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「高嶋は今日、鏡野暑に送致されることになっている」

「そう……」

 ここは堀田の住む1DKアパートの寝室、奈津子は狭いベッドで天井を見上げていた。

「なんだ、積年の恨みを晴らすチャンスがやっと廻ってきたというのに君は嬉しくないのか?」

 特に表情を変えるでもない奈津子の隣で裸身を起こしたのは堀田昌治だった。上掛けがずれ、奈津子の白い胸があらわになるが、彼女は気にするふうでもない。

 奈津子の仮面様顔貌は堀田とふたりきりの時にもあらわれるようになっていた。それが男女の関係となった堀田を他人と認識しなくなったせいか否か、振る舞いを盗み見るだけの僕にはわからない。

「ううん、そんなことないわ。でも、彼は警察に捕まっているんでしょう。どうやって接触するつもり?」

「いや……、あいつが指名手配にならなかったのが不幸中の幸い。参考人としての取り調べだから明日には解放されるだろう。高嶋が主張するアリバイ、稲本が死んだ日、レンタルビデオ店の防犯ビデオに映っていたことも確認されていることだしな」

 堀田が眼を遣った寝室の隅には、パソコンとそれに繋がったデジタル無線受信器や遅延検波回路が雑然と積み上げられている。マイクロ多重回線へのハッキングとPSK波をTTKレベルへ変更するだけの知識があれば、警察無線の傍受もさほど難しいものではない。

「アレは用意できているの?」

「抜かりはない」

「明日……なのね」

「ああ。残念なことに高嶋は車じゃないが潜伏先は確定した。エアパッキン封筒に例のCDでも入れて送りつけてやるか……。いや、あの野郎が苦しむ様をこの眼で見てみたい。なにかいい方法はないかな」

「シャワーを借りるわね」

 奈津子はベッドから降りて言った。

「どうぞ」高嶋殺害のレシピに考えを廻らす堀田は生返事で返す。「ごゆっくり」

 ダイニングキッチンを横切った奈津子はシャワールームに通じるドアを開き、寝室の堀田にも聞こえるよう、大きな音で閉める。そしてベランダのあるガラス戸まで戻ると、静かにそれを開いた。シアン化水素精製のための小規模なプラントとエアパッカーと呼ばれる梱包材作成機に繋がれた2キロサイズのボンベが、背の高い人口観葉植物に囲まれるように置かれている。コンテナボックスの蓋を開け、奈津子はシアン化水素入りのエアパッキンを一掴み取り出した。

 復讐こそ我がライフワークと信じ込んでいた堀田は、いつしか妻子からも見放されていた。妻の実家を追い出された彼は日々の生活に追われるようになる。遺恨の炎は勢いが弱まりつつあった。そんな折、父娘ほど歳の離れた奈津子が訪ねてきた。裁判記録のコピーを手に淡々と身の上を語る彼女に、堀田は歪な情熱を再燃させる。原告欄に並ぶ名前が自分を後押ししてくれるかのように思え、堀田は復讐の相乗りを奈津子に誓っていた。

 すべてが終わった時、誰にも明かせない秘密の共有が、ふたりの絆を一層強固なものにする――美しくしなやかな肉体を与えられ続けた堀田は、奈津子の行動に露ほどの疑いも抱かずにいた。

「あれ? 泊まっていかないのか。明日は有給を取ったんだろう」

 寝室に荷物を取りに戻った奈津子は、堀田のアパートに来た時の服を身に付けていた。

「兄のところへ行くって言ったじゃない。話してもわからないだろうけど高嶋が見つかった報告をしてくるわ。お湯を張っておいたから、あなたもどう?」

「おっと、そうだったな。じゃあ俺も汗を流してくるか」

 堀田が浴室に向かう音を背中越しに聞き、奈津子は堀田の携帯電話をバッグに入れた。

 外付けのスチール階段に奈津子のハイヒールが響く。覚束ない足取りは調子の狂ったワルツのように聞こえる。階下から今しがた後にしたばかりの部屋を見上げる。微かに揺れる眼差しに、僕は憐憫を垣間見たような気がした。

 ――五分経過。何事も起こらない。奈津子は堀田の部屋まで戻ってチャイムを押す。

 ――反応はない。ドアポストに白い封筒を入れると、奈津子は乗ってきた小型乗用車でそこを立ち去った。


「なにこれ? どうなってるの?」

 僕ひとりで判事と検事と弁護士をこなすバルクの法廷は大詰めを迎えている。予想外の展開に、陪審員席から説明を求める声が上がった。

「脱衣所のマットの下にはシアン化水素入りのエアパッキンが敷き詰められていた。奈津子がドアポストに入れたのには石渡・稲本殺害を自供する内容とその手法が書かれててあり、署名は堀田になっているものと予想できる。この後、奈津子はアパートの住人を装って警察に通報する。『どこかから異臭が入り込んで子どもが苦しんでいる。なんとかしてくれ』そう言われれば出動せざるを得ない。警察は各部屋を回り、堀田の死体と遺書を発見することになる」

「えっ! なんで? どうして?」

「こういうことだよ」

 最終弁論を前に、依頼人に不利な証拠物件を提出せねばならない弁護士――その時の僕の心境はそれが一番似つかわしく感じられた。


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