16
暗くなってからでは飯沼さん探しも容易ではない。僕はアホ導師が出て行くとすぐ計画を実行に移そうとする。
「なにをしているんです?」
股間から引っ張り出した靴を履く僕に三十六番が問い掛けてきた。
「あなたがたはここにどれだけおられます?」
「わたくしが訊いているのは――」
「いいから答えて下さい!」
強い口調で反論を抑え込むと自己が確立されてない人間は簡単に萎縮する。
「わたくしは……、そろそろ一年になります」
次に三十六番は五十四番に顔を振った。
「わたしは……、まだ八ヶ月かな」
それだけ居れば充分だ。なのになぜか五十四番は申し訳なさそうな顔をした。
「では、ご存じなくても仕方ありません。実は、ある教団がこの宿舎への侵入を企ていると大師様に情報が入ったのです。信者の方に教義と異なる考えを吹き込み、混乱を引き起こそうとしている、と」
なんのことはない、それが僕なのだ。
「えっ……」
我ながら随分と嘘が上手くなった。詐欺師ばかり相手にしてきたせいだろう。そこへ持ってきて僕には読心術の心得がある。熱のこもった眼で相手を見つめ、想像のなかでは肩に手を置いてさえいる。彼らの潜在意識に〝この男は信用できる〟と思わせるための『ラポールを築く』というテクニックだった。
「人格者であられる大師様は捨て置けばよいとおっしゃいましたが、Y支部の正導師様は、そうは考えておられません」
「するとあなたは――」
ここで微妙に微笑んだ僕は大きくゆっくりと頷く。〝あなたの言いたいことはわかってますよ〟との含みをもたせるように。
「そう……だったんですか」
これはマルチプルインプリケーションと呼ばれるテクニックだ。相手が勝手に解釈しただけで、こちらには『そこまでは言ってませんが』といった逃げ道を残しておける。三十六番の呼吸が乱れ、五十四番は眼を見開いた。もう一息だ。
「既に侵入を許しているかもしれない。教義に疑問を持つ者が増えればどうなります?青導師様とて例外ではないのです」
僕のブラフにふたりは顔を見合わせた。
「禁じられている時間帯に外にいたことで僕が咎められたとしましょう。その場合、僕はあなた方の制止を振り切って出て行ったことにしてください。ですが首尾よく侵入者を捕えられた時には――」彼らが望む褒美。その布石は打ってある。「わたしがどこから派遣されたかは言いましたよね」
「確かY支部と……、あっ!」
三十六番が眼を輝かす。大本殿はそのY県で建造中だった。あとは勝手に想像を逞しくしてもらおう。
かくして僕は、無用な騒ぎを起こすことなくプレハブを後にすることができた。
工事現場から払い下げられたようなプレハブ群に表札など上がっているはずもなく、窓からなかを覗いては飯沼さんの所在を確かめるしかない。ガラス片を踏み締める音が注意を引くかと思ったが、底の薄い修行靴のせいでそっと歩くしかないのが奏功し、横になった人々は身体を起こすでもない。四棟目で飯沼さんらしき年格好の人影を見つけた僕は、思い切って声を掛けてみることにした。
「飯沼さんはおられますか?」?
返事がない――違ったか、と窓から離れかけた時、うつ伏せに寝ていた身体がのろのろ起き上がるのが見えた。教団での数日がその顔から精気を奪ってはいたが、バルクから見続けた特徴的な鉤鼻はそのままだった。
「どちらさんで?」
「わたしは、連絡が取れなくなった飯沼さんを探してくれと、お子さんから依頼を受けた興信所の者です」
少し間を置く。
「由美子が? 由美子があなたをここに寄越したんですか?」
待つこと数分で期待通りの言葉が返ってくる。労せずして飯沼さんの子どものうちひとりは女性でその名前までをも知ることができた。
「ええ。お嬢さんは大変、心配なさっています。一緒に帰りましょう」
「だけど、まだ水が……」
「飯沼さん」僕は噛んで含めるよう、一言一句、丁寧に語った。「奥様のご病気は卵巣癌、これは遺伝的要因が発生原因の多くを占めることがわかっています。しかも奥様の遺伝子にはBRCA1とBRCA2の両方に変異が見られます。たかが水に遺伝子を書き換える力があるとお思いですか?」
神永のまやかしを信じ込んでしまった飯沼さんの眼を覚ますには、医学的根拠を並べ立てて洗脳の上書きをしてやるしかない――そう考えた僕は潜入前、知恵の泉――県立図書館――で、卵巣癌に関する知識を詰め込んできていた。専ら映像記憶に頼ったもの、つまり丸暗記ではあった。
「そうなんですか?」
飯沼さんの顔に不安が表出する。
「ええ、間違いありません」
癌の発生要因はともかく、神永がインチキ霊能者であることは。
「ですが、いま、わたしが帰ったところで……」
「飯沼さんが家を出られた後のことです。カンファレンス――奥様の治療方針を検討する病院内での会議のことですが、学会に出ていて参加できなかった放射線科の医師が、ある治療法をお嬢さんに提案されたのです。それは抗がん剤の副作用に苦しむことなく、外科手術による後遺症や合併症の心配もありません」
「放射線ですか……。妻の場合、遠隔転移が進んでしまっており、それほど多くの臓器に放射線照射をすれば機能障害を起こして死期を早めることにもなりかねない。担当の先生はそう言っておられました」
妻を想う気持ちが飯沼さんを学究の徒にされていた。舌先三寸で言いくるめることはできない。
「重粒子線療法というものがあります。癌の病巣に達した時、一気に放射線量が上がるもので、そこで停止するため前後の正常細胞を傷めないのです。健康保険が適用されない治療法なので費用は高額ですが、放射線抵抗性腫瘍にも効果がみとめられています」
当時、陽子線治療をする施設はあったが炭素イオン線を使う重粒子線照射については施術者の育成段階だった。また、そのどちらもが局所療法で、転移した癌に使われることはこの先もない。医学は進行癌との戦いに白旗を上げていたのだ。これは飯沼さんの洗脳を解くのに必要な方便だった。
「ジュウ……リュウシセン……ですか」
「ええ。病院に戻って話を聞くだけの価値はあると思いませんか」
「それは……」
「じきに夕食です。本部ビルからの脱出経路は調べてあります。なかに入ったら、すぐに食堂には向かわず、わたしが合流するのを待っていてください」
「わ、わかりました」
洗脳は解けた。僕はアホ導師に見つからないよう注意して充てがわれた宿舎に戻った。




