誰と?
「え? 何、姉さん」
彼は聞き返した。彼女は伝う。
「みんな悪い人よ、だから逃げなさい。逃げなさいったら!」
彼にとって頼れるものはこの場では彼女だけだった。自分の友人すらも怪しく目を光らせ、自分の恩師すらも何かを懐に隠している。
それ故に、頼れるのはその言葉だけで、その人だけで。それは必然的だった。
彼が出口に駆けると、背の高い女性は強く叫び、彼の背を追いかけた。
「その扉は開かない。絶対に開かない。だからその扉に触れるんじゃない!」
彼の姉が道に立ち塞がる。両の手を広げて行かせようとはしない。
どけと女が怒号を散らしても彼女は微動だにしなかった。
「ちっ」
女は凶器を振るい、彼女の頭を叩き割る。
一回、二回、そして三回目は彼女がよろけ、倒れたことで何にも当たらず、空を切った。
彼は扉を掴んでいた手を離し、自分の姉へと駆け寄る。声を掛けるが姉は一言も言葉を発しない。
「え? ……嘘だよね?」
揺するがビクビクと震えて、ヨダレを流すだけで何も答えない。ただ血走った眼球だけが彼を捉え、歪に凹んだ頭だけが、その答えを示していた。
急速に動きは鈍くなり、彼は姉の死を前に呆然と女を見上げた。
「先生」
「何だ」
「姉さんが」
「君の姉が?」
「姉さんが死んじゃったみたいなんです」
「そうだな。気にするな、どの道、あとで死んだ。それに別れの挨拶もさっきしただろ?」
「そう……ですよね。そうですよね」
目を丸くして、乾いた言葉を少年は呟く。
空虚な心を埋めるには悲しみすら足りないかのように、泣きもせず、喚きもせず彼は呟いた。
女はそれをめんどくさそうに眺めて、溜息をつく。
「あっ!」
不意に女は小さく驚き、後ろを振り返った。自分の腰のあたりに手を這わすがそれが見当たらない。
目の前に立つ人物の手の中にその装置はあった。自分の携帯電話。
「これで、ぼっかーんってやるんでしょ?」
「返せ」
「あはは、やだよ」
今まで沈黙し続けていた少女がそこにいた。長身の女はあからさまに苛立った表情でバットを握る。
「あ、ワタシも先輩と同じように殺すつもり? それ以上、近寄るとこれポッキリやっちゃうからね。そのこわーいバットも捨ててね?」
少女は足を引きづりながらケラケラと笑う。可笑しそうに笑う。
自分の狙い通りにことが及んだことが嬉しくて仕方がないというように笑う。
「返せ」
「嫌に決まってるじゃん。ねえ、笹本くん。言ったでしょ? こいつは悪党だって。君のお姉さんもワタシも端から生かすつもりはないんだって。ほら、一緒に行こう。あと肩貸してくれると嬉しいな」
少女は入り口にゆっくりと向かい、背を扉に預けると手招きする。
「先生、本当だったんですか?」
「違うに決まってるじゃないか」
「じゃあ、何で姉さんを殺したんですか?」
「邪魔だったから」
「それだけで?」
「ああ」
「酷いですね。先生、酷いですよ」
「…………最悪の終わり方だ」
そう呟くと、女はもう何も言わなかった。
少年を近くに置いて頬ずりする少女はただ、その時を楽しんだ。見せつけるように、誇示するように抱きしめ笑う。
「せんせー、あのさ、ここ爆発させるのってどうすればいいの?」
「何故そんなことを?」
「先生には死んでもらわないと」
「秋穂ちゃん……!」
「え、笹本くん。自分のお姉さんが殺されたのに、平気なの? ちゃんとカタキを取らないと。当然、スイッチを押すのは笹本くんだよ。ワタシはそんな酷いことできないもん」
「でも」
「でもじゃないんだよ。やるんだよ? そうでしょ。で、せんせー、どうすんの?」
有無を言わさない気迫で少女は少年をねじ伏せ、陽気に話す。
女は離れた位置からそれを見つめていた。そこには焦りも諦めも、切望もない。
ただあるのは少年への想い。
「……番号を打ち込め。ゼロ、ナナ、ナナ、ヨン。それでコールボタンを押せばいい」
「ゼロ、ナナ、ナナ、シ、と。これでせんせー、死んじゃうんだね。あっけないね。笹本くん」
「えっ」
少年は投げられたケイタイを持て余し気味に受け取り、液晶を眺め、次に姉を見つめ、そして体育館の中央にぽつりと立っている恩師を見つめた。
ボタンひとつで人が死ぬ。その事実に背筋が凍った。
「じゃあね、せんせー」
少女は笑い、少年を見つめた。少年はふるふると首を振るも、少女はそれを許さない。
「ほら、手伝ってあげるから。こうやって、こうだよ」
少年の手の上に少女は指を重ね、教師を見つめながら、呆気無くコールボタンを押した。
「あれ?」
「え……」
押した瞬間、明かりが消えた。
何かが暗闇の中を走り、続けてゴウンと鈍い音を立てた。続けて何度も何度もその音が少年の目と鼻の先で鳴り響く。
何かを叩きつける音は次第に、湿り気を含ませ、ぴちゃりぴちゃりと音を変えた。
「……な、に? 暗くて、秋穂ちゃん! 秋穂ちゃん! 秋穂ちゃん! せ、せんせえ……」
「ここだ」
明かりが灯される。床には赤い液体。倒れているのは先ほどまで自分の隣にいた少女。血に濡れたバット。
息を切らして、いつものように側に立っていたのは先ほどまで中央にいた教師だった。少年は息を止めて、その場に尻餅をついた。
「よく滑るからな、血は。ほら、手を貸してやろう」
「あ、あああああ!」
「何をそんなに驚いているんだ?」
少年は絶叫する。ただ一人、狂気の産声を上げて、恐れ、喚き、憎悪して教師に叫ぶ。
しかし、彼女はその声に揺らされることなく、微動だにしない。
「あ、あ、あっ! ああ……!」
「精一杯叫んで満足か? さあ、行こう。そろそろ夜が明ける。気の早い生徒か教職員が来ることも勿論恐ろしいが、それよりも時間がないことが私は不安だ」
そう女はいうと少年を無理やり立たせ、出口とは反対の方向へと進む。
「あの扉は開くと足元が爆発するようになっていてね。本当の出口は裏側なんだ」
「離して……」
「送信機を取られた時は冷や汗を掻いたよ。しかし、滑稽に終わってよかった。まさか彼女も電球を操作するコードとは思わなかっただろう。はは、滑稽だ」
「離して、下さい。秋穂ちゃんが……」
「死んだよ、彼女は。君がモタモタしてるから」
「秋穂ちゃん、生きてます。動いて、る。まだ動いてる!」
少年は目に涙を貯めて、モゾモゾと蠢く血まみれの少女を見た。腕は折れ曲がり、指はへし折れ、骨が飛び出た肉体は確かに彼に向かって手を伸ばしている。
「じき死ぬ」
「先生、おかしいです! なんで、そんな平気な顔していられるんですか!? 僕の姉さんを殺して、僕の友達を殺して、悪いとかごめんとか言うわけでもなくて、当たり前みたいな顔してて! 意味が分からないですよ! ……僕はついていけない」
「何を言ってる? 落ち着け」
「僕、先生のこと、分かりません!」
「分かった。彼女はあとで助けてやる。だからまずは外に出よう」
「もう、嫌だ! 嫌なんですよ、これ以上、人が死ぬなんて! 人を殺した人と一緒にいるのも嫌なんです! 先生、変です」
「外に出ないと彼女を殺す」
「好きにして……下さい。僕は、もう先生といるのは嫌です。僕は秋穂ちゃんを助けるんだ!」
そう言って少年は教師の手を振りほどいた。押しのけるように両手をぶつけ、少女へとおぼつかない足で向かう。
女はからんとバットを落とすと首を振った。
「待ってくれ。今のは言葉のアヤだ。殺すつもりはない。冗談だよ。さあ、ここは危険だから、私と一緒に行こう。あれはもう助からない。頭を念入りに潰したんだ。私がそれを一番良く分かってる。あれは脊髄反射だ。自意識からの反応じゃない。君の姉と同じだ。脳みそが潰れて頭からはみ出してるのを見ただろう? 血を吐いていたのは肺胞に肋骨が突き刺さっているか、内蔵が破裂しているからだ。どの道助からないのは明白だ。だから、今更意味はない」
「先生、もう……先生はダメです。もうダメなんです」
「何が? 何が駄目なんだ? 私は事実を述べているだけだ。何も間違ってはない。彼女が死ぬのは当然のことで、確率的にいっても生存は見込めない。……確立! そうだ確立だ。君も確立を考えれば、その正しさが分かるはずだ。人体の三十パーセント以上の血を失った場合の生存率は……。待ってくれ、それに彼女は脳内出血もしてるだろう! そう考えると確立はもっと低く……」
少年は憐れむように女を見つめると、少女の元へと走った。
「せ、正確な数字が必要なのか? 待ってくれ、今計算すらから。やめろ、私から離れてはいけない」
少年は振り返ることもなく走っていく。
「離れないでくれ。私を一人にしないでくれ。私を嫌わないでくれ、私はそれに耐えられない! 頼むから!」
誰もその声に答えない。その言語に返答をしない。叫ぶように声を上げても少年はそれに答えない。
横たわった彼の姉と少女がニヤリと不敵に笑ったような気がして、彼女はもう一度待ってくれと強く叫ぶ。けれども少年の心には届かない。
「……そうか」
彼女はケイタイに番号を入力するとコールのボタンを押した。迷わず押し切る。
不意に辺りが明滅し、赤い光が瞬いた。低い地鳴りのような破裂音。
それと同時に地面がはじけ飛んだ。鉄筋が引きちぎれて落ち、何か巨大なモノが屋根を押しつぶしているかのように、ありとあらゆる破片が降り注ぎ、宙を舞い、飛び交う。
少年は何が起こったのかと目を丸くして天井を見上げていた。それを女は愛らしく見つめ、名前を読んだ。
「ああ、そういえば下の名前で呼ぶのはこれが初めてだな……」
何かがぐしゃり押しつぶされ、何かが飛び散った。