーまー!!!』
はじかれるようにシリウスの手を離した彼女は『ここに居ていいからね』と言い残して呼ばれた方へ駆けていく。
そんな幼い日を思い出したシリウスはカルディアの肩をそっと掴んで、自分から離した。
「…カルディアは軽率な行動をするべきじゃないよ」
本当は、離れないでほしい。シリウスがちゃんと抱きしめて、そう言いたいけれど。
「シリウスはいつもそうね。私の気も知らないで」
2人共、ちゃんと「好きだ」と伝えたことはない。それでも、寄り添いたいと思ってしまうのだ。
「カルディアこそ。…公務の方は大丈夫なのか?」
現在、王宮には国内外から多くの貴族が集まっている。もちろん、カルディアやその姉妹たちの伴侶を決めるために。
カルディアの父である国王が、早急に娘の伴侶を決めようとするのには理由がある。国王として、次期王となる娘の治世を盤石にするために。そして、病に伏せる王妃のために、夫として娘たちの美しく幸せな花嫁姿を見せたいのだそうだ。
しかし、“王女の婚姻” という政治的な思惑が交錯する繊細な案件は時間がかかる。2ヶ月かかって、ようやく第三王女リリアーナの王国内の降嫁先が決定したばかりだ。それよりも王位継承権の高い第二王女ミルフィアはもちろん、カルディアの件はさらに難航するだろう。
「今はまだ大丈夫よ。でも、ミルフィアの嫁ぎ先が決まってからは…ちょっと想像できない」
それに、とカルディアは目を伏せた。
「少し忙しくなるから、こんな風にシリウスと会えるのはもう終わりかもしれなくて」
直接的なカルディアの言葉に、衝撃を受けている自分がいる。幼い頃に出会ってから10年。何度か足を運ぶうちに、いつの間にか習慣になっていたカルディアとのひととき。『肩入れするものじゃない』と一族たちに言われても『そんなことはない』と流してきた結果だが、カルディアに惹かれたことを後悔しない。
しかし、この小さなひとときを大切に慈しんできた時間は、もう終わる。心は嫌だと叫び、胸は痛む。でも、いつかは来ると知っていた胸の痛みだ。今更、シリウスが傷つくことはない。
「そうか…。俺も、…“ローダント” としてやるべきことが増えてる」
カルディアの為に、一番できることは何なのか。
「……そう」
大切にしたくて、だからこそ。
「だから、さよならだ。カルディア」
カルディアの頰に涙が伝い、とめどなく溢れて地面に落ちた。シリウスは、カルディアの手を取って初めて自分の方へ引き寄せる。そして、その勢いのままに強く抱擁した。
「…ありがとう、カルディア。どうか幸せに」
肩口に顔を近付け、カルディアにささやくようにして言った。
「なん、で?シリウスがいないと、わたしは、…」
涙声でそう訴えられると困る。シリウスはポンポンと軽く頭を撫でると、真正面に体をずらして近距離からカルディアを見つめた。
「…君に必要なのは俺じゃないんだ。君をちゃんと守れる人が、ずっと側になくてはならない」
「シリウスだって、側にいてくれるじゃない!」
「俺は “ローダント” で、それが義務だから」
「だったら…!」
「君を、心から愛してくれるひとじゃなきゃダメだ」
「…私はシリウスのことが、ずっと!」
その先の言葉を紡ごうとしたカルディアの唇を優しく手で覆い、かぶりを振った。それ以上はいけない、と。シリウスはカルディアから数歩、距離を置いた。
「君に会えて、俺は幸せだった。……これまでと、そしてこれからのご無礼をお許しください。あなた様に忠誠を以ってお仕えいたします、カルディア王女殿下」
「カルディア王女殿下」へ忠誠を誓う、1人として地面に膝をつき、騎士のような礼をとる。
「い、や…。いやよ、シリウス…」
失礼します、と深く礼をしてシリウスはカルディアから背を向ける。
ここに来ることは、2度とない。そう思いながら。
◆◇
…カルディアは去っていくシリウスの背中を届くはずのない手を伸ばして追う。だが、涙でその背中はぼやけてよく見えない。
シリウスは、ずるい。カルディアから抱きつくことはあったが、彼は一度だって腕を回してくれることはなかった。
…だというのに、最後にあんなにきつく抱きしめられた。
「っ…!」
迷うことのない歩み、遠ざかっていく姿。
どうしようもない想いを燻らせたままのカルディアは、ドレスの裾が汚れるのも気にせずにその場にへたり込む。顔を覆いながら、まるで昔のように泣きじゃくった。
「…シリ、ウスっ…、シリウス…!」
その一週間後、第二王女ミルフィアの降嫁先が決まった。