09
約束さえ取り付けてしまえばこちらのものとばかりにリチャード翁はにんまりと笑った。
「では、君の教育係を紹介しよう」
そこであらわれたのがコウで「ええーっ、これ? タイプじゃないかも」が、彼女の第一声だった。死にたてのほやほやで血気盛んだった僕の言葉に棘が混じる。
「大丈夫なんですか? こんな小娘が教育係で」
「ふん!」
「わっはっは。早速、気が合ったようだな。では、ミズ・コウ、後は任せたよ。タク、しっかりな」
感情の機微に疎いのか、それとも敢えて負の側面をみようとしないのか、とにかくそう言うとリチャード翁はイメージを消した。
「あたしはコウ、ビシビシ鍛えてあげるからね」
「変わった名前だね。どんな字を書くんだい?」
「呼び名がないとこの世界に慣れてないあなたが不便だろうから暫定的につけただけよ。どんな字だろうと関係ない」
「そうか、僕は――」
「知ってるから自己紹介は要らない」
最悪の出逢いとなった気まずさが飛ばし屋技能修得の弊害になるかと思ったが、意外にもそうはならなかった。なにしろ既成概念などまったく通用しない事案なのだ。コウがそう言うのならそうなのだろうと受け入れるしかなかった。そして彼女自身にも教育係としての自負と責任感はあったようで、高校、大学と物理が大の苦手だった僕に、時に厳しく、時に諭すように我慢強くレクチャーしてくれた。
「うーん……」
「まだ、わからない?」
「なんとなく理解できそうな気もするんだけど――」
そんな時、コウは、彼女の意識を僕のそれと同期させてまで理解させようとしてくれた。僕は彼女を小娘と呼んだことを痛く後悔したものだった。
精神世界で、その上、イメージで遣り取りされる情報を言葉にするだけの語彙があれば僕は物書きにでもなっている。コウに教えられるままの記述に努めるが、幾らか誤謬があるやもしれない。
電子と出逢っで対消滅する陽電子は、時間の矢と反対方向へ進む。つまり過去に遡ることになるのだ。しかしながら素粒子レベルでは未来の情報を伝えることができない。ところがレベルを陽電子を持つ原子、すなわち反物質にまで引き上げることができれば話は違ってくる。これが次元を飛び移る原理となっている、とコウは言った。『不安定であるからこそ電荷の反転も可能なの、それにはこうするの』と教えてくれたのは、とても言葉では言いあらわせない観念的なものだった。それでもなんとかバルクと三次元宇宙を飛び移るだけの知識は身につけることができた。言うなればこれは〝車の運転〟みたいなものだ。エンジンやトランスミッションの構造原理を理解してなくたって目的地に着くことはできる。
「レッスン終了よ、まあ仮免許といったところだけどね」
となれば次は路上教習が待っている。
「バレないかな?」
「タクちゃんはね」コウは僕を安心させるよう穏やかな笑顔で言った。「三次元宇宙では二と小数のつく次元の不安定な存在になるわけ。そうでないと電荷の変換ができないでしょう? でも心配しないで。そもそも三次元宇宙の住人が視覚で立体を捉えたりなんかできないんだから。欠損部分は脳が勝手に補完しちゃうから、誰もタクちゃんの不完全さに気づいたりなんかしない。つまり、飛ばし屋になるには整数次元の住人は不向きなの。タクちゃんみたく陽子も中性子も電子も持ってるけど、その構成粒子が虚数のスピンでなければならない。意識だけここに残して抜け殻のタクちゃんを操作するようなものだと言えばわかる?」
全然、わからない。それでも僕は比較的危険度の少ない悪党、コソ泥やネコババ犯相手に経験を積んでいった。コウの言った通り、僕の外見に驚いたり怪しんだりする者はひとりとしていなかった。
「あのさ」
僕は早速飛ばし屋になった目的のひとつを果たそうとしていた。
「なあに?」
「いままで僕が行った三次元宇宙は、僕が死んだ期日以降ばかりだったよね? それ以前には行けないのかな。ほら、僕は死んじゃう前にも悪党は居たわけだし」
「あらら、ディックから聞いてないのかしら」
「なにを?」
「原因はハッキリしてないけど、飛ばし屋さんが行ける三次元宇宙は本人が死んだ日より後に限定されているみたいなの。でも見ることならできるわよ」
「そうなのか……」
だとすれば幸を救うことはできなくなってしまう。
「ヒトラーでも弾き飛ばしてやろうと思ってる? 気を落とさないで。ディックのことだからそのうち改善してくれるわよ」
仕方ない、それまで待つとしよう。
「だけど、だよ」
「ん?」
怪訝そうにイメージの小首を傾げたコウに僕は言った。
「意識体である君たちなら三次元宇宙がどうなろうと関係なくはないのかい? そこまでして存続に拘る理由がよくわかんないんだけど……」
「ちゃんと説明してあげたでしょう? 聞いてなかったの? 存在を置く次元がどこだろうと宇宙は共有のものだって教えてあげたじゃない」
「あ……、ごめん」
難解過ぎて思考停止に陥っていたのかもしれない。
「それにね、影をなくすということは記憶をなくすのと同じなの。過去を持たない意識は存在に価しないわ」
「ということは、君たちもかつて三次元宇宙で肉体を持ってたんだよね? ディックさんはあっちで何をしてたひと?」
「職業はラジオ修理で、趣味は錠前破りにドラム演奏に絵画。他にも幾つか言ってたけど忘れちゃったわ」
「じゃあ、君は?」
「当ててごらんなさいな」
「本当はもっとおばちゃんの理論物理学者とか?」
「ブッブー! ハズレー」
声の調子ほど楽しそうではないコウに、この時の僕は気づけないでいた。