さよならの夜に、金の糸を繋ぐ
第七章:金色の景色
三月に入り、風の中に微かに春の匂いが混じり始めていた。 路地裏の梅の木が、ほころび始めている。 紬が初めてこの工房を訪れたのは、冷たい雨の降る十月だった。あれから五ヶ月近い時間が流れていた。
今日は、特別な日だ。 小鳥の修復の、実質的な最終工程。「粉蒔き(ふんまき)」が行われる日。 紬はいつもより少し背筋を伸ばし、淡い桜色のニットを選んで工房へ向かった。 引き戸を開けると、蓮はすでに準備を整えて待っていた。 作業台の上には、いつもの道具に加え、小さな竹筒や、真綿、そして和紙に包まれた微細な粉が用意されている。
「お待ちしていました」 蓮の声は、いつもより少し緊張を帯びているように聞こえた。 あるいは、そう感じているのは紬自身かもしれない。 これが終われば、もうここへ通う理由はなくなる。その寂しさが、喉の奥に小骨のように引っかかっていた。
「いよいよですね」 「はい。今日は、最も神経を使う工程であり……最も美しい瞬間でもあります」
蓮は紬をいつもの丸椅子に促すと、自身も作業用の椅子に深く座り直した。 照明の角度を調整し、手元を照らす。 小鳥の姿が浮かび上がる。 白い磁器の肌に、黒い漆のラインが走っている。それはまだ、痛々しい傷跡のように見えた。 先週塗った赤い漆の上に、さらに薄く漆を塗り重ね、それが乾ききる直前の絶妙なタイミングを見計らっているのだと、以前教わった。
「始めます」
蓮が静かに宣言し、極細の筆を手に取った。 呼吸が止まるような静寂が、工房を支配する。 外の喧騒が遠のき、世界にはこの作業台の上だけの時間が流れているようだった。
蓮は筆先に微量の漆を含ませ、黒いラインの上をなぞっていく。 その手つきは、綱渡りをする人のように慎重で、かつ迷いがない。 見ているだけで、指先が痺れてくるような緊張感。 けれど、紬の視線は蓮の横顔に吸い寄せられていた。 伏せられた長い睫毛。何かを祈るように結ばれた口元。 その真剣な表情は、かつて彼が「完璧な図面」を引いていた頃のものとは違うのだろうか。 いや、きっと根底にある情熱は同じだ。ただ、その情熱を向ける先が、「正しさ」から「慈しみ」へと変わっただけなのだ。
一通りの漆塗りが終わると、蓮は「粉筒」と呼ばれる、鶴の羽がついた竹の筒を手に取った。 その中には、純金の粉が入っている。
「いきます」
蓮が筒を小鳥の傷の上で優しく振る。 トントン、と指先で筒を叩く。 その瞬間、舞い落ちた金の粒子が、漆の濡れたラインに吸着していく。
――あ。
紬は思わず息を呑んだ。 魔法だった。 それまで「傷」でしかなかった黒い線が、金色の光を纏った瞬間、まるで稲妻のような、あるいは雲間から差す光の筋のような、神々しい「景色」へと変貌したのだ。
醜い傷跡を隠すのではない。 傷そのものを、最も高価で、最も美しい素材で飾り立てる。 「ここが割れた場所だ」と高らかに主張しながら、それは「だからこそ美しいのだ」と歌っているようだった。
次々と金が蒔かれていく。 首の断裂は、豪華な首飾りのように。 砕けた翼の傷は、風を切る黄金の軌跡のように。 瀕死の状態だった小鳥が、金色の血を通わせて、再び命を宿していく。
涙が出そうだった。 悲しいわけではない。ただ、あまりにもその変化が劇的で、圧倒されたのだ。 (私も……そうなれるの?)
心の中で問いかける。 健吾に捨てられ、里緒に利用されそうになり、ボロボロに傷ついた私。 年齢への焦りや、完璧主義への呪いで、黒く塗りつぶされていた私の心。 そこに今、蓮という人が、金粉を蒔いてくれている。 「そのままでいい」「それが美しい」と言って。
作業を終えた蓮が、ふぅ、と長く息を吐いた。 額には薄っすらと汗が滲んでいる。 彼は満足そうに小鳥を眺め、それからゆっくりと紬の方へ向き直った。
「……どうですか」
紬は言葉が出なかった。 ただ、首を何度も縦に振った。 「綺麗……。本当に、綺麗です」 やっと絞り出した声は震えていた。 「割れる前より、ずっと強く見えます。……威厳があるというか、何かを乗り越えた顔をしてます」
「ええ。この小鳥はもう、ただの量産品ではありません。世界に一つだけの、あなたの小鳥です」
蓮の言葉が胸に染みる。 世界に一つだけ。 それは、「代わりがきく存在」として扱われた紬にとって、何よりの救いの言葉だった。
「これで、漆が硬化すれば完成です。あとは余分な金粉を払い落として、磨き上げるだけ」 蓮が少し寂しげに言った。 「……長いようであっという間でしたね」
その言葉を聞いた瞬間、紬の胸に冷たい風が吹き抜けた。 完成。 それは、この小鳥を受け取って、ここを去ることを意味している。 依頼人と職人。その関係が終わる時。
「……そうですね」 紬は努めて明るく返そうとしたが、うまく笑えなかった。 「これが終わったら、もう一ノ瀬さんにお会いする理由もなくなっちゃいますね」
言ってしまってから、後悔した。 まるで「会う理由を作ってくれ」とねだっているようで、惨めだった。 蓮は驚いたように目を見開き、そして困ったように視線を逸らした。
「……理由は、必要ですか」
その問いかけは、あまりにも繊細で、触れれば壊れてしまいそうな響きを含んでいた。
「僕たちは、何かが壊れていないと、会ってはいけないんでしょうか」
紬の心臓が早鐘を打つ。 それは、どういう意味? 期待していいの? それとも、私の依存を戒めているの?
蓮は立ち上がり、窓辺へと歩いた。 夕暮れの光が、彼の背中を逆光で縁取っている。
「僕は……この修理が終わるのが、怖かった」 独白のような声だった。 「あなたが毎週ここに来て、コーヒーを飲んで、少しずつ元気になっていくのを見るのが、僕の支えでした。……でも、小鳥が直ってしまえば、あなたは『強い人』に戻って、僕の前からいなくなってしまうんじゃないかって」
紬は息をするのも忘れて、彼の言葉を聞いていた。
「僕は臆病です。一度、大切な人を幸せにできなかった過去があるから、また同じことを繰り返すのが怖い。……あなたのように自立した素敵な女性には、僕みたいな欠陥のある人間よりも、もっと相応しい人がいるんじゃないかって、勝手に卑屈になって」
蓮が振り返る。 逆光の中で、彼の瞳だけが濡れたように光っていた。
「でも、さっき金粉を蒔きながら思いました。……傷は、隠すものじゃない。あなたと出会って、僕の古傷もまた、景色に変わろうとしているんだって」
紬はたまらず立ち上がった。 椅子の倒れる音が響くのも構わず、彼のもとへ歩み寄る。
「私、強くなんてないです!」 自分の声が上擦る。 「すぐ泣くし、八つ当たりして物壊すし、後輩にも冷たいし……全然、完璧じゃないんです。一ノ瀬さんが思ってるような素敵な人じゃない」
紬は蓮の目の前で立ち止まり、彼を見上げた。
「でも、そんな私を、一ノ瀬さんは『美しい』って言ってくれました。……あなたが金粉を蒔いてくれたから、私は自分の傷を好きになれたんです」
紬の手が、自然と蓮の手に伸びる。 以前のように彼が手を引くことはなかった。 彼もまた、紬の手を強く握り返してきた。 職人の、硬くて温かい手。
「理由なんて、いりません」 紬は蓮の目を真っ直ぐに見て言った。 「何も壊れてなくても、会いたいです。……ただ、あなたのコーヒーが飲みたいからって理由じゃ、駄目ですか」
蓮の表情が、一瞬で崩れた。 泣きそうな、でも堪えきれない喜びを含んだ笑顔。 彼は紬の手を引き寄せ、今度は躊躇なく、彼女をその腕の中に閉じ込めた。
漆と木の匂い。そして、彼の体温。 紬は彼の胸に顔を埋めた。 心臓の音が聞こえる。少し早い、彼のリズム。
「……十分すぎます」 頭上で蓮の声が降ってくる。 「僕も、あなたに会いたいです。これからは、修理のためじゃなく」
窓の外では、一番星が光り始めていた。 作業台の上には、金色の線で繋がれた小鳥がいる。 そして今、ここにもまた、見えない金の糸で繋がれた二人がいる。
かつて「一人でも大丈夫」と言われて捨てられた紬。 「正しさ」で人を傷つけたと悔やんでいた蓮。 欠けた二つの魂が、いまパチリと音を立てて嵌まり合った気がした。
「……完成品を受け取るのは、来週ですね」 紬が腕の中で呟くと、蓮が優しく彼女の髪を撫でた。
「ええ。来週の土曜日に。……それが終わったら、どこかへ出かけませんか。工房の外へ」 「はい。行きたいです」
それは、二人の新しい関係の始まりの約束だった。 紬は知っていた。 この幸せは、傷を知らない無垢な幸せよりも、ずっと強度が強いことを。 だって私たちは、一度壊れることの痛みを知っている。 だからこそ、今ある温もりを、決して手放さないように大切にできるのだ。
金継ぎの小鳥が、祝福するように静かに輝いていた。




