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「家族をあんな目に遭わされれば……。奈津子の気持ちもわからないでもないなあ。秘書をしてたのは復讐の機会を狙ってたってことなのね。でも眼の前で堀田がこてんぱんにやられたのを見て怖くなっちゃたってとこかな。おまけにあの身体じゃ大柄な高嶋に適いそうもないもんね。それで警察は捜査を始めたの?」

 コウの解釈には少し誤解がある。だが、その訂正を後回しにして僕は解説を続ける。

「所轄の鏡野警察署は、トックス・スクリーニングの結果から稲本の死が殺人ではないかとの疑いを強めていた。だけど肝心の犯人像が見えてこない。警察用語で言う擬律判断の難しい事件だってことだね。そこへ例のCDが届く。勢い込んで捜査本部を立ち上げたもののこれは完全に勇み足だった。高嶋に稲本を殺害する動機があり、それにシアン化化合物が使われたことまではわかっても、その方法さえ解明できてない状況に、地裁は逮捕状の発行に難色を示す」

「どういうこと?」

「指名手配には至らなかったってことさ。全国に共助依頼は回したものの参考人では任意の取り調べが精一杯、高嶋を見つけるのは困難が予想された。そこで鏡野警察署の迷走が始まる。CDには、中村美奈子と稲本の遣り取りも記録されていたんだ」

 僕がコウに見せたのは中村美奈子が、若狭プレシジョンの第三応接室で刑事の聞き取りに応じる姿だった。


「我々としましても噂話だけを根拠にこうしているわけではないんですよ。八月九日、あなたが岩塚マタニティに行かれたのは、稲本さんとの間にできた子供を堕ろすためですね?」

 妊娠・出産に関して、産院の診療項目はその殆どが保険の適用外である。従って健康保険組合での情報収集は期待できない。盗聴記録の裏を取るため刑事たちは近隣の産院をしらみつぶしに当たっていた。

「完全黙秘ですか……、弱りましたなあ」鏡野警察署の警部補、吉田順三はわざとらしく胡麻塩頭を掻いてみせる。「あなたを裏切った稲本さんが不慮の死を遂げられた。世間は誰を疑うでしょうな」

 若い方の刑事、滝日は慎太郎は指先でボールペンを弄び、手持ち無沙汰そうにしている。

「……刑事さん」

 不意に顔を上げ、中村美奈子が言った。

「なんですか?」

「人間の感情にはどれだけの種類があるんでしょうね」

 吉田は、急になにを言い出すやら、といったように苦笑で応じる。

「そりゃまあ、喜怒哀楽と言うくらいだからよっつですかね」

「殺したいほど憎んでいる相手なのに、逢えなければ狂おしく切ない。叶うはずの未来が見果てぬ夢だと気付いた時の絶望感、小さな生命の小さな願いに応えてあげられなかった自分への嫌悪――わたしはこの一ヶ月半、とても一言では言いあらわすことのできない多くの感情を知りました。あなた方が人間の感情をよっつしかないと思われるなら、わたしの気持ちを理解していただくことは永遠にないでしょう」

「なっ……」

 中村美奈子の毅然たる口調に、さしものベテラン刑事も二の句が継げない

「おいっ! こっちが下手に出てるからって調子に乗ってんじゃねえぞ。稲本から搾り取った金はどうしたんだ。引っ張る気になりゃあ恐喝ででもおまえを――」

「あのニ百万なら」滝日の怒声を遮って中村美奈子が言った。「社葬の時、稲本部長の奥様に全額お渡ししました。『香典やお供え物の類はお断りしていたのですが、是非に、とおっしゃる方がおみえでしたので』と。お調べになってもらえばわかるはずです。名義は――」


「このひと、かっこいい! 見てよ、あのニア・イコールの間抜け面」

 ニア・イコール? 滝日の薄い唇の上下には、中心をずらしてひとつづつ黒子があった。


 その時、吉田の携帯電話が鳴った。

「なにっ! 本当か? わかった、すぐ署に戻る」

「なんかあったんすか?」

 奥歯が擦り減りそうなほどの歯ぎしりを止め、滝日が訊ねる。

「高嶋の身柄が確保された」


「あらら……。随分、簡単に見つかっちゃったわね」

「鶴舞県の実家に身を寄せていた高嶋は、自分に殺人の疑いがかかってるなんて夢にも思っちゃいないからね。住民調査で回っていた交番の巡査が、応対に出た高嶋に気づいて奴の所在が明らかになったんだ」


 刑事たちが去った第三応接室で、中村美奈子はすぐに席を立てずにいた。

 緊張が緩んだせい、あるいは被疑者扱いされた悔しさかもしれない。一粒、また一粒と涙が彼女の頬をつたう。

 ノックの音に続いてドアが開く。入ってきたのは空のトレイを手にした奈津子だった。

「大丈夫?」

 指の腹で涙を拭い、中村美奈子は気丈に笑ってみせる。

「うん、平気。あっ、それわたしがやるね」

 奈津子が手にしている布巾に手を伸ばそうとする中村美奈子の指は空を掻く

「わたしがやっておくから――。美奈子はお化粧を直してくるといいよ」

 トレイと布巾を肩の高さに上げ、奈津子が言った。

「ありがとう……。ごめんね」

「いいってば」

 閉じられたドアに耳を寄せ、中村美奈子の足音が遠ざかるのを待って奈津子は盗聴器を外した。すぐにはポケットに入れず黒い筐体をじっと見つめる。心無しか、能面の美貌が揺らいだように見えた。


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