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長年、連れ添った奥さんの卵巣癌が発見されたのは、市の上下水道部で飯沼善司さんが二度目の定年を迎える前月のことだった。今更、子どもをつくるでもない、全摘すれば済むだろうと軽く考えていた矢先、病理検査を受けた病院で医師の診断を告げられた飯沼さんは愕然としていた。
「胸水中に悪性細胞が認められます。お気の毒ですが、遠隔転移が進んだ現在では手の打ちようが……」
母親が同じ卵巣癌で苦しむ姿を見ていた飯沼さんの妻は、抗がん剤や放射線照射による治療を拒んだ。
「そうは言ってもなあ……」
「母の看病をしていたわたしにはわかるのよ。わたしはもう助からない。だったらせめて静かに死なせてちょうだい」
胸を詰まらせた飯沼さんは、なにも言い返すことができなかった。
或る日、洗濯物を持って自宅に戻った飯沼さんは郵便受けに冊子小包があるのを見つける。なかには立派な装丁の単行本がはいっていた。
タイトルに『末期癌が治った! すべての病苦を超える奇跡の水』と書かれたその本の内容は、僧侶として修行を積む傍ら、猛勉強で医学・理学博士の学位を取ったという著者である神永法水の自(画自賛)伝だったのだが、〝さすがにこれでは――〟と、幾らか良識のある誰かが手を加えたようで、ところどころに『因果がどうこう』、『欲望を捨て、感謝の心を』と、もっともらしい説教が挟まれていた。流し読んでいた飯沼さんが眼をとめたのは体験談の『この水で夫の末期癌が治った』だった。
元来、宗教を毛嫌いしていた飯沼さんだったが、問い合わせの電話を掛けた時の担当者が言った〝ご安心下さい、うちは宗教団体ではありません〟の言葉と明朗な受け答えに、つい、道場と呼ばれる破壊的カルトに足を運んでしまう。
「足の裏……ですか?」
戸惑いがちに訊き返す飯沼さんに神永法水こと永江輝美)に言う。
「さよう、魂の汚れはそこにあらわれるのじゃ。見せてごらんなさい」
「なーにが〝さよう〟だ、仰々しいんだよ! おっと――」
僕は辺りを見回す。三次元宇宙を覗いて毒づく僕はよくコウに『テレビに怒ってる頑固じじいみたい』とからかわれていた。
百人一首のような檀に胡座をかいた神永は、誰が見立てたのか、元良親王のような着物姿で長めの銀髪をオールバックに撫でつけている。
「いえ、わたくし自身ではなく、妻の病気が治ればと思い伺ったのですが……」
「御神水が欲しいのはわかっておる! じゃがな、魂の汚れた者があれを用いたところで効果は見込めやせん」
「そうなんですか?」
飯沼さんは仕方なく靴下を脱ぐ。
「ふむ、卵巣癌か――。転移も進んでおるようじゃな、お気の毒にのう」
まるで飯沼さんの足裏に浮き出た文字を読み上げるように神永が言った。
「えっ!」
奥さんの病状を言い当てられた飯沼さんは、その場で神永に心酔してしまう。カラクリは至って簡単、神永の命を受けた教団配下の者が全国の病院を回り、病棟婦に小銭を握らせては重篤な患者の情報を仕入れていたのだ。後をつけられた飯沼さんの自宅例の本が届いたのは偶然でもなんでもなかった。
「では、どうすればよいのでしょう。妻を助けるのに。わたくしはなにをすれば?」
飯沼さんの声は神永の耳に届いていたはずだ。なのに偽霊能者はそっぽを向いたままなにも答えようとしない。事務服を着た女性が飯沼さんに近づいてきた。宗教色が露骨にならぬよう、外部と接触する人間には普通の格好をさせる破壊的カルトは少なくない。
「お願いを申し上げる時は大師様とお呼びください」
「大師様、何卒、お力を――」
飯沼さんの懇願を受け神永は向き直った。
「儂が直接行って奥方に御神水を呑ませてあげればよいのじゃが、なにせ診て欲しいと言う方々がひっきりなしでそうもいかん。道場に泊まり込んで修行をなさるがよい。魂を清めるのじゃ」
「ですが、わたしが帰らないと妻の付添が……」
神永の白い眉は不快を示すように中央に寄せられる。
「儂の見立てではまだ逝かれはせん! まあ、奥方を見捨てるか否かはあんた次第じゃがな」
不安と安心のセット供給は、救済を求めて縋ってくる精神から冷静な判断力を奪っていく。
「よっ、よろしくお願いします」
トレードマークの銀髪をかきあげ、神永は満足そうに頷く。飯沼さんが堕ちた瞬間だった。これから修行という名の許に洗脳作業が始まることを、彼は知る由もなかった。




