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「明日は十六時半に井ノ口銀行事業支援部長との会見が入ってます。代理店希望三社との面談は午前中に済ませてもらわないといけません。ですから、ええと……」折り柄のパンツスーツに身を包んだ奈津子が、表情豊かに翌日のスケジュールを読み上げている。「お疲れのところ申し訳ありませんが、朝食は七時半までに済ませて下さい。六時半にこちらへお迎えに上がります」
「ははは、奈っちゃんは人使いが荒いな」
仕立ての良いスーツの上着を脱いでベッドに放り投げると、高嶋は窓辺に置かれたソファに腰を下ろして外を向く。中央郵政との契約もまとまった時期の高嶋は、我が世の春を謳歌する。 出張で使うホテルは決まって高層階のスイートだった。
「いい眺めだ。天下を取ったような気分になれる」
「取ったも同然じゃないですか」
それが部下の追従だとわかっていても、奈津子の言葉は高嶋を上機嫌にする。
「ここのところ、ずっと忙しくて奈っちゃんに有給も取らせてあげてないな」
「構いません。お休みを頂いてもすることないですから」
「そんなことないだろう。放っておかれて彼氏も怒ってるんじゃないか」
「そんなのいませんから」
「嘘だろう? そんなにきれいなのに」
「わたし……、きれいなんかじゃありません」
なんのかんの言ってもコウは純粋だ。いい雰囲気になった高嶋と奈津子をうっとり眺めている。
「座らないか、少し話をしよう」
甘美な沈黙は高嶋によって破られた。
「でも、プレゼンの資料作りがまだなんです、これから部屋に戻って――」
「社長命令だ、そこに掛けなさい」
「えっ……」
高嶋にじっと見つめられ、奈津子は困惑の表情を浮かべる。
「あっはは、冗談だよ」
「脅かさないでください」
「うちはまだまだ発展途上の企業だ」怖い顔を作る奈津子に、高嶋は笑顔を掻き消して言った。「俺の一挙手一投足が社員の生活に直結していると思うとプレッシャーに押し潰されそうになる。だけど、彼らにそんなところは見せられないだろう? たまには泣き言に付き合ってくれよ」
「……では、少しだけ」
当時、四十三歳になったばかりの高嶋は、同性の僕から見てもひとを惹きつける雰囲気のある〝大人の男〟であったことは否めない。長身で軽妙な語り口、地元市議会では議長を、大手自動車会社が名を連ねる協議会では初代代表幹事を務め、その上、カネもあるのだからモテないはずがない。家族を奪われた憎悪――その軛がなければ短大を卒業したての奈津子など一も二もなく籠絡されていただろう。
「なにか飲むかい?」
奈津子が座ると同時に高嶋が腰を上げる。
「あっ、わたしが――」
「いいから、君は座ってなさい。ビールでいいかな?」
「い、いえ、わたしは結構です」
「おいおい、俺が奈っちゃんを酔わせてなんとかしようってな下衆な男に見えるのかい。傷つくなあ」
高嶋はしょげた顔をする。女性を口説くため、鏡の前で幾度も練習を重ねたそれは完璧に板についていた。
「違います! わたしは仕事が残っているから――。社長は……、立派な方です。では、あの……、烏龍茶をいただきます」
「他の誰でもない、奈っちゃんにそう言ってもらえるのが一番嬉しいよ」
そう言って高嶋は少年のように笑ってみせる。事情を知っている僕ですら、つい、ほだされてしまいそうになるほどの百面相ぶりだった。
「へえ、あのひとが――。意外です」
「ひとは見かけによらないとはよくいったものさ」
幼い頃の境遇や兄弟の話に話題が及んでも取り乱さずにいられるだろうか――奈津子が抱いたろう不安をよそに、高嶋の話は専ら業界秘話のようなもので、奈津子は知らず知らずのうちに警戒を解いていく。膝の上で抱きかかえるよにしていたバッグは、いまや足元に位置を変えていた。
「奈っちゃんに聞いてもらって助かったよ。噂の主は全員がこの業界の大立者だ。表面上、にこやかに振る舞ってはいても腹のなかではなにを考えているかわからない。俺が喋ったことがばれでもしたら――」
高嶋は自らの喉を掻っ切るような所作をした。。
「こんなことで社長のお役に立てるなら、いつでもおっしゃって下さい。それではこれで――」
「今後ともよろしく。ひとに話せないことが蓄積するのは精神衛生上、良くないからな。ところで奈っちゃん……、いや、竹下奈津子にもひとに明かせない秘密があるんじゃないのか」
席を立とうとバッグに手を伸ばしかけた奈津子は、そのままの形で凍り付いていた。




