「駅」「スマホ」「包丁」
【切符と刃と画面の光】
夜の駅は、昼間の喧騒をすっかり失っていた。発車案内の電光板は、あと十五分後に来る終電を示している。
僕はベンチに腰をかけ、スマホの画面をぼんやり見つめていた。冷たい金属のような青白い光が、指先と顔を照らす。SNSのタイムラインを流しても、頭に入らない。
鞄の中には、今日受け取ったばかりの一本の包丁が入っている。長い黒いケースに収められたそれは、研ぎたての刃を持ち、料理人を目指していた父が愛用していたものだ。父は三か月前に他界し、母から「お前が持っておきなさい」と手渡された。
料理人になる夢は、僕も持っていた。でも、その夢は父と同じように、台所の熱と匂いの中で生きる自信をなくし、大学進学を選んだあの日に、そっと引き出しの奥にしまったつもりだった。
「それ、重くない?」
不意に声をかけられ、顔を上げる。反対側のベンチに、見知らぬ女性が立っていた。髪は短く、肩から小さなリュックを提げている。
「え?」
「鞄、すごく大事そうに抱えてるから」
僕は一瞬言葉に詰まり、曖昧に笑った。「…まあ、大事なものなんで」
彼女は距離を詰めてきて、僕の隣に腰を下ろす。
「私もね、大事なものを持ってるの」
そう言ってスマホを見せる。画面には、料理の写真が並んでいた。和食、洋食、デザートまで、色とりどりの料理が整然と並んでいる。
「これ、全部自分で作ったの?」
「うん。…でも、もう作れないんだ」
彼女は笑ってみせたが、その声は少し震えていた。理由を聞く前に、発車ベルが鳴る。
電車はガラガラで、二人並んで座った。車内灯が窓に映る。
「包丁…見せてくれる?」
僕は少し迷ったが、ケースを開けて渡した。彼女は丁寧に刃を眺め、指で柄をなぞった。
「すごくいい包丁だね。…研ぎ方もきれい」
「父が使ってたんです。料理人でした」
「じゃあ、お父さんの味を知ってるんだ」
僕はうなずいた。「でも、俺はもう料理は…」
言いかけて口をつぐむと、彼女は窓の外に視線を向けた。
「私ね、事故で利き手を傷めたんだ。包丁もフライパンも、前みたいには使えない。だから、スマホに残ってる写真が、料理と私をつなぐ全部なの」
淡々とした口調だったが、指先は画面を滑るたびに小さく震えていた。
「でも、もう一度作りたい。写真の中だけじゃなくて、あの匂いや音を感じたい」
電車は海沿いに差しかかった。夜の海は真っ暗で、波の音だけが窓の向こうから届くようだった。
「ねえ、その包丁、今は誰のもの?」
唐突な問いに、僕は少し戸惑った。「…俺の、です」
「だったら、使わないのはもったいない」
「でも、もう夢は…」
「夢じゃなくてもいい。ただ、切ってみなよ。誰かのために」
その言葉は、海の匂いと一緒に胸に残った。父が包丁を研ぐ音、まな板を打つリズム、出汁の香り――全部が頭の奥で蘇った。
終電が終点に着く。駅の外は、静かな住宅街。
「じゃあ、私はここで」
彼女はスマホの画面を僕に向け、そこに表示されたアドレスを指差した。
「料理、できたら写真送って。食べに行くから」
彼女はホームを歩き去った。背中が闇に溶けるまで、僕は動けなかった。
鞄の中の包丁が、妙に温かく感じた。
翌日、僕は台所に立った。何かを成し遂げるためじゃなく、ただ包丁を握るために。玉ねぎの皮を剥き、ざくざくと刻む。涙で視界が滲むのは、玉ねぎのせいだけじゃなかった。
スマホの画面には、新しい料理の写真。送信先は、あの終電で出会った彼女のアドレスだ。
包丁がまな板を打つ音が、僕の中の何かを再び動かし始めていた。