未練なく
ある年の冬、自分の誕生日、私は突然
この世を去った。
まだまだ寿命が尽きるのには、余りにも
早過ぎる年齢。
平凡に生きてきた。今まで良くも悪くも
なく生きてきたつもり。
けれど、突然私の命の灯火は消えた。
いつもの様に会社に行くため、駅へ向かって
歩いていた。
小雪が舞い、傘を持つ手がかじかむ。
「ハアーっ」 ため息と共に息を吐く。
真っ白な息。
ーー急に道路を走っていた車が、スリップ
を起こし、私めがけて突っ込んできた。
避ける間もなく、歩道をあるいていた
私に、その車は滑る様に向かってきた。
物凄い音と衝撃だけが、生々しく私を
包む。
誰かの大きな声がする。何を言って
いるのか分からない。
車に挟まれている感覚、痛い……。
横たわる私に、誰かが声をかける。
返事をしようとしても、声が出ない。
目を開けようとする。よく開かない。
やっと開いた右目に映ったものは、見知らぬ
男の人や女の人。
口々に何かを言っているが、聞こえない。
私は涙を流しているのか、何が流れて
いるのか、分からないが、何かが頬を
つたう。
空はどんより重い雲が広がり、雪が
ヒラヒラ舞い落ちる。
気がついた時、私は不思議な体験を
していた。
病院のベッドの上であろう。私が寝ている。
しかし、それを見下ろす私がいる。
「ああそうか。死んだのか」 驚く程
冷静にそう思った。
ベッドの脇にいるのは、多分病院の
先生だろう。白衣を着ている。
それと……。その横には私の母。
ベッドの横の椅子に座り、私の手を握り
その手を自分の頬に押し付けている。
涙は流していない。
泣く訳などない。あの母が、私の為に
泣く訳など……。
私は、母と二人で暮らしている。
父はとっくに他界した。
母は、一人で私を育てた。いわゆる
母子家庭の苦労人。人当たりはいい。
実際、酷かったが。
小学生の頃、私はよく母に叱られた。
「何故あなたはこんな事ができないの」
何かにつけて、厳しく言われ、手をあげ
られた。
母が嫌いだった。食べさせてくれている。
それは有難い。しかし、それ以外の事は
おざなりだった。
掃除、洗濯、食事の用意。忙しい母に
代わり、私が、それらをこなしていた。
学校が終われば、家に帰り部屋を片付けて
洗濯物をたたみ、夕飯の買い物へ行く。
お金は台所の茶ダンスの引き出しに
入れてある。
母の希望が書かれた買い物のメモと
一緒に。
余計な物は買えない。必要な物のみ、
母に頼み買ってもらう。
母の仕事は昼と夜。何をして働いている
のか、興味はなかったし、母も教えようと
しなかった。
けれど、いつも朝方帰る母は、お酒と
タバコの臭いがしていた。
ドラマなどでよくある光景。夜の仕事で
子供を養う。
私は冷めた目で、母を見ていた。
私達の暮らしている家は、台所と
リビング、部屋が二つ。お風呂もある。
父が遺した家。そこは恵まれている。
母は、私を高校へ通わせた。せめてとの
事らしい。嫁に行った時に、高校を出て
いなければ恥ずかしいと。
世間体を気にする母は、周りから見れば、
娘の将来を考えてくれる母……。
母と私は、よく喧嘩をした。高校に
通いながら、アルバイトをして、家に
生活費を入れている私に対して、家の
事を疎かにしている。
子供のくせに生意気だ。いつも些細な理由
の喧嘩。
私には母が理解できない。
「何の為にあなたをここまで育てて
きたと思っているの?」 母が私を責める。
「私だって、一生懸命にやっている
じゃない。毎晩お酒の匂いをさせて
帰って来ないでよ」
喧嘩は毎日の様に繰り返された。
理解できないのはお互い様。
育ててくれた親に対して、有難いと思う
反面、何もかも私に押し付けてくる
母。
自分はお店だかの男の人と、遊んだり
好き勝手やっているのに。
何故私だけが。やり切れない毎日。
しかし、母に頼って生活している以上、
大きな事は言えない。
私は、自分の気持ちを胸の中で押し
殺す。
やがて、私は高校を卒業し、ある会社に
就職した。
これで少しは母に対して物を言える。
そんな思いでいた。
けれど、私が働き出してしばらくして、
母が突然仕事を辞めてしまった。
理由を聞いても答えない。
何を考えているんだ。怒りを覚えた。
やむなく、今いる家を引き払い、アパート
へ移った。
私の給料と、母の退職金では、満足に
暮らせない。
なるべく私は節約をして生活した。
しかし母は、どういう訳か、贅沢にも
高いお酒を毎晩飲んだ。
冗談じゃない。どういうつもりだ。
私は母に問い詰めた。
「あんたを苦労して育ててきたんだ。
これくらいいいじゃないか」
直ぐに反論できない。確かにそうだ。
でも、私だって母の為に自分の好きな
事を我慢してきた。母の言うとおり
生きてきた。就職したからといって、
満足にお金などもらえない。
何故母は分かってくれないのか。
母に対して募る想い……。
時は流れ、私もようやく満足いく仕事が
できる様になってきた。
それとは裏腹に、母との関係は険悪な物に
なっていく。
「私、今日遅くなるから。夕飯は
いらないよ」 母に告げて家を出る。
夜帰宅すると、母は物凄い剣幕で、
「何でこんなに遅いのよ! 夕飯作って
待ってたのに」 そうまくし立てた。
私は朝、きちんと母に告げたはず。
聞こえていなかったのか。
いや、きっと嫌がらせだ。
腹が立った。それからもしばらくそんな
事が続いた。
何故私の言った事を聞いてくれないのか。
母と距離をおくようにした。
必要以上は話をしない。
ある時、母が台所で洗い物をしていた。
ガシャーン。食器の割れる音がした。
母は黙って食器の破片を片付ける。
またある時、ポットのお湯をカップに
ついで、手を滑らせたらしく、カップごと
床に落としてしまったらしい。
「熱い!」 母の声に、私は面倒臭い
面持ちで、リビングのソファから立ち上がり、台所に向かった。
床にカップが落ちていて、水浸しに
なっていた。
「もう!何やってるの?」 私は母を
心配するどころか、母をなじった。
呆然と立ち尽くす母をよそに、私は
床を雑巾で拭き、カップが割れていないか
確かめ、流しに置いた。
「本当に迷惑」 母は言葉を返さない。
私は自分の部屋に行った。
昔、私が些細な事で失敗した時、
母は私を責めた。
「何でこんな事も……」 口癖の様に
言われた。
腹いせ。そうなのかも知れない。
立場が逆転しつつある母と私。
私は母に仕返しをしている……。
そんな矢先、私は事故に遭い、この世を
去った……。
病室で母は先生と何かを話している。
何を言っているのか聞こえない。
先生が首を横に振った。
「もうダメなんだな、私」 心の中で
呟いた時、頭の中に『己の行いを思い
出したかな』 声が響いた。
私は周りを見回す。誰もいない。
気のせいか。
呑気に思った。
人は死ぬ。それは分かっていた。
死後の世界がどうなのか、知る由もないが、
世間で言われている、お迎えだの、
川を渡るだのがない。
声の事は別として、私は何故か病室から
出られない。
上へと泳ぐ様に行こうとするが、何かに
引っ張られている様で、行けない。
上から見下ろす自分の姿、痛々しく包帯
を巻かれていて、身動き一つしない。
そんな姿を見てはいたくないのだが、
どうしても動けない。
下を見る。こんなあっさりと、本当に
呆気ない。
病室を出て行く先生に、母が挨拶をし、
再び椅子に座り、身動きしない私の
顔を見つめる。
よく見れば、母も歳をとった。顔や手に
シワがある。髪の毛にも、白い物が
目立つ。
母は、私に向かって何かを話している
ようだが、聞こえない。
しばらくして、「気は済んだかな?」 また
声がした。
私はパッと横を向いた。今まで気が付かなかったのか、白い布らしき物をまとい、
長い白ひげを生やした老人が、私に
向かってニコニコ話かけてきた。
ああ、お迎えか。私はそう思い、
「ええ、まあ……」 曖昧に返事をした。
「本当に?」 私の目を覗き込む様に
問いかけてきた。
何を言っているのか?どうもこうも、
私は死んでしまったのだから、仕方ない
でしょ?
怪訝そうな顔をした。そんな私の顔を
見てその老人は「あんたはまだ生きて
おる。正確には彷徨っておる」 唐突に
言い出した。
「彷徨っている?」
「そう。未練と言うものかの。 その
未練が、あんたをここにとどめておる
のだよ」 未練?ああ、未練か。沢山
ある。死にたい訳ないじゃないか。
結婚だってしたい。やりたい事もある。
けれど、あの母とまた暮らす事を
思うと、嫌気がさした。
喧嘩の毎日を繰り返すのか。それに、
今働いていない母を残し、結婚など
できるのか。でも、死ぬのも……。
そんな事を考えていると、 「ちょっと
急がねばならん。まあ、一緒に来るが
いい」 老人は私の手を取り、上へと
上がって行った。
一体何なのか。私は頭の中を整理しようと
したが、何も考えられない。
光の中をただ、老人に手を引かれ進んで
いた。
そして、大きな赤い門が見え、その前に
降り立った。
老人は私に、「さあ、行くがいい」 そう
言うと、どこかへ消えてしまった。
一人残された私は、唐風の大きな赤い
門の扉押し、中へ入った。
ギギー。重そうな音がした。
門の中は明るく、広い。
私は真っ直ぐ歩いた。後ろで門が閉まる
音がした。
しばらく進んだが、誰もいない。
不安に思ったけれど、何故か戻ろうとは
しなかった。
進んだ先は行き止まりになり、壁が
あった。そして、小さなドアがあった。
私はドアを開けて中に入った。
少し広めの部屋。中央には大きな石
らしき物が二つ置かれていた。
近付いてみると、私の腰くらいの高さ
の石で、形よく丁寧に削られていた。
石の上に窪みがあり、水が張られていた。
二つとも同じ作りになっている。
私は石の前まで行き、水が張られている
窪みを覗き込む。
左側の石から覗いた。そこには、私が
入院している病院の病室が見え、先ほど
と同じ光景があった。
母が私に付き添っている。
私は次に右側の石を覗いた。
幼い日の母と私の姿が見えた。
何か喧嘩をしているらしい。言い争いを
している。
私は目を背けようとした途端、次の
場面に変わった。
自室で眠っている私がいる。
母が部屋に入って来て、私の布団の
横に座った。
そして、おもむろに私の髪の毛を撫でた。
そのまま頬に手を当て、そっとさする。
「ごめんね……」 一言呟いた。
さっきまで声など聞こえなかったのに、
何故今は聞こえるのか。
私はとっさに最初の石を覗いた。
母は眠っている私の手を握り、片方の
手で私の髪の毛を撫でていた。
何も言わず、強く私の手を握る。
いつもいつも喧嘩ばかりしていたのに。
何故だろう、涙がこぼれた。
後から後から、拭っても涙が流れる。
死んでも、涙は流れるのか。
ふいに、後ろに何かの気配を感じ、
私は振り返った。
先ほどの老人ではない。白いドレスの
様な物をまとい、黒く長い髪の毛を
肩までながした、端正な顔立ちの
女の人が立ったいた。
そして私に向かい、「それは、現在と
過去を映す鏡です」 そっと囁いた。
現在と過去、鏡……。私はうつむく。
「後悔があるから、未練が残るの
です。 その未練がある故、行き場を
無くす。 あなたは今、その狭間に
あります」 私が、天国だか地獄だかに
行けないのは、未練のせいだと?
そう思うけれど、言葉が出ない。
「いがみ合いをしながらも、共に暮して
きた母君を遺し、あなたは天界に
行けずにいます。 未練を無くさぬ限り、
どこへも行けません」 優しい中にも
厳しさのある、よく通る声で、その
女の人は言った。
「未練……」 一言呟くのがやっと。
未練とは何だろ。先ほど病室で出会った
老人も言っていた。
けれど、この女の人が言う未練の
言葉は、少し違う意味があるように
思えた。
死にたくないとか、そんな事では
ない様な。
小さい頃から、母に振り回されてきた。
喧嘩ばかりして、母に叱られ。
母に抱きしめられた記憶もない。
優しくされた事も……。
「母君はあなたを案じています。 厳しい
世の中を生き抜く為、自分でできる
事はさせたい。 人に頼らず生きる
為に、鬼にもなり、しかしあなたを
守り……。 母君は、あなたの為に全てを
捧げてきました。 色々思う事もあるで
しょう。 けれど、母君なりにあなたを
想っています」
いきなりそんな都合のいい言葉を並べ
られても、信じられる訳ない。
頑なに思うが、確かに母も苦労をし、
私を育ててきた。嫌な事も沢山あった
はず。
でも、素直にそれを理解できる程、
私はできた人間ではない。
だけど……。
さっき見た光景が目に浮かぶ。
母の姿、母の言葉。
「あなたの涙に偽りはありません。 母君を
大切に思っているのでしょう。 心の
どこかで、大切に思っている。 それゆえ
未練が生じる」
「では、どうすれば……?」 私は
食いつく様に問いた。
女の人は、目を閉じ「人の寿命は、
残念ながら変えられません。 あなたの
寿命は尽きました。 けれど、未練を
無くさねば……。 あなたに少しの時間を
差し上げましょう。 母君に対して、
何か遺す言葉があるでしょう。 そんな
ご様子かと。 それを伝え、未練を
無くすのです」 そう言い終え、女の人は
私に近付き、右手を私の頭に乗せた。
母に何を言えと言うのか。言いたい事
など、ない。
私の未練は違う。
そんな事を考えながら、私は意識を
無くした。
身体全体が痛い……。
私は目を覚ました。
目を開くと、白い天井が見えた。
何かに手を強く掴まれている。
私は掴まれている手を離そうと、手を
動かした。
「あ、気がついた……?」 大きな母の
声が耳元で響いた。
私は自分の本体に戻ったのか。
不思議な感覚。
私は先ほどの女の人の言葉を思い出す。
未練を無くす……。
私はチャンスを与えられたのか。
色々な事を思い出す。
そして、母の手を揺すり「お母さん、
ありがとう……」 始めて母にそう
言った。
何の言葉もない"ありがとう"それだけの
言葉しか出てこない。
母に対する思いも全て、きれいな
思い出になるのか。
いがみ合い、喧嘩した事さえも。
私は再び目を閉じた。
母の慌てた声が聞こえる。
「行かないで」 そう言っているのか。
人の死など、本当に呆気ない。
遠のく意識。
私はあの女の人の元に戻った。
女の人は、優しく私に語りかける。
「未練と言うものは、些細な事です。 大きくもあり、小さくもある。 様々な思いが
おありでしょう。 あなたは母君に感謝を
していても、素直になれず、寿命が
尽きた。 けれど未練があなたを迷わせ
た。 少しの時間、全うして下さい。 あなたは天界に行くべき人です。 しかし、
思わぬ未練が、あなたの時間を変えた。
難しいですね……」
そう微笑むと、また私の頭に手を乗せた。
私の身体が溶けていく様に、スーッと
消えて行く……。
私は心が晴れていく様に感じた。
私はどうなったのか。ふっと意識が
戻り、身体が痛む。そしてそっと
目を開いた。
母の顔が目の前にあった。
疲れ切った顔。泣き腫らした母の顔。
私が目を覚ましてホッとしたのか、
母は椅子に座り、私の手を両手で
握った。
自分の頬に私の手を押し付け、涙を
流した……。
言葉はない。しかし、母の気持ちが
伝わってくる。
私の少しの時間は、どのくらいあるの
だろう。そんな事は分からない。
人それぞれ人生がある。
どの様に生きるか、自分次第。
けれど、生きている間、後悔はなるべく
ならしたくない。未練なく死んで
いきたい。
とても難しい事だけど。
手から伝わる母の温もり。
偽りのない温もり。
死んだはずの私は、未練のおかげで
チャンスを与えてもらえた。
大切な言葉を言えなかったから。
この未練はまた意味が違う未練なの
だろう。




