第1幕 夢の世界
第1幕 夢の世界
一.糸人形
ふわり――というより、すとん、と重力を抜かれたような感覚。
気づけば、天都は知らない場所に立っていた。いや、「立っている」と断言していいのかも怪しい。足元に地面はなかった。ただ、何か柔らかい空気のようなものに支えられて浮いている、そんな感じだった。
空は薄く淡い紫色に染まり、空気全体が霧のように霞んでいる。上下の感覚すら曖昧で、目に映る景色にはどこにも「地平線」がなかった。左右も、前も後ろも、すべてが遠くの影に飲み込まれていた。
「ここは……どこだ?」
自分の声が、まるで水中で喋っているかのようににじんで聞こえた。反響もない。返事も、もちろんない。
恐怖ではない。けれど、静かな違和感が体中を包んでいた。
体の重さを感じない。足を踏みしめる感覚もない。呼吸はできているはずなのに、肺の動きすら曖昧だった。
まるで現実と非現実の境目を曖昧にされたような、夢の中のような――
「……いや、まさか」
天都がそう思った瞬間だった。
ふっと、視界の端が揺れた。
そこに現れたのは、人の形をした何かだった。いや、正確には“人形”だ。
全身を細い糸で何重にも巻かれたその姿は、遠目にはミイラのようでもあり、でもどこか柔らかく、温かい雰囲気を纏っていた。
その人形は、ふわふわと空中を漂うように天都の前に近づいてきた。
顔の表情は見えない。糸で覆われているから当然だ。それでも、なぜかその存在から敵意は感じなかった。
「誰だ……?」
自然と声が出た。身構えたわけでもない。ただ、聞かずにはいられなかった。
人形は、ふわりと浮いたまま、まるで喉の奥で音を鳴らすようにして言った。
「――夢の世界ヘ、ヨウコソ」
静かな、けれど確かに言葉だった。
その声は音というより「響き」に近かった。頭の中に直接流れ込んでくるような、そんな不思議な感覚。
「夢の世界……?」
天都は目を細め、改めて辺りを見回す。確かに、この場所は「現実」とは思えない。体も浮いてるし、そもそも空が紫色をしているなんて、普通はありえない。
その時だった。人形がゆっくりと語り始めた。
「ここは、夢の世界――
現実で亡くなった者が多く集う、境界の世界だ。
ただし、まだ現実で“死んでいない者”も、極めてまれに、この場所を訪れることがある」
「死んでないのに……?」
「そう。来られるのは、“大切な人”を失った者だけ」
その言葉に、天都の胸がぐっと痛んだ。
あの子の笑顔。
あの子の声。
あの子の最後の言葉。
それらが一気に蘇り、視界が揺れる。
「……俺が、ここに来た理由か」
呟いた言葉に、人形は何も返さない。ただ静かに、揺れていた。
「ここに来た者は、みな“中学一年生の入学式”から人生を始める。
それより前の記憶は消えている。親も、家族も、いない」
「消えてる……?」
天都は思わずつぶやいた。
記憶が消える? 家族がいない? 自分は今、“誰”なのか?
「そして、この世界では“夢”という概念が存在しない。
眠っても夢は見られない。夢の中でさらに夢を見ることも、ない」
「夢の中で夢を見ない……」
ますます訳が分からなくなってくる。でも、言葉のひとつひとつが、なぜか頭の中には自然と染み込んできた。
「……で、お前は?」
「私は、“糸人形”。
この世界に来た者を最初に迎え、この世界について説明するための存在」
「自動案内機、みたいなもんか」
「そう思ってくれて構わない」
微妙に会話が成立していることにも戸惑いながら、天都は改めてこの世界のことを考えた。
ここは“夢の世界”。
自分は“彼女を失ったことで”ここに来た。
そして、今から“中学一年生”として新たな人生が始まる――。
「最後に、君がこれから通う学び舎の名を伝える」
糸人形が言う。
「君が通うのは、“星島学園”」
「どこだよ、それ!!」
天都が反射的にツッコんだ瞬間、空間が突然揺れ始めた。
視界がぐにゃりと歪む。
薄紫色の空が回転し、光が渦を巻きながら天都の身体を包み込む。
「ちょっと待っ……!」
声を上げようとしたが、喉の奥で音が潰れる。
強烈な吸い込まれるような感覚。視界が白に染まる。
――そして。
ふと気づけば、天都は立っていた。
地面がある。風がある。空がある。
そこは、現実に近い景色だった。
ただ、やはりどこか非現実的な色彩をしている。木々の葉は静かに揺れ、校門の上には、くっきりと文字が刻まれていた。
「星島学園」
まさに、今伝えられたばかりの名前だった。
天都は、自分がどうしてここにいるのかを思い出そうとした。けれど、頭はぼんやりとしていて、今の会話さえも現実だったのか曖昧になっていた。
「……なんだよこれ」
目の前には、堂々とした鉄の門。
その向こうに広がる校庭と、奥に見える校舎。
まだ何も始まっていないはずなのに、彼の中には「もう始まってしまった」という感覚があった。
ポケットに手を入れ、息をひとつ吐く。
どこか遠くで、木の葉が舞う音がした。
ここから、物語が動き始める。
二.星島学園
「……なんだ、ここ」
正門を抜けた瞬間、天都は立ち尽くしていた。
あまりにも静かだった。
蝉の声もなければ、鳥のさえずりもない。
代わりに、さらさらと乾いた葉が風に舞っていた。
校庭の隅には大きな銀杏の木があり、枝からは紅葉した葉が舞い落ちていた。
それは春の入学式とはまったく異なる光景だった。
「今日、入学式だよな……?」
誰に問いかけるでもなく、天都はぽつりとつぶやいた。
入学式といえば、春。
春といえば、桜。
そういう“常識”を思い浮かべた自分に、天都はふっと苦笑する。
「夢の世界に“常識”なんて、通じるわけないか……」
たしかに、ここは夢の世界だった。
それでもこの目に映るものすべてが、やけにリアルに感じられるのが不思議だった。
空気の匂い、葉の落ちる音、校舎に差し込む陽の光――
どれも、現実と変わらない。
ふと気づくと、他にも何人かの生徒が校門を通っていた。
全員、年齢は同じくらいに見える。
顔に見覚えはない。けれど、誰もが同じような表情をしていた。
不安と期待。戸惑いと緊張。
「初めて来た場所」に対する、自然な反応。
天都もまた、同じだった。
でも――他の生徒と、ひとつだけ違っていた。
天都には、現実の記憶が残っていた。
「変な感じだよな……。みんなは覚えてないんだろ?
自分が誰だったかも、どこで生まれたかも、何をしてたかも……」
そんな中、自分だけが知っている。
高校二年の春、彼女を失ったこと。
その喪失が、どれほど自分の世界を壊したか。
今でも彼女の声が、笑顔が、夢の奥で響いていること。
「じゃあ、これは……二度目の人生ってことか?」
誰に答えを求めるでもなく、天都はゆっくりと歩き出した。
落ち葉を踏むたび、カサッ、カサッと小さな音が鳴る。
校庭の中心には立派な校舎がそびえていた。
窓のガラスはぴかぴかに磨かれ、どこか古くて新しい、独特の雰囲気を漂わせている。
入学式の会場は、校舎の奥にある講堂だという案内が立っていた。
他の生徒たちに流されるように、天都もその講堂へと向かう。
「全員が“0”からのスタート……ね」
糸人形の言葉を思い出す。
たしかに、生徒たちは誰も「過去」を持っていない。
お互いを知るのも、初めて。
家族もいない、地元もない、前の人生もない。
すべてが、“今”から始まる。
けれど天都だけは違った。
彼の胸の奥には、明確な“前の世界”が存在している。
自分が何を失ったのか。
何のために、ここに来たのか。
なぜ、「やり直したい」と思ってしまったのか。
「……チート、みたいだな」
口元に笑みが浮かぶ。
けれど、それは優越感から来るものではない。
ただ、胸の奥で彼女が静かに笑っている気がしただけだった。
講堂の扉が開かれ、天都はゆっくりとその中へ足を踏み入れた。
中は広く、天井が高い。
白く光る照明が天井から差し込むように灯り、まるで舞台のような雰囲気を作っていた。
椅子には、すでに数十人の生徒が着席していた。
誰もが口を閉ざし、何かを待っているようだった。
その中で、天都はふと、自分がどんな顔をしているのかを意識した。
不思議と、不安はなかった。
むしろ、今の自分の顔には「自信」があった。
もちろん緊張はしていた。
でもそれ以上に、何かを“知っている”という安心感があった。
それは、これまでの人生では感じたことのない、自分への信頼だった。
――「俺は、一度、失ってる」
――「だから、もう怖くない」
天都はゆっくりと椅子に腰を下ろし、正面の壇上を見つめた。
入学式が始まろうとしている。
ここが、自分の新しい世界。
ここで、自分はもう一度、生きていく。
ふと、窓の外に風が吹いた。
紅葉がひとひら、講堂の中に舞い込む。
その葉が、天都の膝にそっと落ちて――彼は、それをそっとつまんで、微笑んだ。
「……よろしくな、“星島学園”」
三.1年い組
入学式が終わり、生徒たちはそれぞれ指定された教室へと移動していった。
天都の教室は「1年い組」。
い組、ろ組、は組――この世界では、昔ながらの“いろは”順でクラス分けがされているらしい。
「い組って……マジか。なんか寺子屋っぽいな……」
天都は苦笑しながら、講堂で渡された案内図を片手に校舎を歩いた。
廊下には派手な装飾もなければ、誰かが私語をしている気配もない。
生徒たちは静かに、自分のクラスに向かっていく。
みんなが着ているのは浴衣だった。
現実世界で見慣れた制服、たとえばブレザーや学ランはここにはない。
それでも、誰も違和感を持っていない。まるでこれが「当然」だというように。
教室の扉を開けた瞬間、天都の背筋に冷たい空気が走った。
そこには、すでに十数人の生徒が座っていた。
けれど、驚くほど静かだった。
誰も話していない。
目が合っても、そらすわけでもなく、ただ「関心がない」という空気が漂っていた。
教室内の机と椅子は整然と並んでおり、無駄がなく、機械のような整合性を持っていた。
黒板の上には、チョークで「一・い組」とだけ書かれていた。
(え……みんな無言なの?)
天都は戸惑いながら、自分の席らしき場所に腰を下ろした。
まもなく、扉が再び開いた。
静かな足音を響かせて現れたのは、一人の男性だった。
年齢は四十前後だろうか。
無造作に結ばれた黒髪に、姿勢はまっすぐ。
彼もまた、生徒たちと同じように浴衣を着ていた。
淡い灰色の柄のない浴衣は、まるで制服のようだった。
その佇まいに、一切の感情の起伏がない。
彼は何も言わず、教壇に立った。
そして、口を開いた。
「自己紹介はしないよ」
一瞬、空気が凍った気がした――が、周囲の生徒たちは誰一人として動じない。
当然のように受け止めている。
(え……は? 自己紹介なし?)
天都だけが内心で突っ込んだ。
だが、周囲の無関心ぶりに、声には出せなかった。
「君たちは、友達を作る必要はない」
その男は、低くよく通る声で続けた。
厳しい口調ではない。だが、その言葉には明らかな“壁”があった。
「むしろ、必要以上に他人と関わるな。
この学園において、君たちは全員“ライバル”だ。
比べ合い、競い合い、己を磨く。
他者と共に歩む者は、やがて足を引っ張られる」
(うわ、なんだこの人……)
天都は目を見開いた。
教室全体が異様なまでに沈黙している。
反論も、困惑もない。
先生は淡々と続けた。
「他人を信用するな。評価は個人の力で勝ち取れ。
成績がすべてだ。上位の者は優遇され、下位の者には、それに見合った指導がある」
(おいおいおい……パワハラ上司みたいなこと言い出したぞ
「私は“1年い組”を任されている坂井弥勒だ。
君たちに歩調を合わせるつもりはない。私の教室にいる限り、個を磨くことだけを考えろ」
たしかに、言っていることは“教師らしい”といえばそうかもしれない。
だが、それはあまりに冷たく、あまりに孤独だった。
「この教室では、ただ一人、自分を信じろ。
他者に期待するな。協調も、協力も、必要ない」
天都は天井を見上げたくなった。
(……この世界、マジで狂ってんじゃないのか)
笑い合う声もなければ、「よろしく」さえない。
学校に来たのに、仲間もいない。ライバルばかり。
でも、教室の誰もがその環境に順応していた。
戸惑っているのは、天都ひとりだけ。
(なんで、俺だけ……)
そうだ。
天都には「記憶」がある。
現実世界の、あの高校生活の記憶。
教室での会話、部活の放課後、彼女の笑顔――
それがまだ、体の奥に残っている。
でもここには、それがない。
最初から全部を切り離され、冷たいスタートラインだけが用意されている。
「……絶望、だな」
ポツリとつぶやいた声は、もちろん誰にも届かなかった。
授業開始の鐘が鳴る。
静かすぎる世界。
天都はその中で、小さく息を吐いた。
ここから始まる。
誰も頼れない場所で、ただ一人で立ち向かう物語が。