「風船」「時計」「海」
【海辺の時計】
夏の終わり、海辺の防波堤に腰をかけ、僕は膝の上の時計を眺めていた。
古びた懐中時計。錆びついた蓋の裏には、かすれた文字で「ゆめを忘れるな」と刻まれている。これは、去年亡くなった祖父がくれたものだ。
波の音と一緒に、遠くから笑い声が聞こえる。砂浜では、子どもたちが色とりどりの風船を手に走り回っていた。海風が強く、時折、ひとつの風船が空へ逃げる。それを追いかける姿は、時間に縛られない自由そのものだった。
僕は時計の針を見つめる。秒針はゆっくりと回り、やがて正午を告げる。祖父はよく言っていた。「海を見ていると、時間なんてどうでもよくなるだろう」。その言葉の意味を、今なら少し分かる気がした。
ふと、赤い風船がひとつ、防波堤の方に飛んできた。僕は慌てて立ち上がり、それを手に取る。紐の先には、小さな紙片が結ばれていた。
> ねがいごと:もう一度、あの人に会いたい
その筆跡は幼いが、文字から伝わる切実さに胸が締め付けられる。持ち主を探そうと砂浜を見渡すが、赤い風船を持っていた子はもう見当たらない。
僕は海に向かって風船を掲げた。海風が頬を撫で、風船はゆっくりと空へ昇っていく。青空と海の境目で、赤い点が小さくなるまで見送った。
懐中時計をポケットにしまい、帰ろうと歩き出す。波の音の中で、祖父の声が聞こえた気がした。
「ゆめを忘れるな」
海は今日も、時間を溶かすように輝いていた。