33
僕がコウに望んだのは、事件を正確に理解してもらった上での助言だ。解釈に食い違いがあってはならない。
「奈津子のアレは、ここ数年のことなんだ」
「えっ? だけど歩行障害や無表情は一酸化炭素中毒の後遺症に見られる症状じゃなかった? なんて言ったっけ、確か中毒性パーキンソニズムとかなんとか……」
「そんなこと、よく知ってるね」
「パ、パパが医者だったのよ。神経内科のね」
「へえ、奇遇だな。僕の知り合いの叔父も神経内科が専門のお医者さんだった」幸のことだ。「上手く歩けないことに気づいた奈津子は、兄、尚志の主治医のところに相談に行った」
「少し専門的になるが、尚志君をずっと見てきた君なら理解できるだろう」
鵜飼県医療センターの神経内科診察室、奈津子は真っ白になった髪を七三に分けた医師と向き合っていた。
「パーキンソニズムとは症状のことを言う。仮面様顔貌、手指振戦、麻痺の証明されない歩行障害等々――だ。中脳の黒質細胞に変異や障害が起きるとドーパミンの分泌が阻害されパーキンソニズムが発症する。基礎疾患がなくパーキンソン病の症状を呈するものがパーキンソン病、他方、明らかな原因が認められる場合はパーキンソン症候群と呼ばれる。一酸化炭素中毒はパーキンソニズムを引き起こすがパーキンソン病とは進行形式が異なる。例を上げよう。手指振戦、つまり指の律動的な震えがあっても、それがピル・ローリングでなければ専門家はパーキンソン病ではないと診断することが多い。尚志君は後者だ」
「はい。ですから同じ車にいたわたしも――」
「まあ、待ちたまえ。君が心配しているのは間欠型のことだろう? 確かに一酸化炭素中毒による淡蒼球の壊死が徐々に進行した場合にそういった症状があらわれることもある。しかし顕著な仮面様顔貌や歩行障害はヤールの重症度分類で三度に当たる。もし、君の主張とおりなら仕事に就くどころか日常生活にも支障がでるはずなのだよ」
こうして訴える奈津子の表情は真剣そのものだ。
「ですが現実に――」
「CTやMRIを撮ってみても明らかな異常所見が認められないのがパーキンソン病の特徴でもある。だがね」医師は食い下がる奈津子を遮って言った。「十数年の時を経て中毒性パーキンソニズムがあらわれることなど絶対に有り得ないんだよ。しかも君の場合、他人がいるところでは症状があらわれないという」
「では、いったいなぜわたしはこんな風になってしまったのでしょう」
「ふむ……」
医師の前で症状は再現されず機器による検査にも異常は見られない。これが逆なら演技も疑えるのだが――困り果てた医師の顔がそう語っていた。
なにか閃いたのか医師はやにわに席を立つ。奥の予備室から病院名の書かれた封筒を手に戻ってくると、そこから二枚のレントゲン写真を取り出してシャウカステン――発光機能を持つアレだ――に把持した。
「これは整形から預かったものでね」医師はシャウカステンの電源を入れる。「膝蓋骨亀裂骨折の疑いがあるのだがレントゲン撮影では骨折箇所が確定できなかったため後日、CTとMRIを撮る予定になっている。ところがその役に立たなかったレントゲン写真で驚くべき事実が発見された。ここだ、幼い頃の怪我が原因なのだろう。脛骨が半月板の間に飛び出す形で形成されてしまっている。これでは膝は九十度以上曲がらない。正座も不可能なはずだ」
「はあ……」
曖昧な相槌を打つ奈津子に医師の意図するところは読めない。
「ところが、この患者さんは不自由なく日常生活を送っているという。学生時代には陸上部でインターハイにも出ていたそうだ」
「先生はわたしになにをおっしゃりたいのでしょう」
「つまり人間の脳には、肉体の限界を超える力があるとは言えないだろうか。逆に深い思い込みが自らの運動機能に枷をかけてしまうことも考えられる。君は、尚志君を見舞う毎に症状が酷く出ると言った。自分だけが助かった――その罪悪感がそうさせているのかもしれんな。少しの間、見舞いを控えて見たらどうかね。心療内科に診せるのもいいかもしれんな」
「そうですか……」
医師がちらちら眼を遣る電子カルテ左上には『待ち患者数41名』と表示がある。遠回しな退去勧告を受け入れ、奈津子は診察室を出て行った。
「美奈子って本当はすごく優しい子じゃないのかな」コウが言った。「お兄ちゃんに申し訳なく想う気持ちがあんな風に反映されるなんて、そうでなきゃ考えられないもん。毒ガスを仕込んだのだって堀田なんでしょう?」
僕もそうであって欲しいとは思う。だけど肉体に留まる以上、どれほど気高い精神であれ脳の裏切りに遭う危険を孕んでいる。ひとが天使にも悪魔にもなり得る所以だ。




