さよならの夜に、金の糸を繋ぐ
第三章:路地裏の修繕室
季節が秋から冬へと移ろい始めていた。 街路樹の銀杏が鮮やかな黄色から茶色へと枯れ落ち、アスファルトを染めている。 紬の日常は、表面的には以前と変わらないペースで回っていた。
「相原チーフ、A案とB案、クライアントが迷っているそうで。追加のパース図、今日中に頼めますか」 「分かったわ。あとで見積もりの修正も入れて送るから」 「すみません、助かります! あ、あと井上さんが例の件でまたミスって……」 「……私が処理しておくから、彼女には別の資料整理を回しておいて」
オフィスでの紬は、相変わらず「頼れるチーフ」であり、「鉄壁の相原さん」だった。 健吾との婚約破棄は、周囲にはまだ伏せている。 後輩の里緒が健吾の新しい恋人であることも、社内では公然の秘密になりつつあったが、誰も紬の前ではその話題に触れなかった。それが気遣いなのか、あるいは「あの強い相原さんなら、もう割り切っているだろう」という無関心なのかは分からなかった。
里緒は相変わらず、無邪気という名の凶器を振り回していた。 給湯室で「彼がぁ、心配性でぇ」と惚気けている声が聞こえるたび、紬は自分のデスクで無表情にキーボードを叩き続けた。感情を殺すことは、得意分野になっていた。 ただ、以前と違うのは、週末の予定が埋まっていることだった。
土曜日の午後二時。 それが、今の紬にとっての聖域だった。
路地裏の、蔦の絡まる日本家屋。 引き戸を開けると、いつもの匂いがする。古い木材と、甘酸っぱいような漆の香り。 「こんにちは」 「いらっしゃい」
一ノ瀬蓮は、いつも作業机に向かっていた。 挨拶を交わすと、彼は手を止めて丸椅子を指し示す。そこが紬の定位置になっていた。
あの雨の日、ボロボロになって泣き崩れてから一ヶ月。 紬は毎週のように工房を訪れていた。 最初は「工程を見せてほしい」という名目だったが、途中からは言葉にするのも難しい、別の理由に変わっていた。 ここにいる時だけ、息ができるのだ。
「今日は、『麦漆』での接着が終わって、継ぎ目を削る工程です」
蓮が小鳥のパーツを作業台に置いた。 三つに割れていた胴体は、茶色い接着剤のようなもので繋ぎ合わされ、元の鳥の形を取り戻しつつあった。ただ、継ぎ目からは接着剤がはみ出し、まだ痛々しい傷跡のように見える。
「麦漆って、小麦粉と漆を混ぜたものでしたっけ」 「ええ。天然の接着剤です。乾くのに二週間以上かかりましたね。この時期は湿度が低いので、『室』の中の調整が難しくて」
蓮は小刀のような道具を手に取り、はみ出した漆をカリカリと慎重に削り始めた。 その音だけが、静かな工房に響く。 カリ、カリ、サッ。 心地よいリズム。 紬は、その手元をじっと見つめる。
仕事では「今日中」「なるべく早く」「効率的に」という言葉ばかりが飛び交う。 けれど、ここでは違う。 漆が乾くのを待つ。季節の湿度に合わせる。素材の声を聞く。 自分の都合ではなく、相手の都合に合わせて時間を流す。その豊かさが、ささくれ立った紬の神経を鎮めてくれるようだった。
「……会社でね」
紬は独り言のように呟いた。 蓮は手を止めずに「はい」と短く応じる。
「私、怖い顔をしてるみたいなんです。後輩たちが、私に話しかけるときだけ緊張してるのが分かるの」 「仕事に真剣だからでしょう」 「違うんです。余裕がないだけ。……彼に言われた『強い』って言葉が、ずっと呪いみたいに張り付いてて。弱みを見せたら負けだと思って、余計に鎧を厚くしてる気がして」
里緒の笑顔が脳裏をよぎる。 ミスをしても愛される彼女と、ミスを許されず、完璧であることを求められる自分。 「強いことって、損ですよね。誰も助けてくれないし、誰も守ってくれない」
愚痴っぽくなってしまったと後悔して口をつぐむと、蓮の手が止まった。 彼は小刀を置き、顔を上げた。
「僕は、そうは思いません」 「え?」 「強い素材は、美しいです。硬く焼き締められた磁器も、何百年も家を支える太い梁も。その強さがあるから、人は安心してそこに住めるし、使うことができる」
蓮の淡い茶色の瞳が、真っ直ぐに紬を見る。
「相原さんが強いのは、誰かを守るために、ご自身を鍛え上げてきたからでしょう? 仕事でも、私生活でも。それは尊いことです。損だなんて言わないでください」
誰かを守るために。 その言葉に、胸の奥が熱くなった。 そうだ。私は守りたかったのだ。 健吾との生活を。会社のプロジェクトを。後輩たちの成長を。 そのために必死で立っていた足を、「可愛げがない」と蹴り飛ばされた気がして辛かったけれど、この人は「尊い」と言ってくれた。
「……でも、強すぎて折れちゃいました」 紬が自嘲気味に笑うと、蓮もわずかに目を細めた。
「ええ。硬いものほど、衝撃を逃せずに割れる時は派手に割れます。……僕もそうでしたから」
蓮が視線を落とす。その横顔に、ふと深い陰が落ちた気がした。 以前、彼は「元建築士だ」と言っていた。そして「完璧な図面が全てだと思っていた」とも。
「一ノ瀬さんは、何を割ったんですか?」
踏み込んでいいのか迷いながら、紬は尋ねた。 蓮は小鳥の背中を指で撫でながら、ポツリと言った。
「家庭、です」
予想はしていたが、本人の口から聞くと重みが違った。
「僕は自分の正しさを疑わなかった。妻が『寂しい』と言っても、『君のために働いているんだ』と論破しました。設計図通りに人生が進むことが幸福だと信じて、彼女の心の悲鳴をノイズとして処理した。……結果、彼女は何も言わずに消えました。僕の正論が、彼女を殺したようなものです」
淡々とした口調が、かえって彼の中でまだその傷が血を流していることを感じさせた。 彼は「割れた側」の気持ちも、「割った側」の痛みも知っているのだ。 だから、あの時、紬の指先の傷を気遣ったのか。
「取り返しがつかない失敗でした。だから僕は今、こうして直しているのかもしれません。壊れたものでも、もう一度繋がることができると信じたくて」
蓮が再び小刀を握り、作業を再開する。 カリ、カリ。 その音は、先ほどよりも少し切なく、けれど祈りのように響いた。
「相原さん」 作業をしながら、蓮が言った。 「割れた器は、継ぐことで以前より強度が上がることがあります。漆が接着剤となり、さらに麻布を貼って補強することもある。……人の心も同じだと、僕は思いますよ」
一度割れたからこそ、知る痛みがある。 他人の痛みに寄り添える優しさが生まれる。 蓮は、今の紬を「割れたままの無様な状態」ではなく、「これから強く美しくなる途中」として見てくれている。
工房の窓から、西日が射し込んでいた。 舞う埃さえも金色に輝いて見える。 紬は、深く息を吐いた。会社で詰めていた息苦しさが、ここでは嘘のように消えていく。
「……コーヒー、淹れましょうか」 紬が立ち上がると、蓮が驚いた顔をした。 「あ、いえ、客人にそんな」 「いいんです。私、ここのコーヒー好きなんです。それに、一ノ瀬さんの手を止めたくないし」
紬は勝手知ったる手つきで奥のキッチンへ向かった。 数回通ううちに、豆の場所も、マグカップの場所も覚えてしまっていた。 お湯を沸かし、豆を挽く。 ゴリゴリという音が、工房の静けさに重なる。 不思議だった。 健吾と暮らしていた時は、家事は「義務」だった。「やらなきゃいけないこと」だった。 でも今は、ただこの静かな人のために温かいものを淹れたいと思う。 それは、とても自然で、穏やかな感情だった。
二人分のコーヒーを盆に載せて戻ると、蓮が作業の手を止めて「すみません」と頭を下げた。 並んでコーヒーを飲む。 会話はない。でも、気まずくない。 窓の外で、雀が鳴いている。
このままずっと、ここに座っていたい。 割れた小鳥が直るまでの三ヶ月と言わず、もっと長く。 そんな想いが頭をもたげた時だった。
ブブブ。 カウンターの上に置いた紬のスマートフォンが、無遠慮に振動した。 静寂が破られる。 画面には、見覚えのある名前が表示されていた。 まだ、削除できずにいた名前。
『健吾』
紬の背筋が凍りついた。 心臓が早鐘を打つ。 別れて一ヶ月。荷物も引き払い、もう連絡が来る用件などないはずだ。 まさか、結婚式の招待状の住所確認か? それとも、里緒との惚気か? 悪い想像ばかりが駆け巡る。
紬が画面を凝視したまま動けずにいると、蓮が気遣うように視線を寄せた。 「……出なくて、いいんですか」
その声にハッとする。 出るべきか。無視するべきか。 無視すれば、またかかってくるかもしれない。その恐怖を引きずるのは嫌だ。 紬は震える指で、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『あ、紬? 俺だ、健吾だ』
耳元で響く、懐かしくて憎らしい声。 その声のトーンは、予想に反して、ひどく疲弊し、どこか焦っているようだった。
『急にごめん。あのさ、ちょっと会えないかな。話したいことがあるんだ』
話したいこと。 今の私に?
「……用件は何? 私、今忙しいんだけど」 『電話じゃ言えない。頼む、一度だけでいいんだ。……里緒ちゃんのことなんだけど』
里緒の名前が出た瞬間、紬の中で冷たい炎が燃え上がった。 やはり、彼女のことか。 仕事でのミスの尻拭いをさせられるだけじゃ飽きたらず、プライベートのゴタゴタまで私に持ち込むつもりなのか。
「私には関係ないわ」 『関係あるんだよ! あの子、紬の話ばっかりするんだ。紬先輩ならこうしてくれた、先輩なら分かってくれたって……俺、どうしたらいいか』
それは、悲鳴にも似た嘆きだった。 かつて「俺がいないと駄目なんだ」と誇らしげに語っていた男の、成れの果て。 紬は、ふと視線を上げた。 目の前には、蓮がいる。 彼は何も言わず、ただ静かに紬を見守っている。その瞳は、嵐の中の灯台のように安定していた。 彼がいる場所と、電話の向こうの健吾がいる場所。 その温度差が、紬に冷静さを取り戻させた。
「……分かったわ」 紬は短く告げた。 「来週の金曜、仕事の後でいいなら」
逃げてはいけない気がした。 これは、過去の自分への決着だ。 電話を切り、スマホを伏せる。 深呼吸をしてから顔を上げると、蓮が心配そうに眉を寄せていた。
「大丈夫ですか。顔色が悪い」 「……元婚約者からです。会いたいって」 「会うんですか」 「はい。会って、ちゃんと終わらせてきます。私が前に進むために」
そう宣言した紬の声は、自分でも驚くほどはっきりとしていた。 蓮は少しだけ驚いたような顔をして、それからゆっくりと頷いた。
「行ってらっしゃいませ。……ここは、いつでも開いていますから」
帰ってくる場所がある。 その事実だけで、紬は戦場へ向かう勇気を持てる気がした。 作業台の上で、継ぎ目を削られた小鳥が、窓からの光を浴びて白く輝いていた。 それはまだ飛べないけれど、確かに再生へと向かっている。 私も同じだ。 紬は心の中でそう呟き、残ったコーヒーを飲み干した。 苦味の奥に、確かな甘みがあった。




