さよならの夜に、金の糸を繋ぐ
第四章:呼び出し音の亡霊
金曜日の夜。 丸の内界隈のオフィスビルから吐き出された人々が、週末の解放感を纏って通りを行き交う。 華やかなイルミネーションが点灯し始めた並木通りを、紬は重たい足取りで歩いていた。 胃のあたりに、冷たい鉛が居座っているような感覚がある。
待ち合わせ場所は、二人が付き合っていた頃によく使っていたイタリアンバルだった。 健吾が指定してきたのだ。「あそこのピザ、久しぶりに食べたいな」と。 その神経の図太さに、呆れを通り越して感心すら覚える。別れ話の修羅場を演じた相手と、思い出の店で食事をしようなんて。 あるいは、彼の中ではもう「修羅場」は過去のものとして美化されているのかもしれない。
店のドアを開けると、喧騒とガーリックの香りが押し寄せてきた。 奥のテーブル席に、見慣れた背中があった。 少し猫背気味の、頼りなげな背中。かつては、それを「私が支えてあげなきゃ」と愛おしく思っていた。けれど今は、ただのくたびれたスーツ姿の男にしか見えない。
「……待たせてごめん」
紬が声をかけると、健吾が弾かれたように顔を上げた。
「紬! ああ、来てくれてありがとう」
その顔を見て、紬は息を呑んだ。 老けていた。 たった一ヶ月半しか経っていないのに、目の下には濃いクマがあり、頬がこけている。いつも綺麗に整えられていた髪は伸び放題で、襟足がワイシャツにかかっている。アイロンのかかっていないシャツの袖口は、少し汚れていた。 清潔感が取り柄だった彼の、見る影もない姿。
「元気そうだな、紬。……なんか、雰囲気変わった?」 健吾が媚びるような上目遣いで言った。 「そう? 変わらないわよ」 「いや、なんか……綺麗になった。前より柔らかい感じがする」
それはそうだろう。 あなたのために眉間に皺を寄せて献立を考えたり、あなたの機嫌を伺ってピリピリしたりする必要がなくなったのだから。 そして何より、週末の路地裏で過ごす静謐な時間が、紬の表情から険しさを取り除いていた。
「注文、まだだよね。適当に頼んでいい?」 「ええ、お任せするわ」
健吾が店員を呼び、ワインと料理を注文する。その手慣れた仕草に、かつてのデートを思い出しそうになり、紬は慌てて水を飲んで記憶を流し込んだ。
「……で、話ってなに?」
前置きは不要だった。紬は単刀直入に切り出した。 健吾はグラスワインを一口飲むと、ため息交じりに言った。
「里緒ちゃんのことなんだ」 「そう言ってたわね」 「あの子……最近、会社に来てないだろ?」
確かに、ここ数日、里緒は体調不良という理由で欠勤していた。 その皺寄せは全て紬に来ている。彼女がやり残したデータ入力、クライアントへの連絡。それを片付けながら、紬は心のどこかで予感していた。これがただの風邪ではないことを。
「メンタルが、不安定なんだ」 健吾が絞り出すように言った。 「夜中に何度も起こされる。『私と仕事どっちが大事なの』って泣かれて、朝まで宥めて、俺も寝不足で……。会社でも、ちょっと注意されただけで過呼吸みたいになるし」
紬は無表情に聞いていた。 予想通りすぎて、驚きもしない。 里緒は元々、感情の起伏が激しい子だ。それを「守ってあげたい儚さ」と捉えたのは健吾だ。
「それで?」 「家事も全然できないんだ。部屋はぐちゃぐちゃだし、食事もコンビニ弁当か外食ばかり。俺、この一ヶ月で胃炎になっちゃってさ」
健吾が同意を求めるように紬を見る。
「紬はすごかったよな。仕事も完璧なのに、家事も手抜きしなかった。栄養バランスとか考えてくれてたし、部屋もいつも綺麗だった。……俺、紬のありがたみが、離れてみてやっと分かったよ」
カチン、と乾いた音がした。 紬の中で、何かが冷たく凍りつく音。
彼は今、紬を褒めているのではない。 紬の「機能」を褒めているのだ。 高性能な家事ロボット。文句を言わずに働くメンテナンスフリーな母親。 彼が恋しがっているのは「相原紬」という人間ではなく、「快適な生活」そのものだ。
「……それは、あなたが選んだことでしょう」 紬の声は冷ややかだった。 「彼女は弱くて、一人じゃ生きられないから放っておけない。そう言って私を捨てたのはあなたよ。その『弱さ』に今さら文句を言うの?」
「だって、限度があるだろ!」 健吾が少し声を荒らげた。周囲の客がちらりとこちらを見る。 「支え合うのがパートナーだろ? 一方的に寄りかかられて、俺の人生まで沈みそうなんだよ。それに比べて紬は……」
健吾がテーブル越しに手を伸ばしてきた。 紬の手に、彼の手が触れる。 かつては愛おしくて、繋ぐだけで安心したその手。 なのに今は、濡れた落ち葉が張り付いたような不快感しか覚えなかった。
「紬、俺たち、やり直せないかな」
出た。 その言葉が出るのを待っていた。 これを言われたら、私はどう思うだろうか。揺れるだろうか。やっぱり彼が好きだと、情けなく縋ってしまうだろうか。 そう思っていた。 けれど実際は――無だった。 驚くほど、心が動かなかった。
「里緒ちゃんとは別れる。あの子には、もっと暇な男がお似合いだ。俺には、紬みたいな自立した大人の女性が必要なんだよ」
自分勝手な理屈。 あの子が可哀想だと言って私を切り捨て、今度はあの子が重いと言って切り捨てる。 この人は、誰も愛していない。 自分が「頼られる自分」に酔いたいだけで、その負担が許容量を超えると被害者ぶって逃げ出す。 ただの、弱い男だ。
その時。 ブブブブブブブ! テーブルの上に置かれた健吾のスマートフォンが、けたたましく振動した。 画面には『里緒ちゃん』の文字。 着信音は鳴らない設定にしているようだが、バイブレーションの音がテーブルを揺らし、まるで叫び声のように響く。
「……出ないの?」 「い、いいんだ。どうせ『今どこ』とか『早く帰って』とかだから」
健吾は顔をしかめて、スマホを裏返した。 それでも振動は止まらない。 ブブブ、ブブブ。 それはまるで、亡霊の呻き声のようだった。 かつて、紬もそうなりかけた。 彼に捨てられた夜、何度も電話をかけそうになった。繋がりたくて、声が聞きたくて、惨めに縋り付こうとした。 あの時、思いとどまれたのは、祖母の小鳥が割れたからだ。あの痛みが、紬をギリギリで踏み止まらせた。
もし、あそこで電話をしていたら。 私は今頃、里緒と同じように「重い女」として彼に疎まれていたかもしれない。 そう思うと、里緒への憎しみよりも、哀れみが湧いてきた。
振動が止まる。 と、間髪入れずにまた鳴り始める。 執念のような呼び出し音。
「……ねえ、健吾」 紬は静かに手を引き抜いた。 「私、やり直す気はないわ」
健吾が呆然とした顔をする。 断られるとは、微塵も思っていなかった顔だ。
「どうして? 怒ってるのは分かるよ。でも、俺たち三年も一緒にいたんだ。相性だって良かったし、結婚の話だって進んでたじゃないか。あの一時の迷いを、そんなに責めるのか?」 「一時の迷いなんかじゃない」
紬は彼を真っ直ぐに見据えた。
「あなたは、私の強さが便利だっただけ。そして里緒さんの弱さが新鮮だっただけ。……あなたは『強い女性』が好きなんじゃない。自分に都合のいい『お母さん』が欲しいだけよ」
「な、なんだよそれ。俺は反省して……」 「私ね、大事なものを預けてる人がいるの」
ふと、口をついて出た言葉だった。 自分でも驚いた。 健吾の顔が歪む。 「……男か? 新しい男ができたのか?」
「そうじゃないわ。でも、その人は言ったの。『割れた傷を隠すな』って」 工房の、あの静かな空間を思い出す。 コーヒーの香り。木屑の匂い。蓮の、温度の低いけれど誠実な声。 『傷を受け入れ、その上に新しい景色を描く』
彼の言葉を思うだけで、背筋が伸びる気がした。 健吾は違う。彼は傷を見ようとしない。里緒の心の傷も、紬につけた傷も。ただ「なかったこと」にして、綺麗な場所へ逃げようとしているだけだ。
「私はもう、あなたの知っている『完璧な相原紬』じゃないの。傷だらけで、継ぎ接ぎだらけで、全然強くない。だから、あなたの理想には応えられない」
紬はバッグを手に取り、立ち上がった。 料理には手をつけていない。ワインも一口も飲んでいない。
「待てよ! 紬!」 健吾が慌てて立ち上がろうとした時、再びスマホが振動し始めた。 ブブブブブブ! テーブルの上で踊るように震えるスマホ。 健吾が舌打ちをして、画面を睨みつける。その醜い表情を見た瞬間、紬の中に残っていた最後の未練の欠片が、サラサラと音を立てて崩れ去った。
「電話、出てあげなよ。……彼女、泣いてると思うから」
言い残して、紬は店を出た。 背後で健吾が何か叫んでいたが、喧騒にかき消されて聞こえなかった。
外に出ると、冷たい夜風が頬を打った。 熱を持った体から、スッと力が抜けていく。 終わった。 本当に、終わったのだ。 別れを告げられたあの日よりも、ずっと明確に、私の中で彼が終わった。
涙は出なかった。 代わりに、強烈な空腹感を感じた。 そういえば、昼もろくに食べていなかった。 「……お腹、すいた」
独り言が漏れる。 不思議な清々しさだった。 あんなに憎かった里緒のことも、今はもうどうでもいい。彼女はこれから、あの弱い男と泥沼のような共依存を続けるのだろう。それは私への復讐ではなく、彼らが選んだ地獄だ。私はそこから、脱出できたのだ。
紬はスマホを取り出した。 画面には、健吾の連絡先が表示されている。 迷いなく『削除』をタップした。 確認画面が出る。『削除しますか?』 『はい』。 一瞬で消えたデータ。三年間の重みが、電子の海に消滅する。
そのあと、自然と指が動いていた。 履歴の中に、一度だけかけた番号がある。 『一ノ瀬 工房』
時間は夜の九時を回っている。 迷惑かもしれない。でも、声が聞きたかった。 今日あったことを報告するわけじゃない。ただ、あの静かな声を聞いて、自分が正しい場所に立っていることを確認したかった。
通話ボタンを押す前に、指が止まる。 これは、依存だろうか。 健吾に縋っていた里緒と、同じことをしようとしているのではないか。
(違う)
紬は首を振った。 埋めてもらうためにかけるんじゃない。 私が私でいるために、あの場所が必要なんだ。
紬はスマホをバッグにしまった。 電話はかけない。 その代わり、週末になったら、一番にあの工房へ行こう。 そして言おう。 「直りました」と。 小鳥のことではなく、私自身の心が。
見上げると、ビルの谷間に月が見えた。 少し欠けた月。 「欠けた月に、名前をつけるなら」 ふと、そんな言葉が浮かんだ。 欠けていることは、これから満ちていく予感だ。 紬はヒールの音を高く響かせ、駅へと歩き出した。 その足取りは、来る時とは比べ物にならないほど軽やかだった。




