私と数学と彼。
「いいじゃないか、お前の体で稼いだ金で姉にまともなものを食べられるようにしてやれば。姉に問題があるなら入院費も私が出そう。滞納分の授業料や修学旅行の積立金も。……だから、どうだ?」
私の言葉を聞いた彼は自分の数論に対する致命的な欠点を指摘された学者のように顔を強ばらせ、数学準備室を右往左往した。私がじっと彼の顔を見る程に彼は落ち着き無くし、口をパクパクと開いて何かを言いたげにした。
言おうとしているのに、言葉をだそうとしているのに声がない。そんな風だった。
どうしたのかと私が聞くと、彼は搾り出すような掠れた声で秋穂ちゃんに聞いたのかと言った。
秋穂というのは彼にまとわりついている件の女だった。異常なまでに弟を気にかけているあの姉にバレないように上手くやっていたのだが、あまりにも彼が鬱陶しいそうだったので私の口からそれとなく姉に伝えて妨害してやったことがある。騒ぎになったらしいが、彼の為を思えば致し方ないだろう。
私が何を、と彼に聞くと彼は口を結び、何でもないですと答えた。目は合わせない。
私はそこで遅まきながら彼の変数を見出した。つまり、彼にとって姉は泣き所だったのだ。
今日はこれで、と帰ろうとする彼の肩を掴んだ。吹奏楽部の伴奏が遠くから聞こえる。琥珀色の夕日が眩しい。
肩から二の腕、そして腰へと手を滑らせて耳元で分かるよな、と囁く。続けて誰も言わない有無と金はしっかり支払うことも伝えた。今まで出したことのないような優しい声色で甘く囁く。
その優しさは、その甘さはまるで砂糖のような手触りなのに、その実は鋭く光る刃だった。
飴細工でできた鋭い刃。
甘いはずなのに、優しいはずなのに、それは恫喝で、脅しで、脅迫だった。
稼いだ金で、姉にまともなものを食べさせてやればいいと言う。何を食べているか知らないし、考えればきっと分かることだろうが、今その場では全てを知っているかのように話しをした。私が知らないことを彼は知らないのだ。きっと知っていると思って震えているのだ。絶望の彼岸で打ちひしがれて、嗚咽を漏らしている。
葛藤に葛藤を重ねた彼は歯を食いしばり、悔しそうに頷いた。
私はその日、自分の生徒の体を、金で買った。