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さよならの夜に、金の糸を繋ぐ  作者: 久遠 睦


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さよならの夜に、金の糸を繋ぐ

最終章:新しい名前をつける夜


三月の終わりの夜風は、どこか甘い匂いがした。  近くの公園で早咲きの桜がほころび始めたのだろうか。あるいは、誰かの家の沈丁花だろうか。  紬は、完成した小鳥が入った桐箱を胸に抱き、工房の出口に立っていた。

「……本当によかったんですか。こんなに綺麗にしていただいて」

何度目かのお礼を言うと、蓮は少し困ったように眉を下げて首を振った。

「お礼を言うのは僕の方です。この子が、僕に自信を取り戻させてくれましたから」

先ほど、作業台の上で対面した小鳥は、息を呑むほど美しかった。  白磁の肌に走る、金色の稲妻。  かつて「傷」だった場所は、今は光を放つ「景色」となり、その鳥に高貴な魂を宿らせているようだった。  祖母が言った『守ってくれる』という言葉の意味が、今になって分かった気がした。あの日、身代わりになって砕け散ることで、この鳥は紬をここへ導き、蓮という人に出会わせてくれたのだ。

「行きましょうか」

蓮が上着を羽織り、工房の電気を消した。  パチン、と音がして暗闇が落ちる。けれど、以前のような心細さはもうない。  鍵をかける金属音が、何かの終わりではなく、始まりの合図のように響いた。

二人は並んで、夜の路地を歩き出した。  駅までの道のりではない。  「少し歩きませんか」という蓮の誘いで、川沿いの遊歩道へと向かっていた。

街灯が川面を照らし、ゆらゆらと光の帯を作っている。  最初は少し距離を空けて歩いていた二人だったが、どちらからともなく寄り添い、肩が触れ合う距離になった。  手が触れる。  蓮の、大きく節くれだった手が、紬の手を包み込むように握った。  言葉はいらなかった。その体温だけで、紬の心は満たされていた。


「……僕、ずっと考えていたんです」

ぽつりと、蓮が口を開いた。

「完璧な図面が引けなくて、家を飛び出して、逃げるようにこの仕事を始めました。壊れたものを直すことで、自分の罪滅ぼしをしているつもりだった。でも、違いました」 「違った?」 「ええ。直していたんじゃない。教わっていたんです。……壊れても、また繋がれる。形が変わっても、愛してくれる人がいる。そのことを、器たちと、あなたに教わりました」

蓮が足を止め、川の方を向いた。  紬も立ち止まる。  彼の横顔は、初めて会った時の、世捨て人のような能面ではなかった。悩み、迷い、それでも誰かを愛そうとする、生身の人間の顔をしていた。

「相原さん。僕は不器用で、気の利いた言葉も言えません。仕事に没頭すると周りが見えなくなるし、またあなたを寂しがらせるかもしれない」

彼は一度言葉を切り、紬の方へ向き直った。  その瞳が、真摯に紬を射抜く。

「でも、もし二人の間にヒビが入ったら、その時は僕が直します。何度でも、時間をかけて、金の糸で繋ぎ直します。……だから、僕の隣にいてくれませんか」

それは、どんな甘い愛の言葉よりも、紬の胸に響く誓いだった。  「絶対に幸せにする」とか「一生守る」という無責任な約束ではない。  「壊れるかもしれない」という前提に立ち、それでも「直していく」という覚悟。  一度人生に挫折し、痛みを知っている大人だからこそ言える、リアルで誠実なプロポーズだった。

紬の目から、涙がこぼれた。  悲しい涙ではない。あまりにも心が温かくて、溢れ出してしまったのだ。

「……私の方こそ、面倒くさいですよ」

紬は泣き笑いのような顔で答えた。

「強がりだし、可愛げがないし、すぐ一人で抱え込もうとするし。……でも、一ノ瀬さんがいてくれるなら、弱音を吐く練習ができる気がします」

「ええ。僕が聞きます。全部」

蓮がそっと手を伸ばし、紬の頬を伝う涙を親指で拭った。  その指先の、少しざらついた感触が愛おしい。  紬は彼の手に自分の手を重ね、頬を寄せた。


「あのね、蓮さん」

初めて、名前で呼んだ。  彼が驚いたように目を瞬かせ、それから嬉しそうに目を細める。

「私、ずっと『欠けてること』が怖かったんです。三十代で独身になることも、婚約破棄されたことも、性格が可愛くないことも。……自分は欠陥品だって思ってました」 「……」 「でも今は、この欠けた部分があってよかったって思います。だって、ここが欠けていたから、あなたの出っ張っている部分と、カチッて噛み合ったんですもん」

ジグソーパズルのピースのように。  あるいは、割れた器の断面のように。  互いの欠落こそが、二人を結びつける最強の接着面だったのだ。

蓮は優しく微笑み、紬を抱き寄せた。  川風が冷たかったが、腕の中は春のように温かい。  見上げると、夜空に月が出ていた。  満月ではない。少し欠けた月だ。  けれど、その欠けた部分があるからこそ、残った部分が冴え冴えと輝いて見える。

「……あんな月になりたいですね」  蓮が夜空を見上げて言った。 「完璧な円じゃなくても、誰かの足元を照らせるような」 「はい。なれますよ、きっと。私たちが、繋がっていれば」

二人は月明かりの下、長い口づけを交わした。  それは燃えるような激しいキスではなく、漆がゆっくりと乾いて固まるような、静かで永続的な口づけだった。


家に帰り、紬はリビングの棚の特等席に、桐箱から出した小鳥を飾った。  かつては、元婚約者との思い出の品が並んでいた場所だ。今はもう、それらは綺麗さっぱりなくなっている。  がらんとした棚に、一羽の金継ぎの鳥。  その姿は、この部屋の空気を一変させた。  過去の墓場だった部屋が、未来を育む場所に変わったのだ。

紬はスマートフォンを取り出し、蓮にメッセージを送った。  『無事に着きました。小鳥も、嬉しそうです』  すぐに既読がつき、返信が来る。  『よかったです。……来週の土曜、また会えますか? 今度は、美味しいコーヒーの店を見つけたんです』

修理のためではない。  ただ、会いたいから会う。  そのシンプルな約束が、こんなにも心を躍らせるなんて。

紬は小鳥の背中の、金のラインを指先でそっと撫でた。  微かな凹凸が、指先に伝わる。  これは傷跡だ。  けれど、もう痛くはない。

「……ありがとう」

誰にともなく呟いた。  私を捨てた彼にも。私を頼ろうとした彼女にも。そして、私を壊して、直してくれた運命にも。  すべての「さよなら」は、この「金色の夜」に繋がっていたのだ。

紬は部屋の明かりを消した。  暗闇の中で、小鳥の金の糸だけが、微かに光をはらんで輝いているように見えた。  明日もきっと、いい日になる。  そう信じて、紬は新しいシーツに包まり、深く穏やかな眠りへと落ちていった。


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