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「206号室よ」
「ああ。憶えてる」
マンションのゲートをくぐったところで車を下りた高嶋は、奈津子から部屋の鍵を受け取った。
「部屋に行ってて、車を停めてくるわ」
「早いとこ頼むぜ」
運転席に回った高嶋は、ドア越しに奈津子の太腿に手を這わせる。
「すぐよ、冷蔵庫にビールが冷えているわ」
高嶋は野卑な笑いを浮かべ、奈津子の車が地下駐車場に下りて行くのを見送った。そして呟く。
「ビールに若い女――。堪んねえな。天国から地獄とはまさにこのことだ」
高嶋は上機嫌で階段を上っていった。
性急な房事の後、事の一部始終を奈津子から聞かされた高嶋は、思いもよらない仕儀に凍りついていた。
「ねえ、お腹空いてない? なにか作ってあげましょうか」
一方、大望を果たした奈津子の表情からは能面の冷たさが消え去っている。
「あ、ああ……。頼む」
「少し待ってね。先に汗を流してくるわ」
予想外の邂逅と棚ぼたの据え膳に、一度は狂喜した高嶋だったが、いまや、どうやってこの場を逃げ出すかだけが彼の思考を占めていたようだ。奈津子が部屋を出ると同時にこそこそと身支度を始める。玄関に出た高嶋は、下駄箱の上に置かれた車のキーをひっ掴んで地下駐車場へとひた走った。
「冗談じゃねえ。この上、ひと殺しの共犯まで疑われた日にゃあ、あそこへ逆戻りじゃねえか」
アンサーバック式のワイヤレスキーは、ハザードランプの点滅で車の在処を知らせてくる。奈津子の小型乗用車はすぐに見つかった。
残暑の厳しい年だった。エンジンを始動した堀田は反射的にエアコンのスイッチを入れる。
プシュ!
「おい、まさか……」
息を切らしていた高嶋の肺は、一瞬で致死量のシアン化水素を吸い込んでいた。焼け付くような痛みが胸を襲う。彼を呑み込まんとする暗渠は、地下駐車場の闇より更に深く暗かった。
「逃げちゃったか……」場面は再び奈津子の部屋、裸体にバスタオルを巻いただけの彼女がポツリと呟く。「……バカな男」
再び表情を失った奈津子の陶器のような頬を一条の涙がつたった。
――贖うべき罪からは誰も逃れられるものではない。
紀元前、コルドバの丘で語られた言葉が僕のなかで重みを増していた。
「あ……悪党らしい最期よね。いい気味だわ」
コウが言った。それが強がりであることは声の調子でわかる。
「そう思うかい?」
「だって、そうでしょう? 高嶋だけじゃない。稲本だって――、堀田だってそうよ。あまりにも女性をバカにしてるじゃない」
「それについては同感だな」
誰に媚びるつもりもないが僕はこう考える。この世に神がいるとすれば、それは命を産み出すという奇跡を行える女性ではないだろうか。その寛容さにつけこみ、あまつさえあんな狼藉まで働いたとなれば神罰が下って当然だ。杓子定規な三次元宇宙の法解釈なんか関係ない。殺人より重い裁定が下されるべき罪は確実に存在するのだ。
「奈津子はどうなっちゃうの?」
「例の遺書が余計だった。あれには稲本たちの殺害方法が記されていた。車のキーが直接的にも比喩的にも事件解決の鍵になっていたことに警察が気づけば、疑いを向けられる人物は自ずと絞られてくる。奈津子はこの三日後に逮捕される」
「そっか……」
「そこで君に訊きたい。事件の渦中にいてただひとり生き残った奈津子、僕が弾き飛ばすべきは彼女なんだろうか。君が賛同してくれるなら僕はそれに従う。ただし、そのタイミングは堀田と高嶋が死んだ後を選ばせて欲しい」
三次元宇宙の未来がすべて決まっていることは特殊相対性理論が証明している。それを量子論の都合良さで書き換えていくのが僕の仕事なのだが、今回だけはどうにも気乗りがしない。
「うーん……、そうね。今回は該当者なしでいいんじゃない?」
「ありがとう、助かるよ」
資本主義は経済の発展を生み出したが、反面、騙される方が悪いといった風潮を社会に根付かせた。ごく普通の会社員だった男が詐欺集団を運営し、魂の救済にも値段がつけられる。誰かが天塩にかけて育てた会社を乗っ取っても企業買収と名を変えれば合法、そんな悪党だらけの世界で一度にひとりしか弾き飛ばせない飛ばし屋に存在意義をがあるのか。
「そんな辛気臭い顔しないの。そうだ! タクちゃん、ここのところずっと働き詰めだったし休暇をあげちゃう」
「休暇か……」
行動原理は自らが納得できるか否かのみ。世間の常識は俺の非常識、と公言して憚らない男がいた。時代にそぐわない生き方は周りに受け入れられ難く、実際、それで苦労もしたと思う。だけど彼はそれを貫き通していた。
「父に逢ってこようかな」
「いい考えね、そうなさいな」
最後の鱗粉が消えるまで、僕はコウの消えた空間を見つめていた。
第一部 完
第一部完結です。第二部は平成25年10月21日より連載を開始します。




