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「知ってたのっ!」

 我に返った奈津子はバッグに手を入れ、なかを探る。、

「ああ。君が入社試験に来た時からね」

「なのになぜ……。両親を亡くした哀れな娘に情けをかけたつもり? そんなのいらないっ!」

「違う、償いがしたかったんだ」

「どんな償いをすれば死んだ人間が戻ると思ってるのよっ」

 バッグに差し入れた手が、ようやく目当ての物を探し当てる。次の瞬間、奈津子の右手にはフォールディングナイフが握られていた。来たるべき日のためにとアウトドアショップで買ったものだった。だが、収納されたブレードが出てこない。

「どれ――」

「近寄らないでっ!」

 奈津子は近づこうとする高嶋に向けバッグを振り回す。中身が床に散乱した。いまにもボディガードが駆け込んでくるのではないか、奈津子は気が気ではなかった。

「猪田は帰した」

 高嶋はボディガードの名を挙げ、奈津子の手からナイフを奪い取る。そしてブレードを引き出した状態で奈津子に返した。

「え?」

「君の言うとおりだ。亡くなったひとはなにをしようと戻ってこない。俺を刺して気が済むならそうしてくれ。だけど君が刑務所に入ったら尚志君はどうなる」

「な、なにを言ってるの」

 奈津子の声に困惑のビブラートがかかる。

「四年前、尚志君を施設に入れるよう三島さんご夫妻に勧めたのは俺だ。彼には自分がどこにいるのかさえわからない状況だ。こう言っては失礼だが決して裕福ではない三島さんの奥さんが働きに出られないのも彼がいるせいだ。奈っちゃんだってそうだろう。尚志君を置いて嫁になんか行けないと考えている。あのままでは進学だって諦めていたんじゃないのか」

「あのお金は……、あなただったの」

 数百万かかるサナトリウムの入所費用を養父母がどうやって工面したのか、奈津子は聞かされてなかった。月々の自己負担金だってばかにならない。施設とは名ばかりの窮屈な部屋だったら兄を連れ帰ってアパートでも借りてふたりで住もう。たったひとりの血を分けた兄弟のためなら水商売でもなんでもやってやる――初めて尚志を見舞った時、奈津子の決意を秘めた眼は、僕にそう語っていた。だが、尚志にあてがわれていたのは広い個室と面倒見のいい介護士の女性だった。

 復讐の舞台までが憎むべき男に用意されたものだと知り、奈津子は泣いた。

「竹下さんが亡くなったのを聞いて取り返しのつかないことをしてしまったことに気づいた。葬儀の場で、俺はご両親の霊前に誓ったんだ。あなた方のお子さんを絶対に不幸にはさせない、と」


「タクちゃん、せいかいっ! だめよ、高嶋社長を弾き飛ばしたりしちゃあ」

 バルクではコウも鼻をすすっていた。


 流れ出る涙を拭おうともせず奈津子は泣き続けた。彼女の手を離れたナイフは分厚い絨毯に落ちて突き刺さっている。

「飲んで、落ち着くから」

 奈津子の手を開き、高嶋が小さな錠剤を乗せる。

「鎮静剤だよ。おっと、水がいるな」

 部屋備え付けの冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出すと、かいがいしくも高嶋はグラスに注いで奈津子に渡す。

 想像してみてほしい。思いがけないなりゆきに動揺し、極度の緊張を強いられる。そして緩和というコントラストで締め括られる。それらが短時間に立て続けに起これば、自分の置かれた状況を冷静に判断できる人間などまずいない。錠剤を嚥下した奈津子はグラスの水を飲み干していた。

 三次元宇宙時間でおよそ一時間後、広いベッドの上で高嶋に組み敷かれ、矯正を上げる奈津子の姿があった。


「いいとこあるじゃない、高嶋社長。よく見れば背だって高いし、案外いい男よね。タイプかも」

 最初にこのシーンを見た時、僕もそう思っていた。

「高嶋が奈津子に飲ませたのはMDMA、通称エクスタシーと呼ばれるパーティードラッグだ」

「えっ!」

「MDMAは、セロトニンを過剰放出させることで使用者に多幸感をもたらす。他者への親近感、共有感も強くなると言われている。気が変わった奈津子に寝首を掻かれては堪らないとでも考えたんじゃないのかな。とことん用心深い男だよ」


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