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ある企業の応接室、ひと組の男女が言い争っている。
「ひどい……、堕ろせって言うの? 奥さんと別れるって話はどうなったのよ!」
「しいっ、声がデカいよ。君だって以前は待つって言ってくれてたじゃないか」
「状況が変わったの。このお腹にはあなたの赤ちゃんがいるのよ。わたしに人殺しになれとでもいうの!」
「人殺しは大袈裟だ。まだ十週目なんだろう? わかってくれないか。いまはまだ娘も小さくて妻と別れる訳にはいかない。必ず君と結婚するから、子どもは少し先にしてくれと頼んでいるんだ」
「そんな都合のいい話、信じられるもんですか! いいわ、別れてあげる。さっきオプトクラスターの長内さんが置いていったお金でね」
「いや、これは……。病院なら二十万もあれば足りるんじゃないのか?」
「あなたの家庭が揉めないように、社内で噂にならないように、誰にも知られずに堕ろしてきてあげるのよ。散々、弄ばれた慰謝料込みの金額がそれ。文句ある? なんなら常務にでも相談しましょうか」
男がなにを考えていたかは想像するしかないが、せいぜいこんなところだろう。『セックスの相性も良く、妻より十歳以上若い女を捨てるのは惜しい。だが、常務の姪である妻にこれが知れたら――』
男は苦りきった顔でセカンドバッグのファスナーを開く。取り出した茶封筒を女の前に放り投げると、それはバサリと音を立ててテーブルに落ちた。
「君も案外、強欲な女だったんだな。いいさ、持ってけよ」
席を立った男は封筒に手を伸ばさずにいる女を残し、ぷいと部屋を出ていった。ドアの閉じられる音を背中越しに聞いた女は、汚らわしいものでも遠ざけるかのように目の前の封筒を払いのける。それはテーブルの隅の花瓶に当たって止まった。絨毯の敷かれた床に膝をつき、女は口に手を当てて慟哭を堪えていた。長い髪が顔を覆い、瞳からこぼれ落ちる涙が彼女の膝頭を濡らす。
「こんなものが欲しかったんじゃない……」
嗚咽混じりの呟きは誰かに聞かせるためではない。苦く大きな錠剤にも似た別れを嚥下するためのように思えた。
「あんな男……、死んじゃえばいいんだ」
「なあにこれ? 昼メロみたいね」
この馴れ馴れしさはコウ以外に考えられないが、知らぬ間に隣に来ていた彼女が誰を模しているのかがわからない。もしかするとブレイク中の芸能人なのかもしれないが、テレビドラマを観ない僕にはそれさえ定かではない。
「誰なんだよ、それ」
「ひっどーい、忘れちゃったの? ふたりでA山だって登ったじゃない」
あっ! 安藤結衣か――。
僕の記憶は大学時代まで遡る。当時、交際していた結衣は〝あでやか〟を具象化したような女性で、ただいるだけで周囲が華やかになるほどの美貌の持ち主だった。その反面、デート代は男が出すべきだとのしたたかさを併せ持っていたようで、付き合いが長くなるに連れ、食事を奢るくらいでは感謝の言葉ひとつ聞けなくなっていった。あるとき、このままでは彼女のためにならないと考えた僕は『ごちそうさまくらい言ってもいいんじゃないか?』と意見した。そして返ってきた『ただでさせてあげてるじゃない』に『君は娼婦か』と口走ってしまい、僕たちの関係は解消されたのだった。
「だけど……」
徒労感が滲む表情にかろうじて面影だけは残っているが、メイク技術も進化したいま、ただ八年が経過しただけでない結衣の変化が僕には信じられなかった。
「大学を出て勤めた会社で、イケメン君とスピード結婚したところまでがこのひとの最盛期だったみたい」困惑顔の僕に、コウが解説を加える。「短い交際期間で、相手が超マザコンだったことを見抜けなかったのよ。ハネムーン先にも毎晩のように電話があり食事を作れば『ママの味と違う』、『出勤前、ママなら曜日ごとに違う種類のハンカチを用意してくれた』、『ママは風呂上りに髪を乾かしてくれた』。ママ、ママ、ママで、とうとう我慢できなくなっちゃったのね。子どもを連れて家を飛び出しちゃったのよ。だけど実家は婿養子をとった妹が継いでいて戻れない。なんの資格もないシングルマザーに世間の風は冷たい。パートを掛け持ちしてなんとかしのいでる現状みたいね」
「そうなんだ、可哀想に……」
「死んじゃってるタクちゃんが同情してあげるほどのことじゃないわよ」
「そりゃまあ、そうだけど――。なんで君が不機嫌になるんだよ」
「不機嫌になんかなってない!」
女性がこう言う時は、たいていその反対であるものだ。
「なってるじゃないか」
「ふん!」
こうなると解決の手段はひとつ、自分が悪いと思ってなくとも謝ることだ。
「悪かったよ、なにか気に入らないところがあるなら言ってくれよ、直すから」
「言われて直されたって嬉しくなんかないけど……、謝るなら許してあげてもいいわ」
僕はなにを許されたのだろう。




