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さよならの夜に、金の糸を繋ぐ  作者: 久遠 睦


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さよならの夜に、金の糸を繋ぐ

第二章:砕けた守り神


目が覚めたとき、世界はひどく静かだった。  カーテンの隙間から差し込む白い光が、空気中の塵を照らし出している。  紬はリビングのフローリングの上で、体を丸めるようにして眠ってしまっていたらしい。全身の節々が軋むように痛み、喉がカラカラに乾いている。  重たい瞼を持ち上げると、視界の端に赤い染みが見えた。  カーペットに落ちた、赤黒い点々。  それは昨夜、自分が指を切ったときの血痕だと気づくまで、数秒を要した。

夢であってほしかった。  健吾に別れを告げられたことも、半狂乱になって部屋中の物をゴミ袋に詰めたことも、そして何より――あの大切なものを壊してしまったことも。

けれど、目の前にある現実が、容赦なく紬を打ちのめす。  散乱したゴミ袋の山。その中心に、ハンカチに包まれたまま放置された、白い破片の塊がある。  祖母がくれた、白磁の小鳥。  もはや鳥の形すら留めていない、ただの磁器の死骸。

「……あ」

声にならない吐息が漏れた。  身体を起こそうとして、床についた右手に激痛が走る。中指の腹がぱっくりと割れ、血が滲んでいる。昨夜、破片をかき集めた時に切った傷だ。  ズキズキと脈打つ痛みが、かえって頭を冷やした。


時計を見ると、午前十時を過ぎている。  無断欠勤だ。  社会人になって十一年、インフルエンザで倒れたとき以外、一度も穴を空けたことのない自分が。  携帯電話を見ると、会社からの着信が五件、後輩からのLINEが数件入っていた。健吾からの連絡は、当然のように一件もない。

紬は震える指で会社に電話をかけた。 「……すみません、体調が優れなくて。今日、お休みをいただけますか」  掠れた声は、演技をする必要もないほど弱りきっていた。  上司の心配する声を適当にやり過ごし、通話を切る。  「強い相原さん」の経歴に、小さな泥がついた。けれど、今の紬にはそれを気にする気力さえ残っていない。

這うようにして、ハンカチに包まれた破片を手に取った。  ジャラリ、と乾いた音がする。その音が胸を刺す。  元に戻さなきゃ。  これだけは。この小鳥だけは。  健吾との関係はもう修復不可能でも、この小鳥さえ直れば、崩れ去った自分の人生の土台を、なんとか繋ぎ止められる気がした。  これはただの置物じゃない。私が私であるための、最後の尊厳だ。


紬はスマートフォンを握りしめ、検索窓に文字を打ち込んだ。  『陶器 修理』  『磁器 割れた 直す』  『東京 修復』

画面には無数の接着剤の広告や、修理業者のサイトが表示される。  「強力接着」「即日対応」「安価で元通り」  並ぶ言葉が、ひどく安っぽく見えた。ホームセンターで接着剤を買ってきてくっつければ、形にはなるかもしれない。でも、それでは駄目なのだ。  この傷は、私の罪だ。  安易な接着剤で誤魔化していいものじゃない。もっと丁寧に、償うように直さなければ、祖母に顔向けができない。

スクロールを続ける指が、ふと止まった。  検索結果の下の方に、ひっそりと表示されたページタイトル。

『金継ぎ・古道具修復 一ノ瀬』

派手な宣伝文句はない。ただ、トップページに一枚、ひび割れた黒い茶碗の写真があるだけだ。そのひび割れには、金色の線が走り、まるで稲妻のような、あるいは川の流れのような美しい景色を描き出している。  添えられた短い文章に、目が吸い寄せられた。

――器の声を聞き、あるべき姿へ繋ぎます。  ――割れた事実は消えません。しかし、傷を愛でることはできます。

傷を、愛でる。  今の紬にとって、最も遠く、そして最も欲しかった言葉だった。  場所は、ここから電車で三十分ほどの、下町エリアにあるらしい。  「完全予約制」の文字を見て、紬は迷わず記載された番号をタップした。


コール音が三回鳴り、ガチャリと通話が繋がる。 『はい、一ノ瀬です』  低く、落ち着いた男の声だった。  事務的な冷たさはなく、かといって接客業特有の愛想の良さもない。静かな湖の水面のような声。

「あ、あの……はじめてお電話します。修理をお願いしたいものがあって」  自分の声が震えているのが分かった。 『どのような物でしょうか』 「磁器の、置物です。あの、私が……不注意で落としてしまって。粉々なんです。すごく大切なもので、祖母の形見で……」

聞かれてもいない事情を早口でまくし立ててしまう。そうでもしないと、涙声になりそうだった。  電話の向こうの相手は、紬の焦燥を受け止めるように、一拍置いてから答えた。

『拝見しないと確実なことは言えませんが……一度、お持ちいただけますか。今日の午後はいかがでしょう』 「行きます。すぐ、行きます」


電話を切ると、紬は洗面所へ向かった。  鏡に映った自分の顔は、ひどいものだった。目は泣き腫らして赤く充血し、肌は土気色。髪も乱れている。  三十三歳。もっと大人で、余裕のある女性になっているはずだった年齢。  今の自分は、迷子になった子供よりも頼りない。

シャワーを浴び、最低限のメイクをする。  腫れた目を隠すために、少し濃いめのアイシャドウを塗り、伊達眼鏡をかけた。  黒のパンツスーツではなく、柔らかいベージュのニットとロングスカートを選ぶ。もう今日は、戦うための鎧を着たくなかった。  小鳥の破片を、新しいタオルで丁寧に包み直し、硬い化粧箱に入れる。  まるで、小さな棺桶を運ぶような気持ちだった。


地下鉄を乗り継ぎ、たどり着いたのは、開発から取り残されたような古い町並みだった。  駅から十分ほど歩くと、細い路地が入り組んだ一角に出る。  雨上がりのアスファルトの匂いと、どこかの家から漂う煮物の匂い。  Googleマップが示す先に、つたの絡まる古い二階建ての日本家屋があった。  元は工務店か何かだったのだろうか。木製の引き戸の横に、真鍮しんちゅうの小さな表札で『一ノ瀬』とだけある。

ここだ。  紬は一度深呼吸をして、震える指でインターホンを押した。  奥から足音が近づいてくる。  ガラガラ、と引き戸が開いた。

「お待ちしていました。相原さんですね」

現れたのは、意外なほど若い男だった。  三十歳前後だろうか。職人という言葉から想像していた頑固親父のような風貌ではない。  身長は高く、線が細い。洗いざらしの白いシャツに、藍色の作業用エプロンをつけている。  髪は無造作で少し長く、目にかかりそうになっているが、その隙間から覗く瞳は、ガラス玉のように淡い茶色をしていた。  整った顔立ちだが、どこか生気がないというか、感情のスイッチを一つ切っているような、静謐せいひつな印象を受ける。

「……はい、相原です。急に申し訳ありません」 「どうぞ、中へ。足元に気をつけて」

通された土間は、ひんやりとしていた。  高い天井。使い込まれた木のカウンター。壁には様々な形状ののみや筆が整然と並べられている。  工房特有の、うるしと木の混ざった独特の香りが鼻腔をくすぐった。不思議と、心が鎮まる香りだ。  奥には大きな作業机があり、いくつかの器が並んでいるのが見える。

「こちらへ」  カウンターの前の丸椅子を勧められ、紬は腰を下ろした。  一ノ瀬と呼ばれたその男――一ノ瀬蓮れんは、カウンターの向こう側に立ち、静かに紬を見つめた。

「お電話で仰っていたものを見せていただけますか」

紬は膝の上の化粧箱を開け、包みを解いた。  露わになった白磁の残骸。  明るい場所で見ると、その惨状はいっそう際立った。胴体は三つに割れ、翼の先は粉砕し、くちばしの部分はどこへ行ったのか分からないほど細かい欠片になっている。

蓮は無言で白い手袋をはめると、ピンセットで破片の一つをつまみ上げた。  その手つきは、外科医のように慎重で、聖職者のように敬虔けいけんだった。  彼は破片の断面をルーペで確認し、パズルのように空中で組み合わせようとする。

沈黙が痛い。  紬は耐えきれずに口を開いた。

「あの……直りますか?」

蓮は視線を破片に落としたまま、淡々と答える。

「割れ方は複雑ですが、断面は綺麗です。欠損している部分も、錆漆さびうるしで埋めれば形にはなるでしょう」 「じゃあ、元通りになるんですね!」

声が弾んだ。  よかった。直るんだ。これが直れば、私の失敗も帳消しになる。  昨夜のあの狂気じみた行動も、なかったことにできる。  そう思った瞬間、蓮が手を止めた。  ゆっくりと顔を上げ、色素の薄い瞳で紬を射抜く。


「いいえ」

否定の言葉は、短く、冷たかった。

「元通りには、なりません」 「え……? でも、今、形になると」 「形にはなります。でも、割れる前の状態に戻るわけではありません。傷は残りますし、強度は変わります。何より、一度死んだものが生き返るわけではない」

突き放すような言葉だった。  紬の顔から血の気が引くのが自分でも分かった。  健吾の言葉がフラッシュバックする。  『君は一人でも大丈夫だ』  『元には戻れない』  ここでもまた、拒絶されるのか。

「じゃあ……傷跡が残るってことですか。継ぎ接ぎだらけの、汚い見た目になるってことですか」  紬の声に、非難の色が混じる。焦りと恐怖で、余裕がなくなっていた。 「そんなの嫌です。これは大事なものなんです。傷なんて見たくない。なかったことにしたいんです。お金ならいくらでも出しますから、どうか綺麗に――」

「相原さん」

蓮が静かに、しかし強い声で紬の名を呼んだ。  その声に遮られ、紬は口をつぐむ。

「『金継ぎ』というのは、傷をなかったことにする技術ではありません」

蓮はピンセットを置き、カウンターに両手をついた。  その視線は、決して紬を責めてはいなかったが、甘やかすこともなかった。

「傷を隠すのではなく、傷を受け入れ、その上に漆を塗り、金粉をく。傷を『景色』としてあえて目立たせ、新しい美しさを生み出す。それが金継ぎです」

「景色……?」

「はい。この小鳥は、割れてしまった。それは変えようのない事実です。どんなに巧みに接着しても、内部の亀裂は消えない。だとしたら、その亀裂を隠して『無傷のフリ』をさせるより、亀裂ごと愛してやる方が、この子にとっては幸せなんじゃないですか」

亀裂を隠して、無傷のフリをする。  その言葉が、鋭い棘となって紬の胸に刺さった。  それは、まさしく紬自身のことだったからだ。    『紬は強いから』  そう言われるたびに、弱さを隠した。  寂しさを、不安を、疲れを、笑顔という漆で塗り固めて、平気なフリをしてきた。  その結果が、これだ。  中身はボロボロにひび割れているのに、外側だけ取り繕って、結局は誰にも中身を見てもらえずに捨てられた。


視界が急速に滲んだ。  あ、駄目だ。こらえられない。  見知らぬ男の前で、しかもこんな仕事の依頼の場で泣くなんて、社会人失格だ。  紬は必死に唇を噛み、涙を飲み込もうとした。

その時、蓮がふいに視線を落とした。  紬の右手に。  絆創膏だらけの指先に。

「……痛かったでしょう」

それは、小鳥のことではなかった。  明らかに、紬自身に向けられた言葉だった。

「これだけ粉々になるまで、何か強い力が加わったはずです。……それを拾い集めるとき、痛かったでしょう」

なぜだろう。  「どうして割ったんですか」と責められると思っていた。  「大切なものなら気をつければよかったのに」と呆れられると思っていた。  なのに、この人は。  加害者である紬の、指先の痛みを気遣った。

「……痛く、ないです」

紬は嘘をついた。  涙が頬を伝って落ちた。一度溢れ出すと、もう止まらなかった。

「痛くないわけ、ないじゃないですか」 「痛くないんです……だって、私が悪いから。私が八つ当たりして、彼氏の荷物を捨てようとして、それで間違って……!」

言わなくていいことまで、口走っていた。  プライドも何もかも、決壊していた。

「捨てられたんです。三年付き合った人に。私が強くて可愛げがないからって。だから、全部捨ててやろうとしたのに、一番大事なものだけ壊して……私、最低なんです。直る資格なんてないんです」

子供のようにしゃくりあげながら、紬はカウンターに突っ伏した。  情けない。恥ずかしい。  でも、誰かに聞いてほしかった。  「強い」と言われて突き放された私の中にいる、泣き虫で弱い子供の声を。


長い沈黙があった。  工房には、紬の嗚咽だけが響いていた。  蓮は何も言わなかった。慰めの言葉も、ハンカチを差し出すこともしなかった。  ただ、紬が泣き止むのを、静かに待っていた。  漆が乾くのを待つように。時間が解決するのを信じているかのように。

どれくらいの時間が経っただろうか。  涙が枯れ果て、紬はゆっくりと顔を上げた。  化粧は崩れ、目は真っ赤だろう。最低の顔だ。

蓮は、先ほどと変わらない表情でそこにいた。  そして、コトリ、と湯気の立つマグカップをカウンターに置いた。  コーヒーの香りが漂う。

「……ごめんなさい。取り乱して」 「いいえ。泣きたいときは、割れるほど泣けばいい」

蓮は自分の分であろうコーヒーを一口飲み、言った。

「お引き受けします。この小鳥」 「え……」 「ただし、条件があります」 「条件?」 「時間はかかります。三ヶ月、あるいはもっと。漆は生き物ですから、急かすことはできません。そして先ほど言った通り、傷跡は残ります。金の線が入ります」

蓮は指先で、空中に線を描いた。

「それでも、直しますか? 新しい姿になることを、許せますか?」

新しい姿。  傷を隠さず、金の線で飾った姿。  それは、今の紬にはまだ想像できない。けれど、「元通り」を目指して苦しんできた自分とは違う、何かがそこにあるような気がした。

「……お願いします」  紬は頭を下げた。 「その子を、助けてやってください」

「承知しました」

蓮は初めて、わずかに口元を緩めた。  それは微笑みというにはあまりに微かで、けれど確かな体温を感じさせる表情だった。

「お預かりします。……まずは、この破片たちの声を聞くところから始めましょう」

蓮が小鳥の破片を、そっとてのひらで包み込む。  その手つきは、傷ついた雛鳥を温めるようで、見ている紬の胸の奥までじんわりと熱が伝わってくるようだった。

外に出ると、空はまだ明るかった。  けれど、来る時よりも空気は澄んでいる気がした。  手ぶらになった手が、少し寂しい。でも、あの工房に預けてきたという事実が、細い糸となって紬を繋ぎ止めていた。

直るかもしれない。  元通りにはならなくても。  違う形になら、なれるかもしれない。

紬は深く息を吸い込み、駅へと歩き出した。  切れた指先の痛みは、まだ消えていない。けれど、その痛みさえも、今は自分が生きている証拠のように思えた。    これが、長い修復の時間の始まりだった。


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