僕と。
目を覚ます。いつの間に寝ていたんだろうと先生に時間を聞くと、数時間が経っていた。既に日にちは変わっている。下手をすれば、夜が明けている頃だ。だから僕はびっくりした。
「さっきの缶コーヒー、あれに睡眠薬を入れた。……なるほどって君はいつも純粋だ。どうしてとは聞かないのか?」
どうしてと僕は聞いた。
「名前のない彼女と、過去のない少年と自分を神様と信じて疑わない少女の都合だ」
訳がわからなかった。
車から出て少し歩いた。歩いた先は学校の体育館だった。雨が体育館の窓と天井をパラパラと叩く。天井を見上げても先が見えてこない。真っ暗で、永遠に暗闇が続いてるようだった。外のほうが明るいとすら思った。
目が慣れてくると、足元が見えてくる。数メートル先の白線や、つるりとした床がなんとなく掴めてきた。
先生が僕を引っ張って、器具庫の方に連れて行く。決して喋ってはいけないらしく、僕も先生も喋らなかった。
器具庫から空気の揺れを感じた。何かが動いていて、何かが蠢いているような、そんな揺れが静寂押しのけて僕のもとに届いた。近寄ると秋穂ちゃんが騒いでいることが分かった。
「何で攫ったワタシが攫われてるの? ねえ、ねえ、ねえ!? おかしいよ、おかしいよね? おかしいとワタシが思ってるならそれっておかしいんだよ! じゃあおかしいじゃん! おかしいって言いなよ、馬鹿! おかしいって、おかしいってねえ!」
そういって布団を叩くような音が扉越しにドンドンと響いた。僕がさっぱりわからないという空気を出していたのを察したのか先生がそっと僕の耳元に口を寄せて教えてくれた。
「あの子は気絶させただけだが、君の姉は紐で縛られていて、簀巻きにされている。だからこの音は君の姉が暴行を受けている音だよ」
さっと僕の全身から血の気が引いて扉を開こうとすると先生はその手を握って、僕を止めた。僕の口も手で塞がれる。
「まだそれは少し早い。しかしあの娘も不憫だね。何をしても望みには届かず、他人を傷つける為に自分を狂わせたのにそれすらも無駄になって、ただ支離滅裂で、怒り狂うだけなんてね。これほど滑稽なこともないだろう」
暗闇の中でも先生が唇を小さく持ち上げて笑っているのが僕には分かった。先生は他人の滑稽な姿が好きだった。趣味が悪いと僕が苦笑いを浮かべたのはいつだっただろう。
僕の逃避を他所に秋穂ちゃんはまくし立てるようにキンキンと叫んだ。叫んでバンバンと何かを蹴ったり、叩いたりしてる。
「アンタがいるともう、ダメなんですよ。何をやっても上手くいかない。ワタシね、笹本くんとあのまま行けば恋人同士になれたんです。先輩が邪魔しなければ、恋人同士に。笹本くんがワタシにあの日、告白してくれる予定になってたんです。毎日、辛い笹本くんをワタシが癒して、ワタシが慰めて、喜ばして。あんな血みどろの屋敷で、狂人と暮らしてて毎日辛いのを我慢して笑って、お金もなくて、食べていくのも必死で、アンタに暴力振られて、教師に体売って、毎日ワタシが慰めなきゃ駄目だったんです。ワタシがいなかったらもうとっくに狂ってるんです、笹本くん。可哀想可哀想、笹本くん。アンタがバリバリ肉を齧ってるのを見て、壊れそうになりながらずっと笑ってて、可哀想可哀想、笹本くん。何でアンタやあの淫乱教師がワタシよりも先に手を出してて、それで認められてるの? 笹本くんはね、もっと綺麗なの。アンタ達みたいに汚いのと一緒にいちゃいけないの。ワタシみたいな優しい女の子といなきゃいけないの。わかる? ねえ? ねえ? 分かったら死んで下さい。分からないなら死んでよ」
先生はこらえ切れないといったようにクスクスと笑って「もういいだろう」と言って鍵を開けた。同時に何かをパチリと先生は押して体育館の明かりをひとつ点けた。暗闇が割れて、隆々とした鉄筋が見えた。明るさに少し目がくらむ。
「……笹本くん? 笹本くん! 笹本くん笹本くん笹本くうん!」
じゃらりと手錠を揺らして秋穂ちゃんが僕に近寄ろうとする。すると先生は車から持ってきた金属バットをフルスイングして秋穂ちゃんを器具庫に戻した。ぐうっというような低い声が聞こえて、僕はまた驚いた。
「教師になってからの暴力というのは格別だな。それも相手が生徒なら尚の事」
僕は何が何だか分からなくて、とりあえず姉さんの近くに寄ろうとした、けれど先生にやっぱり止められた。暗闇の中で姉さんは髪の毛をくしゃくしゃにして鼻血を出して、ぐったりと倒れていた。僕がのうのうと寝ている間にずっと秋穂ちゃんに暴力を受けていたのかと思うと泣きそうになった。
先生は深く深呼吸をして、腕時計を睨み、そして言った。僕を見ながら言った。
「今いる体育館は数分後か、あるいは数十分後に倒壊する。脱出できるのは君とあと一人だけ。君は誰を連れて行く?」
えっ?