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「よーし、今日はここで!」

生活の欧米化した僕には耐え難い苦行が終わる。硬い床板との抱擁に僕の脛骨周辺は疼痛の階段を激痛まで上り詰め、いまや鈍麻の極致を彷徨う。自発的に伸びなくなった下腿部を投げ出し、感覚を取り戻すべく猛烈に手でこすってみる。修行衣の下をめくるとどす黒く変色した脛があらわになった。

「各人、真っ直ぐ宿舎に戻るように」

 そんな小学生扱いにも不平ひとつ言わず、信者たちはぞろぞろと道場を出て行く。遅れまいと立った僕の足は、一瞬、シュル・ラ・ポワント(バレリーナがやるアレだ)になり、身体を支えるものを探す間もなくこけていた。


「これは……」

 絢爛豪華な教団本部ビルの裏手、宿舎とは名ばかりのプレハブがずらりと建ち並んでいた。周囲は高い壁で囲われ、上部には有刺鉄線まで張り巡らされている。アウシュビッツを彷彿とさす異様さだ。一棟が十八平米ほどのプレハブに冷暖房設備はない。部屋の隅に積み上げられた布団は高さにして五十センチに満たない煎餅具合だった。

 ――タコ部屋じゃないか! まだ案内人がいたため、それは声に出せなかった。

「夕飯は午後七時で起床は午前五時です。どちらも遅れると食事はありませんから」

 青白い顔の青年は、平坦な声で言った。修行衣()を着ている以上、彼も信者なのだろう。

 着替える際、時計と携帯電話を取り上げられていた僕に正確な時刻はわからない。陽の傾きぐあいから判断するに十七時は回っているようだ。他のプレハブにも修行を終えたひとびとが引き上げてくるところだった。

 ここの先住者は汗染みた修行衣に身を包んだ男性が三名。一番年嵩のひとが七十歳ぐらい、全員が犬のように舌を出して暑さをしのいでいた。粗末な机に置かれたテープレコーダーから神永の説教が流されている。要約するとこんなことを言っていた。

 ――肉体の痛みも魂の苦しみも、すべては欲望がもたらすもの。それを生み出すのは頭である。天降力に身を委ねるのだ。頭は取りなさい。

 脳という臓器が欲望を生み出すのは当たっているが、頭を取って生きていられる人間などいない。

「今日からお世話になる柘植拓巳です。よろしくお願いします」

 僕の挨拶に答えてくれたのは三十代半ばと思しき男性だった。

「御丁寧にどうも。修行中の我々に名前はありません。わたくしは〝ぬ〟の三十六番です。あちらが五十四番で、横になってらっしゃるお年寄りが七十一番です。どうぞよろしく」

 ここは監獄か……。信者を人間扱いしないにも程がある。早いとこ飯沼さんの目を覚まして神永を弾き飛ばしてやらないと――。開け放たれた窓から居並ぶプレハブ群を見回し、僕は決意を強めた。

「ここに飯沼善司さんという方はおられませんか?」

 僕は〝ぬ〟の三十六番さんに訊ねた。

「我々は入信と同時に俗世間での名を捨てます。どなたがその飯沼さんなのかはわかりませんね」

「入信なさる前、例えば修行体験で入ってこられた方もそうなんですか?」

 〝ぬ〟の三十六番さんは僕を胡乱げに見返してきた。

「修行に体験などというものはありません。軽い気持ちで入信した者でも、三日も修行なされば大師様の教えの有り難さを知って心が洗われるものです」

 あんたもそれで洗浄されたわけだ――まさしくブレインウオッシュ(洗脳=脳を洗う)だ。

「はあ、それはそうでしょうけど……」

「二十九番さん」

 誰だ、それ? 〝ぬ〟の三十六番さんの眼は真っ直ぐ僕を見ている。呼び名は、カナがプレハブ棟を、数字が年齢を示すという安直なもののようだ。

「なんでしょう」

「そんなことに気を取られていては、二十九番さんはずっとこの部屋住まいですよ。それでいいんですか?」

 もとより偽霊能者と、そいつ率いる狂信者集団のなかに長居するつもりなどないが――。

「申し訳ありません、僕は考え違いをしていたようです」

 洗脳が進んだ〝ぬ〟の三十六番さんを相手にしていても有益な情報は得られない――そう判断した僕は、悔い改めたふりでこの場をやり過ごすことにした。

「どうなさいました? 大丈夫ですか?」

 この暑さのなか、ぐったりと横たわる七十一番さんの露出した皮膚に発汗の痕跡がない。しかし手を当てる額は体温の上昇を伝えてくる。熱中症ではないだろうか。

「あぁ」三十六番さんは、いま気づいたように言った。「そのひと、なにかと理由をつけては寝ていることが多いんですよ。それでいて食事だけは忘れずに摂られる。修行が足りてないんでしょうね」

 足りないのは修行ではなく水分だ。僕は七十一番さんの身体を揺する。

「もしもし、聞こえますか?」

 反応がない。

「スポーツドリンクかなにかないんですか? いや、これは救急車を呼んだほうがいい」

 立ったまま七十一番さんを見下ろす三十六番さんに言った。既に意識混濁の状態で経口摂取は不可能だ。

大袈裟なことを――さも、そう言わんばかりの冷笑を浮かべ七十一番さんを覗き込んだ三十六番さんが顔色を変えた。

「大変だ……」

 驚愕に固まるだけの三十六番に業を煮やし、僕の入り口ドアへと駆け寄った。だがドアノブは右にも左にも回らない

「なんだこれ、どうなってるんだ!」

「宿舎を出られるのは修行と食事の時間だけになっています。修行半ばの者には迷いも生じやすい、大師様は人間の弱さというものをよくご存知なのです」

「そんなこと言ってる場合ですか! 見ればお年寄りも多い様子、急病人が出ることぐらい想定しておくべきでしょうが!」

 危機感などまったく感じさせない五十四番さんの口調に、僕の語気も強まる。

 だったら窓だ! 開け放たれた窓に向かって僕は走った。

「そこは出られんよ」

 五十四番さんは、いままさに窓を乗り越えんとする僕の背中に声を掛けてくる。

見えない壁でもあるというのか。窓の外を見た僕は愕然とした。

――ここまでするか……。

一箇所きりの窓の下には、大小様々なガラス辺が撒き散らされていたのだった。


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