さよならの夜に、金の糸を繋ぐ
第六章:完璧な女、欠けた女
年が明け、東京には数年ぶりの大雪が降った。 路肩に積み上げられた雪は煤けて灰色になり、硬く凍りついている。 紬は足元の悪さに慎重になりながら、オフィスのエントランスを出た。 金曜の夜。本来なら蓮の工房へ向かうのは明日だが、今日はどうしても彼に渡したいものがあった。バレンタインのチョコレートだ。 恋人同士ではない。まだ「依頼主と職人」の枠を越えていない。けれど、先月のあの夜、互いの傷に触れたあの日から、二人の間には名前のない温かな水脈が通っている。 有名ショコラティエの高級なものではない。彼が好きなコーヒーに合いそうな、ビターなオランジェットを選んだ。
「……相原センパイ」
自動ドアを出たところで、か細い声に呼び止められた。 冷たい風に混じって聞こえたその声に、紬の足が止まる。 振り返ると、柱の陰に、厚手のダウンコートに身を包んだ女性が立っていた。 マスクをしていて表情はよく見えないが、その少し猫背気味の立ち姿と、揺れる瞳ですぐに分かった。
「井上……さん?」
井上里緒だった。 ここ一ヶ月ほど休職していて、姿を見ていなかった彼女。 最後に見た時は、ふわふわとしたパステルカラーのニットを着て、幸せの絶頂にいたはずだ。 今の彼女は、全体的に色がくすんで見えた。髪はパサつき、ダウンコートの裾からはヨレたスカートが覗いている。
「あの……少し、お時間いいですか。話したいことがあって」 「私に?」 「はい。……健吾さんのことで」
紬の中で、警戒アラートが鳴り響く。 今さら何を話すというのか。健吾にはもう「二度と会わない」と宣言し、連絡先も消した。これ以上、彼らの泥沼に引きずり込まれるのは御免だ。
「ごめんなさい、急いでるの」 紬は冷たく言い放ち、歩き出そうとした。 しかし、里緒がすがりつくように駆け寄ってくる。
「お願いします! 誰にも相談できないんです! センパイしかいないんです!」 なりふり構わない大声。行き交う人々が怪訝な顔で振り返る。 これ以上騒がれるのは迷惑だ。 紬は深くため息をつき、腕時計を見た。
「……十分だけよ。あそこのカフェで」
カフェの隅の席についても、里緒はしばらく俯いたままだった。 マスクを外した彼女の顔は、驚くほど痩せていた。チャームポイントだった丸い頬は削げ、唇は乾燥して荒れている。 かつて健吾が「守ってあげたい」と言った儚さは、今はただの「痛々しさ」に変貌していた。
「……それで? 話ってなに」 紬はブラックコーヒーを一口飲み、促した。 里緒は震える手でカップを握りしめ、ポツリポツリと語り始めた。
「健吾さん……最近、怖いんです」 「怖い?」 「はい。私がちょっとミスをしたり、家事ができなかったりすると、すごく冷たい目で見るんです。『お前は本当にダメだな』って。『紬ならこんなこと言わなくてもできた』って……」
紬の名前が出た瞬間、里緒が恨めしげに上目遣いでこちらを見た。
「いっつも比べられるんです。センパイの料理は美味しかったとか、センパイは気が利いたとか。私だって頑張ってるのに……どうして認めてくれないのって言ったら、『お前が泣くから疲れる』って」
紬は無表情を保っていたが、心の中では呆れ返っていた。 健吾のやりそうなことだ。 彼は自分が選んだ相手を、自分の理想の枠に押し込めようとする。枠からはみ出せば、「君のためだ」と言って矯正しようとし、それでも駄目なら「失望した」と切り捨てる。 かつて紬は、その枠に収まるために必死で自分を削った。 里緒は今、その枠に押し潰されそうになっているのだ。
「私、もう限界なんです。別れたいって言っても、『お前みたいな何もできない女、俺以外に誰が相手するんだ』って言われて……洗脳されてるみたいで、動けなくて」
里緒の目から、涙が溢れ出した。
「センパイ、どうしたらいいですか? センパイなら、健吾さんの扱い方、分かりますよね? どうやったら彼、優しくなってくれますか? あるいは、上手く別れる方法、教えてくれませんか?」
あまりに身勝手な言い分だった。 略奪した相手に、その男の操縦法を聞く? あるいは別れさせ屋の役回りを押し付ける? 無神経にも程がある。 かつての紬なら、ここで怒りを爆発させていただろうか。それとも、「可哀想な後輩」のために、大人の対応でアドバイスをしてあげただろうか。
紬は静かにカップを置いた。
「井上さん」 「はい……」 「あなた、自分が何をしてるか分かってる?」
低い声に、里緒がビクリと肩を震わせる。
「あなたは私の婚約者を奪ったの。私が築き上げてきた三年間の信頼と未来を、その『弱さ』を武器にして壊したのよ。……それを今さら、被害者ぶって私に助けを求めるの?」
「だ、だって……私、センパイみたいに強くないから……」
「強さなんて関係ない!」
紬の声が、カフェの店内に響いた。 隣の席の客が驚いてこちらを見たが、構わなかった。
「私が強かったから、傷つかなかったとでも思ってるの? 私が一人で平気だったから、あなたたちは許されたと思ってるの?」 紬はテーブルの下で拳を握りしめた。
「私も泣いたわ。死ぬほど泣いて、大事なものを壊して、それでも仕事に行って笑ってたの。……『強い』っていうのはね、生まれつきの才能じゃないの。泣きながらでも歯を食いしばって立っていることを選んだ、その結果なのよ」
里緒がぽかんと口を開けている。 彼女には、紬の言葉の本当の意味など伝わらないだろう。彼女にとって「強さ」とは、「自分を助けてくれる便利な機能」でしかないのだから。
「助けないわ」 紬ははっきりと言った。 「あなたの人生の尻拭いは、あなた自身でやりなさい。健吾とどうなるかも、あなたが選びなさい。私を巻き込まないで」
「……冷たい」 里緒が呟いた。 「やっぱりセンパイ、冷たいです。強い人は、弱い人の気持ちなんて分からないんですね」
その言葉は、鋭い刃物となって紬の胸を抉った。 冷たい。強い。分からない。 それは紬が一番恐れていたレッテルだった。 やはり私は、「完璧すぎて可愛げのない女」なのだろうか。困っている後輩を見捨てる、非情な人間なのだろうか。
でも。 ここで彼女を助けたら、私はまた「都合のいい女」に戻るだけだ。 自分を殺して、他人のために生きる人生に逆戻りだ。
「ええ、そうね。私は冷たいわ」 紬は伝票を掴んで立ち上がった。 「だからもう二度と、私に関わらないで」
自分の分のコーヒー代をレジに叩きつけ、紬は店を出た。 背後で里緒が泣いている気配がしたが、一度も振り返らなかった。
工房に着く頃には、雪がちらつき始めていた。 体は冷え切っていた。 引き戸を開けると、蓮が驚いた顔で出迎えてくれた。
「相原さん? 今日は土曜じゃ……顔色が真っ青ですよ」 「……ごめんなさい。ちょっと、寒くて」
ストーブの前に座らせてもらい、温かいココアを出された。 カップを持つ手が震えていた。寒さのせいだけではない。 先ほどの里緒とのやり取りが、泥水のように心の中で渦巻いている。 『やっぱりセンパイ、冷たいです』 その言葉がリフレインする。
「……一ノ瀬さん」 「はい」 「私、やっぱり嫌な女かもしれません」
紬は膝の上で拳を握りしめた。 「さっき、彼女に会いました。元婚約者の今の彼女に。……ボロボロになって、助けてくれって泣きつかれました。でも私、突き放しました。自分で何とかしろって、置き去りにしてきました」
蓮は黙って聞いている。
「あの子は弱くて、一人じゃ何もできなくて、本当に困っていたのに。私はそれを見捨てたんです。……私、健吾が言った通り、一人でも生きていける可愛げのない女で、他人の痛みが分からない冷血漢なのかもしれません」
涙が滲んだ。 彼女を助けなかったことへの後悔ではない。 「助けない」という選択をした自分自身を、まだ心のどこかで「正しくない」と裁いている自分が苦しいのだ。 完璧で優しくて強い先輩。その理想像を自ら壊したことへの罪悪感。
蓮が静かに立ち上がり、紬の前にしゃがみ込んだ。 視線の高さを合わせ、その淡い瞳で紬を見つめる。
「相原さん。……それは『冷たい』のではありません。『選んだ』のです」 「選んだ?」 「はい。あなたは、彼女の人生を背負うことよりも、ご自身の尊厳を守ることを選んだ。……それはとても勇気がいることです」
蓮の手が伸びてきて、紬の冷たい手をそっと包み込んだ。 その温かさに、張り詰めていた糸が緩む。
「優しい人は、往々にして、自分を犠牲にすることを『善』だと思い込まされています。断ること、突き放すこと、逃げること。それらを『悪』だと教え込まれている。……かつての僕もそうでした」
蓮の目が、遠い過去を見ているようだった。
「妻が不機嫌になるたびに、僕は自分の仕事や時間を犠牲にして機嫌を取りました。それが優しさだと思っていた。でも違った。それはただの『迎合』でした。お互いの境界線を曖昧にして、依存させ合っていただけだった」
蓮は紬の手を少し強く握った。
「あなたは今日、境界線を引いたんです。ここから先は私の領域、そこから先はあなたの領域だと。……それは決して冷たいことじゃない。自分を大切にするという、当たり前の権利を行使しただけです」
「……自分を、大切にする権利」
「ええ。僕は、今日のあなたを誇らしく思いますよ。……泣きながらでも、自分を守れたあなたを」
涙が頬を伝った。 そうだ。私は守りたかったのだ。 蓮に「金の線」で繋いでもらった、今の私の心を。 里緒の泥沼に巻き込まれて、また自分を粗末に扱うような真似をしたくなかったのだ。
「……ありがとうございます」 紬は涙を拭った。 「私、間違ってなかったんですね」 「間違いじゃありません。……あなたは、とても人間らしくて、美しい人です」
蓮の言葉が、凍りついた心に染み渡っていく。 完璧じゃなくていい。誰にでも優しい聖女じゃなくていい。 私は、私の好きな人たちだけを大切にする、ちっぽけで偏屈な人間でいい。 そう思えた瞬間、肩の荷が下りた気がした。
「あ、そうだ。これ……」
紬はバッグから、オランジェットの箱を取り出した。 少し箱の角が潰れてしまっている。さっき感情的になってバッグを握りしめたせいだ。
「バレンタインなんです。……ちょっと箱、潰れちゃいましたけど」 「僕に?」 「はい。一ノ瀬さんに食べてほしくて」
蓮は驚いたように目を見開き、それから嬉しそうに微笑んだ。 まるで少年のような、無防備な笑顔だった。 「嬉しいです。……甘いものは好きですから」
彼は箱を受け取り、大切そうに作業台の脇に置いた。 そして、作業中の小鳥の箱を持ってきた。
「見てください。今日の工程を」
箱の中には、黒い漆の上に、鮮やかな赤い漆が塗られた小鳥がいた。 「『赤塗り』ですか?」 「はい。これが最後の下地です。この赤が乾いたら、いよいよその上に漆を塗り、金粉を蒔きます」
赤。 血の色のように鮮烈で、けれど温かい生命の色。 黒い悲しみの上に、赤い情熱を重ねて、最後に金色の光を纏う。 そのプロセスが、紬の心の再生と完全にリンクしている気がした。
「次は、金ですね」 「ええ。来週には、金粉を蒔けると思います。……その瞬間を、一緒に見届けてくれませんか」 「はい。必ず来ます」
外の雪はまだ降り続いているだろう。 けれど工房の中は、春を待つ種子の中のように、静かなエネルギーに満ちていた。 私はもう、完璧な女じゃない。 欠けた部分を抱え、迷いながら、それでも自分の足で歩く女だ。 そして、その欠けた部分を愛してくれる人が、ここにいる。
紬は蓮が入れてくれたココアを飲み干した。 甘さが体に染み渡り、明日からの日々を戦う力をくれた。




