私と。
「もしもこれから、この町の沢山の人間が死ぬことになったらどうする? 沢山というのは本当に沢山の人間だ。千人単位で人が死ぬとしたら君はどうする? ああ、どう死ぬかということも重要だね。主に毒ガスで死ぬんだがね、君はそれを知ったらどうする?」
ワイパーが水を弾く。シートが沈む音がして、彼がこちらを向いたことが分かった。
車は赤信号に差し掛かり、少しばかりの余裕に私は彼をはっきりと彼の顔を見た。黒い帽子の男が傘も刺さずに彼の向かい側を歩いている。
「……本当ですか、それ」
「あくまでも仮定の話しだ。気分転換に少し考えてみよう。ここから学校まで最短でも三十分以上は掛かる。いつまでも気を張り詰めていると、本番の時に気疲れしてしまうよ」
「本番って……何ですか?」
「君の姉が死んでいるかもしれない状況のことだ」
えっと小さな声を出して彼は青ざめた。直ぐ本気にするのがところがまた愛おしい。
「まあ、そんなことはどうでもいい。それよりも」
「そんな、どうでもいいわけ無いじゃないですか。姉さんが本当に死んで……」
「どうでもいいじゃないか、そんなこと。それよりももっと大切なことを考えなくてはいけないよ」
「それ以上大切なことって何ですか? そんなことあるんですか?」
あるさと頷いて、私はアクセルを踏んだ。緩やかにエンジンが唸り、ワイパーが激しく水を弾いていく。
「さっきの話しの続きのことだよ。この町の人間が沢山死んでしまうことになったら君はどうする?」
「そ、それはやっぱり、びっくりしますよ」
「そうではなくて」
また彼は小さな声を出して首を傾げる。私はヘッドライトに目を向けながら言葉を続ける。
「君はそれを知ったら何をする? それも直前で、こんな風に車の中でその犯人の一味に告白されたとしたら」
ハンドルを切って、道を曲がった。制服姿の高校生が自転車を漕ぎながらビニール傘を差している。殆ど濡れているように見えるが、それは意味があるのだろうか?
「ええっと、大切な人と逃げるか、安全な場所に避難します」
「誰と逃げる? 君は今、誰を最初に思い浮かべたんだ? 姉か、それともあの子か、もしかして……私か?」
「あの先生」
「何だ?」
「一人じゃなきゃいけないんですか? みんなとかそういうのは」
確かに答えは一択と決まっているわけじゃない。そういう考え方もなりなしかで言えばありだろう。しかし、重要なのは優先順位だ。救う順番が早ければ早いほど、死ぬ確立は下がる。逆に言えば救う順番が遅い人間は死ぬ確立が上がる。
いやそういう誤魔化しはやめよう。
「単刀直入に言おう。君は誰が一番大事なんだ? 私には君以外、大切な物が何も無い。いや間違っても、君が心の底から大切だと考えているわけじゃない。君くらいしか、私にはないのだから、必然的に君が大切な物の順位の上位に来てしまうんだ。いやそれでね、極限的な状況で、一人しか選べないとしたら君は誰を選ぶんだろうと思ってね。聞いてみたくなった。君は“もてる”ようだし、誰を選ぶのだろうと」
車内は少し暑いよう思えた。私は手汗を拭い、少し窓を下げて車内の空気を入れ替える。雨水と枯れ草が混ざったような匂いが車内に流れこんだ。
この匂いは嫌いじゃない。
「姉さんは小さい頃から僕を心配してくれてて、凄く世話焼きで、大変な時も助けてくれて。先生は少しエッチですけど、いろいろ教えてくれるし、たまに笑うと綺麗ですし、僕が苦しい時に援助してくれて。秋穂ちゃんは積極的になれない僕に、はっきり言ってくれて、友達になってくれて、いつも筆記用具とかノートとか貸してくれて……」
窓を閉じる。密閉された空気をエンジンだけが振動させた。
沈黙。それはそれは長い長い、けれど短い沈黙。
「ああ、駄目だ。僕には誰が大切とか、何が大切とか選べないみたいです。あははは、また秋穂ちゃんに馬鹿だって笑われちゃうな」
「そうか」
その秋穂が君の大切な姉を誘拐したんだ、とは私は言わなかった。その秋穂を私が更に誘拐して、閉じ込めていることも当然言わなかった。そういう筋書きなのだ。
ただ私は一言付け加るようにいう。
「君はこの先、きっと苦労することになるだろうな」
「そう、ですか?」
「ああ」