私と。
数時間もの間、私は飽きもせず彼の顔を眺め続けた。これで見納めかもしれないと思うと目が話せなかった。瞬きすることすら惜しいような気がした。
私は天国だとか来世を信じていない。霊魂や、神様の存在すら信じない。
だからこそ、この一時が貴重で、狂おしいほど尊いものに感じられるのだ。一分一秒が過ぎ去ることが尊く、美しい何かを私に思わせる。数字の詰まった人形に、それ以外の意味を与えた彼との、この一時が耐え難い、絶えがたい何かを私に。
少しして彼がまどろんだ様子で起きた。小さくあくびをして、凝り固まった首をこきりと鳴らした。
「ふぁ……あれ? 僕、どれくらい寝てました? というか今何時ですか?」
時刻を伝えると彼は驚いた。私が睡眠薬入りの飲み物を飲ませたと打ち明けると彼はなるほどと笑った。憎んだり、それを気味悪がったりしない。だからこそ私には興味深く見え、そして危うく瞳に映る。
彼は純粋すぎるのだ。真の悪意、真の絶望に晒された時、きっと壊れてしまうだろうと思わせるような、そういう儚さを持っている。
「え? 先生ここ、学校ですよね? あ、ちょっと……」
彼の手を引っ張って体育館に向かう。道は暗いが街灯の光が薄く闇を照らしてくれているおかげで歩くことに不自由は感じない。彼は私の手を強く握りながら、おっかなびっくり夜を歩いた。
体育館の施錠を外し、中に入る。
そこは真の闇だった。外の暗闇すら、全てを飲み込んでしまうだろう、この闇には勝てないだろうと思えた。私は彼の手を握り返し、壁づたいに静かに歩いた。
大丈夫、君は私が守るから。
怪物が来ようとも私は君の手を離さない。
化物はこのバットで殴り殺す。
だからこの手を君も離さないで。
「何ですか、先生」
……いや。
器具庫に近づけば近づくほど静寂は遠のいた。キイキイと何かが叫び、何かが暴れ、意味のわからない言葉を叫んでいた。檻の中のサルだ。きっと病に犯されて、世界が違って見えているのだろう。
彼は暗闇の中、何度も私の顔を窺った。何が起こっているのか理解できていないのだ。私がそれとなく教えてやると彼は息を呑んだ。焦るように前に出たので抱きしめるように押さえつけた。
それはまだ早い。君はここで彼女が如何に狂ってしまったかを目にしなくてはならない。君の中にある彼女の評価を最低に下げるまでは私は君を離さない。
思えば彼女が一番恐ろしかった。彼女が一番の敵だった。彼女は私に勝るものをいくつも持っていた。
若さ、心、容姿、社会性、笑み、未来、優しさ。そして彼との距離。
それは絶対的に不可欠なもので、絶対的に足りなかったものだった。
自分勝手と蔑むのなら蔑めばいいと私は神に言う。愚かだと笑うのなら笑えばいいと私は神に言う。残酷だと責め立てるのなら笑ってやると私は神に言う。
それほどまでに私は彼女を恐れていて、一番消えてほしいと思っていた。彼が私の手から離れてしまうのではないかと気が気でなかった。だから彼女を煽る為にいくつもいくつも策を練った。爆弾魔は私の話しをケラケラと笑い、機械人形は殺してしまえと爬虫類のような目で笑った。
それでは駄目なんだ。駄目なんだよ。
それでは彼の心は私を選ばない。私は一番でなくてはならない。一番でなくては許せない。横並びは嫌なのだ。
練った策は上手くいき、彼女は自分から席を降りている。彼が側にいるとも知らず、滑稽にも彼の姉に暴力を振り続けている。そうするように彼女は手錠だけに留め、姉は拘束したままにしたのは私だが、彼がそれに気がつかなければ問題はない。
ブルブルと震え始めた彼の為に扉を開けた。ついでに天井のライトをひとつ灯す。
「笹本くん!」
半狂乱の彼女は私が側にいることも気がつかず、真っ先に駆けてきた。当然それを予期していた私はバットで思い切り彼女の腹を殴った。潰れてしまえと祈りながら振り切る。
お前が私の壁だ。
潰れろ。
潰れてしまえ。
「先生! なにしてるんですか!? 秋穂ちゃんが……あ」
君は相変わらず呑気だな。君の姉に暴力を振るっていた相手だぞ? そんな奴をいたわってどうする。
「そうですけど、でも。あ、姉さん……!」
掛けようとした彼の肩を掴む。残念だけど、君の姉はここで死ななければならないんだ、とはまだ言わなかった。私と君以外はみんな死ぬんだとも言わなかった。
ただ私は伝える。
誰かを選んで、誰かを見捨てろ。
その一言を。