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さよならの夜に、金の糸を繋ぐ  作者: 久遠 睦


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さよならの夜に、金の糸を繋ぐ

第五章:繕う人の手


十二月の風は、刃物のように鋭かった。  コートの襟を合わせ、マフラーに顔を埋めるようにして歩く。けれど、紬の足取りは驚くほど軽かった。  先週末、健吾との食事――というよりは、決別の儀式――を終えてから、世界の色が変わって見えた。  グレー一色だった空が、冬晴れの澄んだ青に見える。  路地裏の乾いた空気さえも、美味しく感じる。

手には、駅前の和菓子屋で買った鯛焼きの袋を持っていた。  これまでは「手土産なんて気を使わせるだけ」と躊躇していたけれど、今日は自然と足が向いた。  ただ、一緒に温かいものを食べたい。そう思ったからだ。

工房の引き戸を開けると、石油ストーブの暖かな匂いと、いつもの漆の香りが迎えてくれた。   「こんにちは」 「……いらっしゃい」

一ノ瀬蓮は、驚いたように目を丸くした。  それもそのはずだ。紬がここに来るのはいつも土曜の午後なのに、今日は平日の夜、仕事帰りだったからだ。  蓮は慌てて立ち上がり、作業用のエプロンを直した。

「こんばんは。今日は、どうされました? 急ぎの用でも?」 「ううん、違うの。近くまで来たから」

嘘だった。わざわざ電車を乗り継いで来たのだ。でも、その嘘は自分を奮い立たせるための可愛い強がりだと思って許してほしかった。  紬は鯛焼きの入った紙袋を掲げて見せた。

「これ、焼きたてなんです。冷めないうちにと思って」 「……ありがとうございます。ちょうど、休憩しようと思っていたところです」

蓮が少し困ったように、でも嬉しそうに目尻を下げる。その表情を見るだけで、会社での疲れが湯気のように消えていく気がした。


二人はストーブの前の丸椅子に並んで座った。  蓮が淹れてくれたほうじ茶の香ばしい湯気が立ち上る。  鯛焼きを一口かじると、甘い餡子の熱が口いっぱいに広がった。

「あのね、一ノ瀬さん」  紬は鯛焼きを両手で持ったまま、切り出した。 「私、会ってきたんです。元婚約者に」

蓮の手が止まる。  彼は何も聞かずに、ただ静かに紬の横顔を見つめた。

「彼、やり直したいって言いました。今の彼女とうまくいってないから、やっぱり紬がいいって」 「……そうですか」 「でも私、断りました。もう二度と会わないし、連絡もしないって、彼の番号を消しました」

言いながら、胸の奥がすっと軽くなるのを感じた。  誰かに報告することで、その事実は初めて「過去」になるのだ。

「不思議なんです。あんなに辛くて、あんなに憎かったのに。彼を前にしたら、『ああ、この人はこういう人だったんだな』って、他人事みたいに思えて。……私が強くなれたのは、この場所があったからです」

紬は工房を見渡した。  薄暗い照明、整然と並んだ道具たち、そして静かに時を刻む古時計。  そして、隣にいるこの人。

「一ノ瀬さんが、『傷を隠さなくていい』って言ってくれたから。だから私、彼に言えたんです。『私はもう完璧じゃない、傷だらけだからあなたの理想にはなれない』って」

蓮はほうじ茶の湯気越しに、深く息を吐いた。それは安堵のため息のようにも聞こえた。

「……相原さんがご自身で選んだ答えなら、それが正解です」 「はい。私、すっきりしました」

紬が笑うと、蓮もつられるように微かに微笑んだ。  その笑顔は、今まで見た中で一番柔らかく、そして少しだけ寂しげだった。


「小鳥の修理も、次の工程に進んでいますよ」

蓮が話題を変えるように立ち上がり、作業台から小鳥の箱を持ってきた。  三週間ぶりに見るその姿は、また少し変化していた。  前回は茶色い接着剤で繋がれていただけだったが、今はその継ぎ目の上に、黒い線が塗られている。

「『中塗り(なかぬり)』です。錆漆の上から黒呂色くろろいろ漆を塗り重ねて、表面を滑らかにしています。この黒い線が、最後に蒔く金粉の土台になります」

白い磁器の肌に走る、黒いライン。  それはまるで、血管のようであり、あるいは地図のようでもあった。   「黒いんですね」 「はい。金が輝くためには、その下に深く、艶やかな黒が必要なんです。……悲しみや苦しみが、喜びの土台になるように」

蓮の言葉選びは、いつも詩的で、哲学めいている。  彼は職人でありながら、どこか求道者のようだと紬は思う。   「一ノ瀬さんの手は、魔法使いみたいですね」

ふと、紬は言った。  蓮の手元を見る。彼の指先は、常に漆や研磨剤で少し汚れている。爪の間には黒い染みが残り、指の腹は硬く荒れている。  けれど、その手はとても美しかった。  壊れた破片を慈しみ、時間をかけて繋ぎ合わせる手。  健吾の、白くて手入れされた綺麗な手とは対照的だ。健吾の手は何も生み出さず、ただ消費するだけの手だった。でも蓮の手は、失われた命を吹き込む手だ。

「……汚い手ですよ」  紬の視線に気づいたのか、蓮が反射的に手を隠そうとした。 「漆にかぶれることもありますし、洗っても落ちない汚れが染み付いている。……昔の、図面を引いていた頃の手とは違います」

「隠さないでください」  紬は衝動的に、蓮の手首を掴んでいた。  自分でも驚くほど大胆な行動だった。  蓮の体が強張るのが分かった。

「私、この手が好きです」  言葉にしてから、顔が熱くなるのを感じた。でも、止まらなかった。 「壊れたものを諦めないで、直そうとしてくれる手だから。……私の心も、この手が直してくれたようなものだから」


蓮は動かなかった。  掴まれた手首を引くこともせず、かといって握り返すこともせず。  ただ、困惑と、恐れのような色が瞳に揺れていた。

「……相原さん。僕は、直してなんかいません」  絞り出すような声だった。 「僕は、ただの臆病者です。一度壊してしまった罪悪感から逃げるために、目の前の物を直しているだけだ。……本当は、怖いんです」

「何が、怖いんですか?」 「触れることが」

蓮が自嘲気味に笑う。   「人の心も、関係も。深く触れれば、また僕のせいで壊れてしまうんじゃないか。僕の『正しさ』や『こだわり』が、また誰かを傷つけるんじゃないか。……だから僕は、物と向き合っている方が楽なんです。物は、文句を言いませんから」

それは、彼が初めて見せた弱音だった。  「妻を追い詰めた」という過去の告白は、どこか整然としていた。けれど今の言葉は、生々しい現在の痛みだ。  彼はまだ、自分を許せていない。  自分は「壊す人間」だという呪いの中にいる。

紬は掴んでいた手首から手を滑らせ、彼のごつごつした掌に、自分の掌を重ねた。  蓮の手は温かかった。  そして、わずかに震えていた。

「大丈夫ですよ」  紬は、かつて彼が小鳥に言った言葉を、そのまま彼に返した。 「私はもう、壊れてますから」

蓮が息を呑んで紬を見る。

「一度粉々に割れて、今やっと繋ぎ合わせている途中です。だから、一ノ瀬さんが触れたくらいじゃ、もう壊れません。……むしろ、あなたが触れてくれないと、金の線は描けないんです」

それは、金継ぎの話であり、二人のこれからの話だった。  私の人生という器には、あなたの手が必要なのだと。  遠回しな、けれど精一杯の愛の告白。

蓮の瞳が揺れた。  ガラス玉のようだった淡い瞳に、人間らしい熱が灯る。  彼はゆっくりと、本当にゆっくりと、重ねられた紬の手を握り返した。  その力は優しく、まるで壊れやすい薄氷に触れるようだった。


「……金粉を蒔くのは、まだ先です」  蓮が低い声で言った。 「黒い漆が完全に乾いて、研いで、また塗って。……その準備ができるまで、待っていてくれますか」

「はい。私、待つのは得意になりました」 「……そうですか」

蓮は、紬の手を両手で包み込み、そのまま額に押し当てた。  拝むような、祈るような仕草。  掌に、彼の前髪が触れる。そして、熱い吐息がかかる。    キスよりも、抱擁よりも、深く魂が繋がる音がした。

ストーブの上で、薬缶やかんが小さく音を立てている。  外では北風が窓を叩いているが、この狭い工房の中だけは、春の陽だまりのように穏やかだった。

私たちは、共犯者だ。  不器用で、過去に傷を持ち、臆病な大人同士。  けれど、欠けた部分があるからこそ、こうして凹凸おうとつを埋め合うように手を繋ぐことができる。

しばらくの間、二人は言葉なく、ただ互いの体温を感じ合っていた。  この黒い漆の線の上に、いつか眩い金色の未来が乗ることを信じて。


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