30
総務課オフィスのドアが開いて稲本が顔を覗かせる。
「第三応接室、終わったから」
「はい」
席を立った三島奈津子は、背後の壁掛け式キーボックスからマッチ箱大のスマートキーを手に取って稲本に渡す。
「こちらでしたね」
「ああ。サンキュー」
稲本はぐるりと総務課オフィスを見回してから踵を返す。ドアが閉じる音がするまで、中村美奈子は頑なに顔を上げようとしなかった。
「ごめんね、奈津子」
「いいって、気にしないで」
奈津子が出た廊下を挟み、みっつの応接室が並ぶ。片付けに向かう第三応接室は、その一番左手、来客用玄関からすぐのところにある。人目を意識してない時の奈津子には僅かに歩行困難が見受けられた。。
応接室に入った奈津子はテーブルの裏に手を這わせる。目当ての物を探り当てた彼女は、両面テープで貼られた小さな筐体を引き剥がし事務服のポケットに滑りこませる。その間、表情にまったく変化はない。
「あれはなんなの?」
「盗聴器だよ、音声に感応して電源が入る仕組みだ。ここから200メートル離れた従業員駐車場にいる堀田が受信機を持っている」
「あっ、それを警察に送るつもりなんだ」
「御名答、ご丁寧にCDに焼いた上でね。石渡の死は、事故の状況から〝ハンドル操作を誤った末、川に転落しての水死〟と決めつけられて解剖もされてない。だけど稲本の死には不審な点も多く、警察は、大学病院にトックス・スクリーニング、すなわち薬物検出検査を依頼する。シアン化化合物による中毒は静脈血の変色で判断することができるんだ」
「シアン化化合物って?」
「俗に言う青酸ソーダだよ。エアパッキンに封入されていたのはそれから作りだしたシアン化水素だった」
「随分とめんどうなことをしたものね。毒薬があるならさっきのコーヒーに入れればいいじゃない」
「それだと真っ先に奈津子が疑われる。それに強アルカリ性であるシアン化ナトリウムは、口に入った途端、吐き出すのが普通の反応だ。例え呑み込んでしまっても胃洗浄で命を取りとめる可能性も高い。より確実にふたりを殺すには気体を吸い込ませて呼吸細胞を破壊するのが一番なんだ」
「車のなかにスプレーしておくんじゃだめなの?」
「間違って自分が吸い込んじゃう危険だってあるだろう? しかもシアン化化合物全般には大気に触れることによって毒性が薄まっていく性質があるんだ」
「つまり、どこかに塗っておくのもだめってことかぁ……、あーあ」
「君が困ることはないだろう」
「あたしの好きなミステリー作家がそういうトリックを使っていたのよ。カップの縁に塗られた青酸カリのせいでヒロインが死んじゃうの。せっかく、いい作品だったのにタクちゃんのせいでだーいなし」
「作家の考察の甘さまで僕のせいにするなよ。先に進めるからな」
「あっ、ちょっと待って! わからないところがあるの。若狭プレシジョンの社員は全員、セキュリティチェックを通るんでしょう? どうやって盗聴器を持ちこめたのかしら。それと車の鍵、あれは奈津子が持ち出して堀田に渡したの?」
「なんだ、そんなことか。ハイテクを打ち負かすにはローテクだよ。ええっと、あれは確か……」 チャプターのついてない三次元宇宙の場面を探すのは、それなりに面倒な作業だ。「あった! これだ」
若狭プレシジョンの広大な敷地は全域が高い防音壁で囲まれている。ただ最北端に位置する工場屋D棟の東だけは廃液処理施設のメンテナンスのため壁が低くなっている箇所があった。そして壁の外を流れる米野川の橋の袂から廃液タンクの裏手まで、河川管理のための堤防道路が繋げられている。
「ここを乗り越えるのは無理でも、小さな物、例えば盗聴器を投げ入れることは不可能じゃない」
「なるほどね。じゃあ車の鍵は?」
「あれだけ精緻なトリックを思いつく連中だ。誰にも怪しまれることなくオフィスと駐車場を往復できるなどとは思わないだろう。それに、日常生活に支障をきたすほどじゃないけど奈津子は足が悪い。車の鍵は堀田が作ったんだよ」




