「図書館」「バイオリン」「チョコレート」
【冬の図書館とバイオリン】
雪の降る午後、駅から少し離れた古い図書館に足を踏み入れた。
重い木の扉を開けると、暖房の温かい空気と、紙とインクの匂いがふわりと鼻をくすぐる。今日はただ、勉強のために来たはずだった。
奥の閲覧席に座ると、どこからか細いバイオリンの音が聞こえてきた。音色は柔らかく、しかし少しだけ寂しさを帯びている。図書館で楽器を弾く人なんているはずがないと思いながらも、僕は音の方へ足を向けた。
階段を上がり、古書のコーナーの奥まで行くと、開け放たれた小部屋があった。窓際に、一人の女性が座っている。
黒いコートを肩にかけ、膝の上にバイオリンを抱えていた。弓を引くたび、外の雪が音に合わせて舞っているように見える。
演奏が終わると、彼女はこちらを振り返った。
「…ごめんなさい、うるさかった?」
「いえ、すごくきれいな音でした」
そう答えると、彼女は少し照れくさそうに笑った。
机の上には開きっぱなしの楽譜と、銀紙に包まれたチョコレートがあった。
「食べる?」
促されて一粒受け取る。甘さとほろ苦さが舌に広がった瞬間、バイオリンの音色が頭の中で再生されるような不思議な感覚があった。
「ここで弾くの、変だよね。でも、図書館って音を出しちゃいけないところだからこそ、弾きたくなるの」
彼女は冗談めかして言ったが、その瞳はどこか遠くを見ていた。
「音大を辞めてから、人前で弾くことが怖くなって…でも、雪の日だけはこうしてこっそり弾くの」
僕は席に戻るつもりだったが、気づけば彼女の話をもっと聞きたくなっていた。
「どうして音大を辞めたんですか?」
彼女は少し間を置き、チョコレートの包み紙を指で折りたたみながら答えた。
「コンクールで大きなミスをして、それから…舞台に立つと手が震えるようになったの。音楽が好きなのに、怖くて弾けないなんて、おかしいでしょ」
僕は何も言えなかった。ただ、机の上の楽譜に目をやった。知らない曲名が書かれている。
「それ、弾いてもらえますか?」
「…笑わない?」
「笑いません」
彼女は深く息を吸い、弓を弦に置いた。音が部屋に満ちる。さっきよりも力強く、しかしどこか脆い。途中で弓先がかすかに震えるのが見えた。僕は思わずチョコレートをもう一粒口に放り込み、その甘さで彼女の緊張が少しでも溶ければと願った。
曲が終わると、彼女は小さく肩をすくめた。
「ほら、震えてる」
僕は笑わず、ただ拍手を送った。
「すごくよかったです。雪の日だけなんてもったいない」
「ありがとう。でも…人に聴かせるのは、やっぱり怖い」
窓の外、雪は少しずつ止みかけていた。
「じゃあ、僕が聴きます。雪の日じゃなくても」
思わずそう口にすると、彼女は驚いたように目を丸くした。
帰り際、彼女は銀紙に包まれたチョコレートを数粒、僕のポケットに入れた。
「また聴きに来てくれたら、そのときもあげる」
図書館の静けさに、バイオリンの余韻とカカオの香りが溶けていった。
駅までの道、ポケットの中のチョコレートがやけに温かかった。