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03

 これが僕――飛ばし屋――の仕事だ。社会に害悪をなす輩を見つけ出し、自らの肉体を反物質化させて接触することで、悪党を別の時空に弾き飛ばすのだ。そう言うと殺人が連想されるかもしれないが、対象はあくまで別の宇宙に存在を変えるだけなので、さほど良心が痛むこともない。

 対消滅という宇宙の起源より続く事象が発生するエネルギーは1グラム当たり約九十兆ジュール、なんと約八万世帯の月間電力に相当することを、世界一有名な公式E=mc2 が証明している。それに僕の体重63キログラムをかけ、ベータ崩壊で生じるニュートリノが持ち去る分を引くと……ま、まあともかく天文学的数字であることに間違いはない。それほどのエネルギーでなければ時空を飛び移るなど不可能だということだ。そして僕がいまいるのは、バルクと呼ばれる三次元宇宙の上層で、整数値でない次元だ。そんなものがあるはずないって? 例えばメンガーのスポンジは2.7268次元だし、シェルピンスキーのガスケットは1.58次元である、とフラクタル図形が小数を持つ次元であることが証明されている。ある女性の言葉を借りて説明しよう。

 ――どれほど複雑な平面図形でも一次元の直線に落とす影は、すべて線になるでしょう? そして球体の影は平面、すなわち二次元に。つまり下層次元は情報の一部をなくした上層次元の影であることは公準(ある論理的、実践的体系の基本的な前提として措定せざるを得ない命題)なのよ。

 ちなみに文中のタクちゃんとは僕、柘植拓巳二十九歳のことである。

 相対論に於いて人類が生存する宇宙は、縦・横・高さに加え、時間を持つ四次元時空だと考えられている。だが、時間の矢の向きが必ずしも一定でなく、エントロピー増大の法則――ザックリ言えば〝覆水盆に返らず〟も成立しない、縦・横・高さを持つ空間があるとしたら? そこが下層次元だと断ずるのが間違いであることは誰にでもわかる。ここはひとつ、彼の天才物理学者様に泣いていただき、人類が暮らすのは三次元宇宙だ、ということで話を進めたい。

 この三と小数のつく次元は、現在のみが積み上げられた世界だ。三次元宇宙に隣接してはいるが、三と小数がつく次元の影であるここでは、本来、僕の肉体を構成する要素も散り散りになってそこらを漂っている。軌道を飛び越えるフォトンの煌めきが唯一の変化らしい変化だ。僕がこうして語っていられるのは『死して肉体に留まらないもの』のお陰にほかならない。

 ストリング理論、11次元超重力理論、M理論と、次元については多くの理論が打ち立てられているが、三次元とここしか知らない僕にも正確なところはわからない。ただ、他の次元が〝小さく丸まって見えない〟のではないことだけは確かだ。見えない理由は『死して肉体に留まらないもの』が電荷を持たない、あるいは著しく不安定で、そこにそれ以外の夾雑物がないせいなのだ。

 だが、すべての生命が一度はこの世界を体験している。深い夢のなかで、臨死体験――これは1939年にトラックに撥ねられ、生死の境を彷徨った青年、後のヨハネ・パウロ二世に代表される――で、宗教がかった言い方すれば受肉する以前の住処や殉教者の行き場として。それがここ――口伝で、文書で、あるいは絵画で存在を暗示され続けたバルクなのだ。

 話を戻そう。菱田がどの三次元宇宙に飛ばされたかはわからないが、対消滅で弾き飛ばすことができるのは正確に僕の質量分だけ。たいてい僕は自分より大柄な相手を選ぶため、そいつの身体の一部は、それはきれいな断面で、もといた三次元宇宙に取り残される。従って悪党どもが飛ばされた先の三次元宇宙で再構築される身体には欠損が生じる。一種の転写エラーみたいなものだと考えてもらえばいい。彼らがそれを己が不徳と気づいて考えを改めればよし、悪事を繰り返すようなら何度でも弾き飛ばされ、最終的には完全消滅してしまうことになる。悪党どもにとって都合の悪いことに、飛ばし屋は僕ひとりではないのだ。

 フォトンの煌めきが掻き乱される。この時、僕はいつも舞い立つ蝶が残す鱗粉を思い出す。教育係様のお出ましのようだ。

「お疲れ様っ!」

「コウ……なのか?」

 それが本名かどうかも定かではない。

「他に誰がいるのよ、あたしに決まってるじゃない。どう? これ」

コウはスカートの裾をつまんで会釈した。

 先に述べた通りの理由で、僕はここでは肉体を形成できない。通常の知覚を持たない僕の意識にイメージは直接届けられる。コウの姿と声は、国営放送の某女子アナそっくりだった。

 〝起き得る可能性のあることなら何でも起きる〟主義の僕だが、さすがに素粒子の輪を閉じる方法や、電荷の反転は理解の範疇を超える。飛ばし屋としてやっていくのに必要なすべてを、僕はこのコウから教わっていた。

「いい加減、君のオリジナルであらわれたらどうなんだよ」

 菱田を飛ばす前に逢った時、コウが模したのは、生涯で最も僕が愛した女性によく似た女優だった。そしてその前はフランスの映画俳優と、僕は彼女の本当の姿を拝ませてもらったことがない。

「タクちゃん、この女子アナのファンだったでしょう? いい仕事ぶりだったからご褒美のつもりでこうしてあげたのに、なんで文句言うかなあ」

「そういう問題じゃなくって――」

「じゃあ、どういう問題? だいたい、あたしが理想のタイプを訊いても答えないタクちゃんが悪いんじゃない」

「だから、理想なんてないんだってば。好きになった女性なら鼻が低かろうが脚が太かろうが愛おしい、そういうもんだろう」

「いつも言うけど、それって変よ」

「じゃあ、僕も言わせてもらうが、ちっとも変じゃない。少なくとも僕はそうなんだから仕方ないじゃないか」

「あっ! そう言えばこの女子アナも小柄な割りに足は太いわよね」

「もういいっ、君とはどうやってもわかり合えないみたいだ」


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