18
「ねえねえ、わたしのどこが好き?」
交際中の女性にそんなことを訊かれた経験はないだろうか。『いやあ、特にどこといって……』などと言えば恋人の機嫌を損なうのは必至。あれこれ悩んで答えはするが、そんなものは全部後付けでしかない。意味もなく惹かれるところがあってこそ恋愛は成立する。暗黙の理解者を本能が求めるのが恋愛なのだ。なにが言いたいのかというと、溺れている最中の者が小説のように〝胸は焼け付くような痛みを覚えた〟だの〝その時、万力で締め付けられるような頭痛が襲ってきた〟だの、文学的表現を駆使する余裕などないということだ。ただただ、もがき苦しむのみ。恋い焦がれる酸素をH2Oから抽出する術を僕は――、いや、人類は持たない。
後、ほんの一秒で意識が遠のく――そう感じるや否やワイヤーが巻き上げられ、僕は水槽から引き上げられる。一朝一夕で会得できるタイミングではない。アメフトプレイヤーがここまでなるには幾人の犠牲が出ていたはずだ。今回、飯沼さんの側に偏った調査だったことが悔やまれた。
「どうだ、吐く気になったか」
先に政界進出を果たしていた某教団の名でも挙げ、水攻めから解放されたい僕だったが、気管に水が詰まっていて声が出せない。上気道の水位が下がり話そうとする僕の口からピューと水が走り出た。
「こっ、この野郎! てめえは鉄砲魚か」
なかなか上手い例えだ。こんな状況でなければ僕はきっと笑い転げていたに違いない。
「おいっ、漬けろっ!」
顔にかかった水を拭き拭き演歌歌手が言った。僕の身体は下降を始める。カルキの匂いがする御神水が近づいてきた。
僕はダンキンドーナツじゃないそ! 抗議の声は虚しく水泡に帰していった。
二と小数で構築された肉体は抜け殻みたいなものだ。とは言え、苦痛は僕の意識を直撃するし、脳への酸素供給が絶たれればこの肉体は滅びる。第二の生について見識を深めていた僕だ。特に死を恐れるものでない。
――へえ、タクちゃんはそれでいいんだ?
コウの声が聞こえた気がした。
――見たい世界があるんじゃなかったの?
そうだった! 僕はまだ死ぬわけにはいかない。萎えかけた生存本能が水中酸素を求めようとした刹那、自らに叱咤を浴びせ歯を食いしばるようにして指令を出す。
生きるんだ。
「吐かせる前に死なせちまったんじゃ元も子もない。今日はこのくらいにしといてやるか。そのまま一晩転がしておけ」
何度、水槽へのダンクインが続いたろう――完全にふやけてしまった僕だったが、演歌歌手の言葉は聞こえていた。肉体が水行を耐え抜いた証だった。
「水を吐かせておかないと死んでしまいませんか?」
聞き覚えのない声はアメフトプレイヤーのものだと思う。
「そうなったらそうなったで昨夜死んだジジイと一緒に大本殿の人柱にしちまえ。生コンの節約になる」
七十一番さんは亡くなったのか……。日常的にひとが死んでいるような演歌歌手の口ぶりだった。だが、意識を保てたのはそこまで。頭の芯から広がってきた白い闇が、肉体とバルクの接続を断った。
「――わよ。起きて」
揺り起こされる気配とプラムの香りに、僕は夢から一歩だけ歩み出る。
「幸かい? もう少し寝かせといてくれよ」
「――てよ! ねえ、起きなさいってば」
激しく肩を揺すられて僕は眼を覚ます。僕に手を掛けていたのは受付にいた事務服の女性だった。
「あれ? あなたは……」
「中身はあたしよ、あ・た・し」
夢うつつとは言え、危うげなほど繊細だった幸と、がさつで感情の起伏が激しいコウを間違えたのが冒涜のように感じられた。。
「驚いたな……、君はそんなこともできるのか?」
「もうっ! タクちゃんったら、あたしに黙って出掛けるからこんなことになるのよ」
「ターゲットの選択は僕の自由裁量に任されているはずだろう? それに君が居なかったから僕はやむなく――」
「ガタガタ言わないっ! あたしにだって都合ってものがあるの。そうそうタクちゃんだけにかかずりあっていられないわよ」
「とにかく助けに来てくれたんだよね? だったら早いとこれを脱がせてくれないか」
「わかった」コウは拘束衣のベルトに手を掛けて言った。「なに、これ? どうやるの?」
「君がいま掴んでるベルトを外してくれれば、後は自分でなんとかなる」
「そっか、ちょっと待って」
しきりにカチャカチャと音はするが拘束が緩む気配はない。
「なにやってんだよ、早くしてくれよ」
「うるっさいなぁ、焦らせないでよ。あたしだって他人の身体に入るのなんか初めてなんですからねっ! しかもこんな地味女――、思い通り指が動いてくれないんだから仕方ないじゃない」
逆ギレされた上、不安になるような告白を聞かされる。
「あっ! ちょっと待った」
ある考えが閃いた僕は。コウに相談を持ち掛ける。
「名案かも」
コウはくすりと笑って同意した。




