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さよならの夜に、金の糸を繋ぐ  作者: 久遠 睦


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さよならの夜に、金の糸を繋ぐ

第一章:呪いの言葉


雨の音が聞こえる。  十月の冷たい雨が、窓ガラスを叩く規則的な音。それが、リビングに沈殿した重苦しい沈黙を、さらに冷たく冷やしていくようだった。  ダイニングテーブルの上には、冷めきった豚肉の生姜焼きと、湯気の消えた味噌汁が並んでいる。向かいに座る男は、箸をつけようともしない。ただ、自身の膝の上で握りしめた拳を、じっと見つめているだけだ。

相原紬あいはら つむぎは、その拳の白さを他人事のように眺めていた。  これから放たれる言葉を、予感していたからかもしれない。喉の奥に、乾いた石が詰まったような不快感がある。

「……ごめん」

最初に落ちたのは、謝罪だった。  その三文字が、三年間の同棲生活の終わりを告げる号砲だと、紬は瞬時に理解した。

「好きな人が、できたんだ」

婚約者である健吾の声は、震えていた。  なぜ、あなたが被害者のような顔をするの。なぜ、刺す側の人間が、刺される側の人間よりも痛そうな顔をして身を縮こまらせているの。  紬の心の中に浮かんだ問いは、声になる前に消えた。ここで叫んだり、泣きわめいたりしてはいけないと、三十三年間培ってきた理性がブレーキをかける。  インテリアコーディネーターとして、数々の現場トラブルを冷静に収めてきた職業病かもしれない。「問題が発生しました。対処してください」と、脳内の司令塔が淡々と告げている。

「……誰?」

絞り出した声は、自分でも驚くほど低く、落ち着いていた。  健吾が一度だけ視線を上げ、すぐに逸らす。

里緒りおちゃん」 「え?」

予想外の名前に、思考が一瞬停止した。  井上里緒。紬が勤めるデザイン事務所の後輩だ。入社二年目。仕事は遅いし、ミスも多いが、愛嬌だけは天下一品で、社内のマスコット的な存在の女の子。  先週の金曜日も、彼女のミスで発注漏れがあり、紬がメーカーに頭を下げて回ったばかりだった。その時、彼女は泣きじゃくりながら「相原先輩がいてくれてよかったぁ、私もうダメかと思いましたぁ」と紬の袖を掴んでいたはずだ。

「なんで……井上さんなの」 「相談に乗ってたんだ。仕事で、紬にいつも怒られて辛いって」 「怒ってないわ。指導よ。彼女のミスをカバーしてるのは私なのよ」 「分かってる。紬が正しいのは分かってるんだ」

健吾が顔を歪めた。まるで、その「正しさ」こそが、彼を追い詰める凶器であるかのように。

「でも、あの子は俺がいないと駄目なんだ。雨の日に傘を持っていくことさえ忘れるし、一人じゃ何も決められない。俺がついててあげなきゃって、そう思うんだよ」

紬は、テーブルの下で自分の指先を強くつねった。  爪が皮膚に食い込む痛みを頼りに、意識を保つ。  健吾は、大手電機メーカーの営業職だ。優しくて、穏やかで、少し優柔不断なところがあるけれど、そこが彼の良さだと思っていた。紬がリードし、彼が微笑んでついてくる。そんな関係が心地よかったはずだ。  来年の春には結婚式を挙げる予定だった。式場の手付金も払い済みだ。ドレスの試着には、来月行くはずだった。

「私は?」

問いかけた声が、わずかに震えた。

「私は、健吾がいなくても平気に見える?」

健吾は長い沈黙の後、残酷なほど真っ直ぐに紬を見た。  その瞳に宿っていたのは、愛情でも憎悪でもなく、諦めのような信頼だった。

「紬は強いから」 「……え」 「君は一人でも大丈夫だよ。仕事もできるし、精神的にも自立してる。僕がいなくなっても、君の人生は揺るがないだろう?」

頭を殴られたような衝撃だった。  強いから、大丈夫。  自立しているから、一人でいい。  それは、紬がこれまでの人生で、周囲から称賛として贈られてきた言葉だった。  『相原さんはしっかりしてるね』『姉御肌だね』『一人で何でもできてすごいね』  そう言われるたびに、期待に応えようと背筋を伸ばしてきた。弱音を吐くのは甘えだと、自分を律してきた。  けれど、まさか一番愛した人から、別れの理由としてその言葉を突きつけられるなんて。

「なにそれ……」

乾いた笑いが漏れた。

「強かったら、傷つかないとでも思ってるの? 一人で生きられる能力があったら、誰かと一緒にいたいと願っちゃいけないの?」 「違う。そうじゃないけど……彼女と比較した時に、優先順位が」 「優先順位」 「あの子は、今にも壊れそうなんだ。放っておけない」

勝負はついていた。  美しさでも、賢さでも、優しさでもない。「弱さ」という武器の前で、紬の「強さ」は完全に敗北したのだ。  守りたいと思わせる女と、守る必要がない女。  健吾にとって、紬は後者だった。ただそれだけのこと。

「……出て行って」

これ以上、惨めな言葉を聞きたくなかった。  健吾は何か言いかけたが、紬の氷のような視線に気圧され、立ち上がった。  寝室へ行き、あらかじめまとめてあったのだろう、ボストンバッグを一つ持って戻ってくる。用意周到なその行動が、また紬の心を抉った。この話し合いは、彼の中ではとっくに終わっていたことなのだ。

「鍵、ここに置いておくから」

合鍵がテーブルの上に置かれる音。  カチャリ、という硬質な響きが、二人の三年間の終了を告げるベルのように聞こえた。

「ごめん。……幸せになれよ」

無責任な捨て台詞を残して、健吾は玄関へ向かった。  ドアが開く音。雨の音が一度大きくなり、バタン、と閉ざされる。  あとには、死のような静寂だけが残された。

紬は動けなかった。  涙も出なかった。ただ、身体中が冷たかった。  テーブルの上の生姜焼きが、白い脂を浮かべて固まっている。二人で食べるはずだった夕食。二人で生きるはずだった未来。  全てが、この冷たい脂のように凝固して、喉を通らないゴミへと変わってしまった。

「……バカみたい」

誰もいない部屋で、紬は呟いた。  強いから大丈夫?  ふざけないで。  私は、あなたが帰ってくる時間を逆算して料理を作り、あなたのワイシャツにアイロンをかけ、あなたが仕事で落ち込んでいれば一晩中話を聞いた。  私が強かったんじゃない。  あなたとの生活を守るために、必死で立っていただけだ。  その努力が、その献身が、「一人でも大丈夫」という言葉に変換されて返ってきた。

努力が報われないことなんて、仕事ではよくあることだ。  でも、愛でもそうだなんて、あんまりじゃないか。

紬は立ち上がり、冷めた料理をシンクへ運んだ。  皿を洗う手は震えていたが、決して皿を割ることはなかった。こういう時でも、丁寧に皿を洗ってしまう自分の習性が憎らしかった。  泣き叫んで皿を壁に投げつけられたら、どんなに楽だろう。  でも、三十三歳の相原紬は、そんなドラマのような真似はできない。明日は月曜日で、朝九時からクライアントとの打ち合わせがあるのだから。

翌朝、紬はいつもより十五分早く起き、念入りにメイクをした。  泣かなかったおかげで、目は腫れていない。コンシーラーで目の下の隈を隠し、血色の良いリップを引く。鏡の中にいるのは、いつもの「仕事ができる相原チーフ」だ。  鎧を着るような気持ちでジャケットに袖を通し、ヒールの音を響かせて家を出た。


オフィスに入ると、すでに空気が弛緩していた。始業前の雑談タイムだ。  その中心に、彼女はいた。  井上里緒。ふわふわとしたニットに身を包み、男性社員たちに囲まれて笑っている。  その笑顔を見た瞬間、紬の胃のあたりが焼けつくように痛んだ。

(ああ、あの子か) (あの子が、私の未来を奪ったのか)

彼女の小指には、見覚えのないピンキーリングが光っている。もしかしたら、健吾が贈ったものかもしれない。そう思うと、吐き気がした。

「あ、相原センパイ! おはようございますぅ」

里緒が紬に気づき、小走りで駆け寄ってきた。  その屈託のない笑顔。自分が何をしたのか、おそらく微塵も理解していない無邪気さ。  それが一番、残酷だった。  彼女にとって、健吾との恋は「素敵な人とお付き合いすることになった」というハッピーエンドでしかないのだ。その裏で、三年付き合った婚約者が血を流していることなど、想像も及ばないのだろう。

「おはよう、井上さん。先週の発注書の修正、終わってる?」 「あ……えっと、まだ途中ですぅ。すみません、昨日ちょっと色々あって」

色々あって。  その言葉の意味を、紬だけが知っている。  あなたが「色々」していたその時間、私は人生のどん底に突き落とされていたのよ。

「午前中までに終わらせて。午後から打ち合わせでしょう?」 「はぁい……相原センパイ、今日なんか機嫌悪くないですかぁ?」

里緒が首を傾げる。  ここで「あなたのせいで婚約破棄されたのよ」と叫んで、彼女の髪を掴み上げたら、どんなにスッキリするだろう。社内は大騒ぎになり、里緒は被害者面で泣き、紬はヒステリックな悪役としてレッテルを貼られる。  そして健吾は、「やっぱり里緒を守らなきゃ」と確信するのだ。  そんな負け戦はしない。

「機嫌なんて悪くないわ。仕事の話をしてるの」 「うう、すみません。すぐやりますぅ」

里緒が席に戻ると、男性社員の一人が「相原さん、朝から厳しいなぁ」と苦笑交じりに言った。  紬は無視して、自分のデスクに向かった。  PCを起動し、メールチェックを始める。画面上の文字を目で追うが、内容は全く頭に入ってこない。  キーボードを叩く指先が、冷え切っている。

(私は、強い) (こんなことで、仕事に穴は空けない)

心の中で呪文のように繰り返す。  けれど、オフィスの中で里緒の甘えた声が聞こえるたびに、健吾の言葉がリフレインする。  『あの子は俺がいないと駄目なんだ』  『君は一人でも大丈夫だよ』

昼休み、紬は逃げるように外に出た。  食欲はなく、近くの公園のベンチに座り込んだ。  空は昨日の雨が嘘のように晴れ渡っている。その青さが恨めしい。  スマホを取り出し、連絡先リストを開く。  『健吾』の名前。  発信ボタンを押せば、繋がるかもしれない。縋りついて、泣いて、「悪いところは直すから」と言えば、戻ってきてくれるかもしれない。  でも、戻ったとして、彼はまた別の「守ってあげたい女」が現れたら、そちらへ行くだろう。  一度、「強いから大丈夫」という免罪符を手に入れた男は、何度でもそれを使う。

「……消さなきゃ」

紬は震える指で、削除ボタンを押そうとした。  でも、指が動かない。  三年間の記憶が、指先を止める。  初めて行った旅行。風邪を引いた時に作ってくれた不格好なお粥。誕生日にくれた指輪。  それらは全て、確かに愛だったはずなのだ。  いつから、その愛は「重荷」に変わったのだろう。いつから、紬の「しっかりしているところ」は「可愛げがないところ」にすり替わったのだろう。

結局、連絡先を消せないまま、昼休みが終わった。


残業を終えて帰宅したのは、二十二時を過ぎていた。  鍵を開け、暗い部屋に入る。  「ただいま」と言う相手はいない。  自動点灯するセンサーライトが、無機質に玄関を照らす。  靴を脱ぎながら、紬の心の中で張り詰めていた何かが、プツリと音を立てて切れた。

視界に入るもの全てが、憎かった。  玄関に並んだ、彼の靴の跡。  洗面所に残された、ペアの歯ブラシの片割れ。  冷蔵庫に貼られた、二人で行った映画の半券。

この部屋は、思い出の墓場だ。  息をするだけで、過去の幸せな記憶が肺に入り込み、内側から腐らせていく。

「……いらない」

紬は呟いた。

「もう、全部いらない」

バッグを床に放り出し、キッチンの収納から四十五リットルのゴミ袋を取り出した。  一枚、二枚、三枚。  広げた袋を床に並べ、手当たり次第に物を放り込み始める。

彼が置いていった雑誌。ゴミ箱へ。  お揃いで買ったクッション。ゴミ箱へ。  去年のクリスマスに貰ったネックレス。箱ごとゴミ箱へ。

高価なものもあったはずだが、躊躇いはなかった。  むしろ、高価なものほど捨てたかった。金で買える思い出など、何の価値もないと証明するように。  写真は破りもせずに袋へ突っ込む。破る時間すら惜しい。一秒でも早く、この部屋から「彼」の気配を消滅させたかった。

涙は出なかった。  代わりに、どす黒い怒りが腹の底から湧き上がってくる。  ふざけるな。ふざけるな。  私がどれだけ我慢したと思ってるの。  私がどれだけ、あなたの夢を応援したと思ってるの。  それを、「強いから」の一言で片付けて、若い女に乗り換えるなんて。

リビングの棚にある物を、腕で薙ぎ払うようにして落とす。  ガシャ、ガシャ、と物がぶつかる音が、破壊衝動を煽った。  もっと壊したい。もっと捨てたい。  空っぽになりたい。

棚の奥、大切にしまっていた木箱に手が伸びる。  中身を確認する余裕もなかった。  ただ、そこにある「過去の遺物」を排除したかった。


勢いよく手を振り払う。  肘が何かに当たった、硬い感触。  一瞬遅れて、重力に従って落ちていく白い影。

スローモーションのように、時が引き伸ばされる。  落下していくそれが、光を受けて白く輝く。    ――あ。

喉の奥で、短い悲鳴が上がった。  それは、健吾との思い出の品ではなかった。  それだけは、絶対に捨ててはいけないものだった。

カシャン。

硬質で、高く、あまりにも儚い音が、夜の部屋に響き渡った。

紬は凍りついたように動きを止め、恐る恐る床を見下ろす。  そこには、無惨な姿になった白磁の塊が散らばっていた。  首が折れ、翼が砕け、もはや原形を留めていない。  けれど、紬には分かった。  それが、二十歳の誕生日に、今は亡き祖母が贈ってくれた「幸せを運ぶ小鳥」の置物だと。

『紬、鳥はね、どんなに強い風が吹いても、翼があるから飛べるのよ。あなたがいつか辛い目に遭って、飛べなくなりそうになっても、この鳥が代わりに空を見てくれるわ』

入院中だった祖母の、皺だらけの温かい手。  その温もりごと、自分の手で叩き落としてしまった。  彼への怒りに任せて。自分の惨めさを晴らすための暴力で。

「……うそ」

紬はその場に崩れ落ちた。  鋭利な破片を拾い上げようとして、指先を切る。  赤い血が、白い磁器に滲んでいく。

「ごめんなさい……おばあちゃん、ごめんなさい」

どうでもいい男の荷物は、布やプラスチックばかりで壊れなかった。  なのに、世界で一番大切で、守りたかった祖母の形見だけが、身代わりのように砕け散った。  それが、今の自分の姿そのものに見えた。  強がって、平気なふりをして、中身はこんなにも粉々に砕けている。

痛みを感じて、ようやくダムが決壊した。  喉から獣のような嗚咽が漏れる。   「うあああああああ!」

誰もいない部屋で、三十三歳の女が、子供のように泣き叫ぶ。  ゴミ袋の山と、砕けた小鳥の死骸に囲まれて。  この夜、相原紬の時間は止まった。  そして、止まった時間の中で、彼女は自分が「一人では大丈夫ではない」ことを、痛いほど思い知らされていた。




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